高田さんのいる街
ロッドユール
前編 清掃員高田さん
今日も高田さんは、山の街にあるアーバンコンフォート26のエントランスの自動ドアの窓を拭いていた。時刻は九時半を少し回ったところだった。8時から仕事を始め、マンション入り口の外構の落ち葉を掃き、従業員トイレの掃除をした後、窓を拭き始めると大体、このくらいの時間になる。いつも通りだ。
アーバンコンフォート26は、12階建て、戸数84の中型分譲マンション。ここの掃除夫として高田さんは一人、週三日、月、水、金、朝八時から夕方四時まで働いていた。
高田さんはバケツの水に、汚れたタオルをつけ、ゆすいだ。もう、水の冷たさも気にならないほどに、季節は暖かくなっていた。
「おはよう」
「おうっ」
高田さんに声を掛けてきたのは、制服姿の杏奈だった。今日は長い髪をきれいに全て後ろにまとめ、ポニーテールにしている。
杏奈はこの山の街アーバンコンフォート26の804号室の住人だ。大体、いつもこの時間に、高田さんに声を掛けてくる。
「朝ごはんは食べたか?」
高田さんが、笑顔で杏奈を見た。
「食べたわ」
「そうか」
高田さんは、笑顔のまま、また窓拭きに視線を戻した。
杏奈はなぜかここの清掃人の高田さんに懐いていた。だからいつも、高田さんが掃除をしている隣りに寄って来ては、話しかけて来た。高田さんも、そんな無邪気な杏奈をかわいがった。
「毎日それを訊くわ」
杏奈はそのクリクリとした、黒目がちなきれいな大きな目で高田さんを見る。
「そうか。はははっ」
高田さんは窓を拭きながら笑った。
「他に訊くことはないの?」
「はははっ、じゃあ、君の年はいくつだい?」
二人は知り合ってから、だいぶ月日が経つが、お互いの年を知らなかった。
「15。今年16だけど」
「そうか、じゃあ、高校一年生だな」
「そうよ。隣町の県立君影高校よ。高田さんはいくつ」
「こんな、おっさんの年訊いてどうすんだ」
「どうもしないけど、気になるわ」
「はははっ、そうか」
「ねえ、笑ってないで教えて」
「俺は、52」
「へぇ」
「なんだよ、そのリアクション」
「別に意味は無いわ。でも、思っていた年と違ってた」
「思ってた年はいくつだよ」
「45」
「ほお、うれしいね」
高田さんは相変わらず、窓とにらめっこしながら笑った。
「仕事辛くない」
高田さんのそんな仕事振りを見つめ安奈は言った。
「仕事中はいつだって、気分は最低だ」
「ふふふっ」
杏奈は笑った。
「早く、労働の無い平和な社会が来てほしいものだよ」
高田さんがおどけて言うと、杏奈は、更に笑った。
「この仕事って、お給料いいの?」
「良いわけなだろ。こんなの最賃労働だ」
「最賃労働?」
「最低賃金のことだ」
「最低賃金?」
「これ以上、下の給料で雇ってはいけませんよっていう、決まりさ」
「いくらなの」
「この地域は時給871円」
「私のコンビニバイトは時給880円だわ」
「はははっ、俺の仕事はコンビニ以下か」
高田さんは笑った。
「ほんと最低だな。はははっ」
高田さんは、杏奈と話をしながらでも窓を拭き続ける。右手に乾いたタオル。左手に濡れたタオル。汚れがあると、濡れたタオルで拭いて、乾いたタオルで拭き取る。これを繰り返し、大きなエントランスのガラス窓を拭きあげていく。
「こんなに大変な仕事なのに」
杏奈は高田さんの窓拭きしている姿を見ながら言った。
「はははっ、その言葉、ここの管理会社の上の方の人に言って欲しいね」
高田さんは笑顔のまま横目で杏奈を見た。
「週に3日、朝8時から、4時まで働いて、交通費込み、月8万5千円」
高田さんはすぐにガラスに視線を戻した。
「生活できるの?」
「できるさ。実際してる。貯金は無いけどな。はははっ」
「まあ、世間一般では生活困窮者だな」
「困窮してるの?」
「うん、困窮している。はははっ、でも、不幸じゃない」
高田さんは、そこで杏奈を見た。
「俺は不幸に見えるか」
杏奈は首を横に振った。
「はははっ、そうか。それは良かった」
高田さんは笑った。
「幸せそうに見える。いつも笑ってるし・・」
杏奈は少し伏し目がちに言った。高田さんがそんな杏奈を見下ろすように見る。
「なんだ?悩みごとか?」
そんな、杏奈の様子に高田さんが訊いた。
「・・・」
「金以外の悩みなら何でも聞くぞ。はははっ」
「・・・」
