史記~司馬遷・「李陵の禍」~
「口は禍の元」という。「玉についた傷は磨けば直るが、口から出た言葉でついた傷は直り難い」という故事もある。しかし、その言葉が正論で権力者の逆鱗に触れるとしたら、口にすべきか、心にしまうべきか。判断は難しい。
武帝が外征に積極的な事は前に書いたが、その相手は「匈奴」である。匈奴とは漢成立以来の因縁があり武帝までは弱腰外交を強いられていたが、国力の充実した現状に武帝は我慢ならず反撃に転じた。戦いは漢側の有利に進んだ。国力が充実して、優秀な武将が揃い、匈奴側も漢をなめていたからである。
しかし、戦であるからには負ける事もある。武帝の縁戚に李広利という将軍がおり、彼も匈奴遠征に出ていた。その李広利に「李陵」という若い将軍に、五千の兵をつけて援軍にむかわせた。李陵は李広利に追い付く前に三万の匈奴軍に囲まれる。彼は地形を利用し、優秀な弩兵もいたこともあって敵兵一万を討ち取る奮戦をみせたが、衆寡敵せず降伏し捕虜となった。
この報を聞き武帝は激怒した。ここに武帝の限界があったと思われる。百戦して百勝するわけにはいかず、勝敗は兵家の常である。一度の敗戦で将軍を処罰していては、誰も兵を率いれなくなるではないか。ここは奮戦を誉めつつ、退却しなかった事を責めるべきであったろう。であるのに、報告にきた李陵の部下を詰問して、自害にまで追い込んだのだ。先に書いたが、武帝は戦を知らない世代である。戦には負けてもいい場面がある事が、武帝には判らなかったに違いない。群臣も武帝に追随した。そんな中、一人だけ異を唱えた人間がいた。それが司馬遷である。
司馬遷はこう述べた。
「李陵は国家の急に進んで身を捧げた有國の士です。只一度の敗戦で責められるには、誠に可哀想です!彼は五千に満たぬ兵で逃げもせず、萬の兵を相手に矢尽き刀折れるまで死力を振り絞り戦いました。これには過去の名将も及びません。彼が死なないで降伏したのは、脱走してでも再び漢に報いんとしているに違いありません」
正に正言である。普通の将軍であれば一戦もせずに降伏しても良い状況でもある。にも拘らず李陵も部下も最後まで戦った。李陵が部下の心を掴んでいた良将である証拠であろう。であれば、脱走を目論んでいた事は間違いないと思われる。
この言に対して武帝はまたもや嚇怒した。武帝は李広利が武勲を挙げていないことを揶揄されていると邪推し、自分の意見に従わないことも許せなかった。武帝は司馬遷を獄に下す。司馬遷にとって苦悶と懊悩の日々の始まりであった。
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