現代社会の闇をどう扱うか
最近は痛風気味
他人の痛みと自分の痛み
最近、日曜日の夜が待ち遠しい。と言うか、終わってしまったので、待ち遠しかった、と言うのが正しい。
22:30から「3年A組」が放送されていたからだ。観ていた人はこの番組をどう捉えているのだろうか。私は昔の人間なので、古しい考え方でしか考えられないが、かなり社会性のある番組だったと自分では思っている。
単なる「魔女狩り裁判」ではない。単にそうならば、特別手の混んだ事をせずとも他の方法があるはずである。まあ、そこがドラマなのだが。
自殺したJKがどういう経緯でそこにたどり着いたか、犯人は誰なのかを、生徒を人質にして暴露していくシナリオだ。このドラマでも「犯人が誰か」という観点が主題になる。表向きは。
ラス前の放送までで、犯人(と言うか関係の経緯)は、ほぼ割れてしまったので、最終回はまとめ的になっていた。なので、最終回に衝撃的事実を盛っていない所から、「犯人捜し」が主題ではないのでは?と受け止めた。
個人的に、このドラマの真のテーマは、
「自分の行動、発言に責任を持て」
と言う、至極当然なメッセージが主題であると思っている。こんな事は、ある程度歳を重ねたら自然と身に付くと言うか、悟られる事項であろう。それをドラマを通して敢えて世に問うているのではないのか。
このドラマはある意味、文学的な要素をはらんでおり、学生自分によくある、「作者・筆者が作品を通して言わんとしている事は何ぞや」と国語の授業の課題的な部分が随所に隠れている様に思われた。
では、「責任」とは何ぞや、と改めて問われると中々難しい。熟語の読みから推すと 「責められる事を任される」とでも言うのだろうか、「責められてもしようがないからね」と言う事なんであろう。
確か、ある放送回で人質になっていた女子生徒が、SNSに確証もないのに「XXが犯人だ」と呟いた。その影響で、そのSNS上ではあたかもXXが犯人に祭上げられた、というシーンがあり、「柊」なる教師は、その生徒をすごい勢いで叱責した。
そこにこのドラマの「肝」が凝縮されていると思う。
「自分の行動、発言に責任を持て」と言う事を再考してみると、SNSに投稿すると言う行為は、「別に動いてねえし、口も開いてねえし」と言う事になり、「責任」を負う必要はない、という屁理屈な弁明が罷り通ってしまう。自分は痛くも痒くもない。
だが、被対象者はどうか。仮に、ある意見がSNS上で大多数を取る、所謂「炎上」などしたら、あたかも「そうなんだ」と誤ったパーソナリティが確定してしまう危険性まである、と言う事を「柊」は自分の身を挺して言いたかったのではないだろうか。
自分が被対象者だったらどうだろうか。どういう気持ちになるだろうか。どうやって「誤解」解くのか。恐らく心が痛んでしょうがなくなるのではないのであろう。
相手の立場に立てない人間は、「責任を負う」資格すらない。
インターネットが普及して、随分便利な世の中になった。ただ、それと引き換えに「コモンセンス」とか「相手の立場を考える」と言ったような「ヒューマニズム」的な「心」を奪われている様な気がしてならない。
自分が死ぬまでの間に「人間」が生存していて欲しいという危惧は杞憂であって欲しい。
現代社会の闇をどう扱うか 最近は痛風気味 @Kdsird1730
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