杏奈はしばらく、高田さんの隣りで、俯いていた。
「人生って何?」
杏奈は顔を上げ高田さんを見た。
「はははっ、大きく出たな」
「私は真剣よ」
杏奈は高田さんを真剣な表情で見た。
「はははっ、そうか、悪い悪い」
「本当になんだか分からないの」
「人生・・、か。う~ん、それは難しい問題だな」
高田さんはしばらく手を止め、首を傾げていた。
「勉強しろって、良い大学行けって、ちゃんと就職しろって、それが現実だって、先生やお母さんたちはみんなそう言うわ。それはなんだか違う気がするって言っても、現実を見ろって、どうやって生きるんだって、そればっかり。お金が無かったら、辛いぞって。惨めな思いするぞって。老後はどうするんだって・・」
「う~ん、まあ、正論だな」
「でも、なんだか、私は違う気がするの。うまく言えないけど・・」
「まあ、別にがんばることも悪くないし、いい大学、いい就職、いい結婚も別に悪いことじゃないけどな。それにお金が無いことは確かに辛い。はははっ、老後も不安だ」
「うん・・」
「でも、それだけじゃない。人生は。それは言えるな」
高田さんは、眉を大きく上げ、杏奈を見た。
「うん」
「それに一生懸命勉強したって、俺みたいな奴はいるさ。人生何が起こるか分からない。勉強していい大学、いい就職イコール安泰なんてのは幻想だよ」
「実際、俺の知り合いには大学出て、日雇いやってる連中なんて珍しくもない。はははっ」
「その中には、かなり良い大学出てる奴もいるぞ」
高田さんは杏奈を見た。
「うん」
「参考になったかな」
「そんな話してくれるの高田さんだけ」
「そうか。ははははっ」
でも、杏奈はやはり浮かない顔をしていた。
「自分の人生さ、どう生きるかは自分で決めればいい」
「うん」
「人生なんて人それぞれさ。生まれた時から障害を抱えてる奴もいるし、病気になる奴もいる、戦争や貧困に巻き込まれる奴、虐待や孤児、いろんな人生がある」
「うん」
そこで高田さんは、もう一度タオルをバケツの水でゆすいだ。
「ところで、君は何かやりたいことはないのかい。例えば、スポーツとか芸術とか」
高田さんはタオルをゆすぎながら杏奈を見た。
「何か強烈にうちこむこととか、のめりこむこととか」
「私は何もない」
「う~ん、そうか、ま、それも、人生さ。それはそれでいいんじゃないか」
「う~ん」
「何もせず、のんびり生きる。それも人生さ」
「う~ん、でもそれは何だかつまらない気がするわ」
「そうか。はははっ」
「私はどうしていいか分からないの」
「難しく考え過ぎなんじゃないか」
「そうかもしれない・・、でも・・」
「でも、か。はははっ、まあ、いろいろ悩む年頃さ。はははっ」
「高田さんも悩んだ?若い時」
「もちろん」
「どんな」
「君と同じようなことさ」
「ほんと?」
「ほんとさ」
「そして、どうしたの?」
「俺は好きなことをして生きるんだ。そう決めた」
「好きなことって?」
「演劇さ」
高田さんは立ち上がり、両手を広げた。
「演劇?」
「そう、演劇。人前で劇をやるんだ」
「それくらい知ってるわ」
杏奈は少し不貞腐れたような表情をした。
「はははっ、そうか」
高田さんは笑った。
「どんなのやるの」
「いろいろさ」
「高田さんが考えるの?」
「ああ、それもあるし、それ以外のもある」
高田さんは、タオルを絞ると、再び窓を拭き始めた。
「大勢でやるの」
「大勢もあるし、一人もある」
「一人でもやるの?」
「ああ」
「怖くない」
「そりゃぁ、怖いさ」
高田さんは、杏奈を見た。
「前の晩なんか眠れないよ。ステージに立つ前はステージ袖で緊張で、体がガタガタ震えるんだ。変な汗もいっぱい掻く」
「変な汗って?」
杏奈は笑った。
「変な汗は変な汗だよ。こう・・、じめっとして、ぬめっとして・・」
「やだぁ」
「おまえが訊いたんだろ」
「ははははっ」
杏奈は大笑いした。
「高田さんは独身?」
「ああ、俺は独身だ」
「寂しくない?」
「寂しいさ。でも、しょうがない」
「好きな人はいなかったの」
「いたさ」
高田さんは昔を思い出すみたいに、遠くを見た。
「とても素晴らしい恋愛をした」
自分の言葉を深く噛みしめるように高田さんは言った。
「熱く焦がれるような恋さ」
高田さんはきらきらとした情熱的な目で杏奈を見た。
「どんな。どんな感じだったの」
杏奈も目をキラキラさせて、思春期の好奇心いっぱいにその大きな目で高田さんをのぞき込むみたいに訊いた。
「本当に素晴らしい、愛だったよ。とてもとても深く深く感じるんだ。全身全霊で、心の深くから、溢れるような愛を」
高田さんは、窓を拭く手を止め、片膝を付き、情感たっぷりに雑巾を持った両手を広げ、何かを演じるみたいに感情を込めて言った。それを見て、杏奈は笑った。
「本当に大切な、大切だと思える自分以外の人を、自分の命より大事だと思える想いを持てたんだ」
高田さんは嬉しそうに言った。
「それは高田さんが愛した愛なの?それとも高田さんが愛された愛の話?」
「両方さ。お嬢さん」
高田さんはまたおどけた演技っぽく言った。
「それを経験できただけでも満足さ。そんな愛の無い人生だってあっただろうし」
「どんな人だったの」
「とても、お金持ちの女性だった。いつもベンツとか、BMWとかに乗ってうちまで来るんだ。とてもきれいな人だったよ。こう、気品のある美しさっていうのかな。その辺の顔がいいだけの女性とは違う美しさだった」
「ふ~ん」
「そして、とてもやさしかった。俺みたいな貧乏な若造を対等に見てくれた」
「どうして別れちゃったの」
「・・・」
高田さんは物思いに沈むようにしばらく黙った。
「彼女には旦那さんがいた・・」
「・・・」
「ある日、彼女からそれを聞かされた」
「・・・」
「中国に半年間、長期の海外出張をしていたんだ」
「それで・・」
「そう、それで僕たちは別れた」
「続けられなかったの。旦那さんに内緒で」
「それは、愛に対して失礼だ。真剣な愛への冒涜だよ」
高田さんは真剣な表情で杏奈を見た。
「とても短い間だったけど、僕たちは真剣だった。本当に愛しあっていたんだ。お互いの弱いところも、汚いところも全部語り合って、許し合った。誰にも言えない苦しみを自分の苦しみとして分かち合った。それはとっても尊く、純粋なことだったんだ」
「うん」
杏奈には、その時の高田さんの幸せな感じが自分が経験したみたいに分かったような気がした。
「それからはもう会ってないの」
「ああ、二度と会っていない」
「辛くなかった?」
「何度も、何度も、彼女に会いに行こうと思った。彼女と二人でどこかへ逃げようって。でも、思いとどまった」
高田さんの表情から、いつもの笑顔が消えた。
「・・・」
「身が引き裂かれそうだったよ。どれだけ、どれだけ会いたかったか」
「でも・・」
「そう、でも、行かなかった」
「それっきり・・」
「そう、それっきりだ」
「・・・」
高田さんは黙って、再び窓ガラスを拭き始めた。そんな高田さんを杏奈は見つめた。
誰も通らないエントランスに静かな時間が流れる。暖かくなってきているとはいえ、まだまだ肌寒かった。通勤時間を過ぎたエントランスは、高田さんと安奈以外、人の気配は全くなかった。
「私、学校行ってないんだ」
杏奈が、高田さんの隣りで突然呟くように言った。
「分かるよ。いつもこの時間に、ここで俺と話してんだから」
高田さんはやさしく微笑みながら言った。
「うん・・」
杏奈は、視線を落とし、しばらく黙った。
「お父さんもお母さんも知らないんだ」
「そうか」
「うち共働きで昼間誰もいないから・・」
「そうか」
「朝、制服着て家を出るの。でも、行けないんだ。学校。ずっと隠れているの。山の方に誰も来ない廃墟みたいな公園があるの。そこのベンチに座ってるの。お父さんたちが出勤するまで」
「そうか」
「高田さんなら、言えると思った・・」
「そうか」
高田さんはやさしくそれだけを繰り返し言った。
「高田清掃員~。高田清掃員~」
その時、遠くから、大声で呼ぶ声がした。管理人の岸田伝兵衛だ。
「あのじいさんうるさいから」
「しかもクソ真面目」
そう言って、高田さんはおどけた表情をして立ち上がった。杏奈は少し笑った。
「あの世代はほんと仕事熱心だからねぇ。あ~あ、めんどくせぇ、めんどくせぇ」
高田さんは、そう呟きながら行ってしまった。杏奈は一人その場に残された。
杏奈はマンションの外に出た。山の街アーバンコンフォート26の入口の前には、小さな公園が作られていた。
「・・・」
杏奈はその公園のコンクリートで出来たベンチに一人座った。
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