第2話 勝ったケンカの種は明かさないほうがいい

 勝った……。

 殴り合いどころか、ケンカ自体が初めての経験だった。

 もしかして自分が本当は強かったんじゃないかと思ってしまったりもしたけど、そこは冷静に考える。

 ビギナーズラックっていうものがあるからだ。

 これで調子に乗ってしまったら、余計な危険に首を突っ込んで、今度こそ袋叩きの目に遭うことだろう。

 ビルの間はそろそろ暗くなってきている。生徒会長と魔法高校の生徒との睨み合いから逃げ出してから、随分と時間が経っていたらしい。

 さっきの女の子みたいに、さっさと逃げ去るのが賢いやり方だ。

 とりあえず広い道に出るために、来た方向へ向き直ったけど、目の前に一瞬だけちらついたものがあった。

 リボンを突き上げる胸。

 首を横にブンブン振って、自分でも許しがたい妄想を振り払う。ひどい目に遭いかかった女の子を、そんな目で見てはいけないのだ。

 そんな思いを見透かしたかのような声が、ビルの間にこだまする。

「変態」

 図星を突かれてギクっとしたけど、その声には聞き覚えがあった。

 とりあえず、言い訳する。

「いや、思い出そうと思って思い出したわけじゃなくて……」

「真っ先に思い出したってことは、そこしか見てなかったってことじゃない変態」

 一気にまくし立てられて一言もなかったのは情けなかったけど、そこでハタと気付いた。

 いくらなんでも、そこまで心の中が分かるわけがない。

 でも、女の子の追及は背後まで迫っていた。 

「女の子があんなピンチに晒されてるのに何考えてるの? 最低」

 何が何だか分からなかったけど、事実は事実だった。言い訳は利かない。僕は一度向けた背中を再び返して、素直に謝った。

「ごめん……本当に、そんなつもりは」

「くどい! 男のくせに」

 厳しく言い放ちはしたが、額縁眼鏡の奥で、魔法高校女子の目元は笑っていた。

「でも、感謝してる。ありがとう、助けてくれて」


 種を明かせば、単純な話だった。

「知ってるかもしれないけど、魔法使いは相手の心が読めるの」

 バス停への道案内をしながら彼女が教えてくれたことは、噂で聞いた通りだった。

 それは結構、怖い。

 うかつなことが考えられないと身体をすくめたとき、くすくす笑う声が聞こえた。

「そんなに大したことじゃないわ。相手の顔つきや仕草を見たとき、頭に思い描いてることがぼんやりと分かる程度だから」

「遠くからでも?」

 すぐ後ろに近づいてくるずっと前から、僕の妄想は見抜かれていた。顔は見えなくても細かい動作で察しはつくかもしれないが、それだって見えなければどうにもならないはずだ。

「ご明察」

 持って回った褒め方は、本当にそうなのか、からかっているのかよく分からない。

「空気の密度を変えて、光を屈折させる魔法があるの」

 そう言いながら、口元をちょっと意味深に歪めてみせる。

 僕も、不思議に思ったことがあった。

「それなのに、気が付かなかったの? あの連中が何考えてるか」

 読心術が使えるなら、相手の思考を読んで尾行を巻くことだってできたはずだ。

 でも、この質問への回答はなかった。

「勘違いしないで! その気持ちに感謝してるんだから!」

「気持ち?」 

 確かに最後の一発はラッキーパンチだったと思うけど、あれで連中を追い払ったんだから、そこまで言われる筋合いはない。

 でも、そこにも彼女の種明かしがあった。

「もちろん、あいつらの心だって読めたわ。ぞっとしたけど」

 それはそうだろう。自分に猥褻行為を働こうとしている相手の思考など、本当だったら知りたくもないはずだ。

 おぞましい記憶を振り払おうとでもするかのように、彼女は僕のほうをキッと見上げた。

「だから、あなたの拳の前に持って来られたのよ、あの男の顔」

「どうやって?」

 生まれて初めてのKOパンチをなかったことにしたくなくて、僕は食い下がる。彼女は憐れみを込めて微笑んだ。

「どっちを向こうとしてるか読み取って、目の前に閃光を放ってやったのよ、顔を背けるように」

 あの白い光は、僕だけが見ていたものじゃなかったということだ。

 すると……。

「あのサイレンの音は?」

「これ」

 突き出したスマホから、パトカーのサイレンが流れてくる。

「音波の増幅魔法よ」

 次から次へと、都合のいい魔法を繰り出してくるものだ。

 半分は驚き、半分は呆れて聞いてみた。

「テレポートとか、できないの?」

 それができれば、そもそもこんな目に遭うことはなかっただろう。

 僕の考えていることを読み取ったからか、彼女は苦笑した。

「私たちの祖先は、できたらしいわ」

「どこから来たの?」

 思わず哲学的な聞き方をしてしまって、彼女を困らせてしまったのではないかと慌てた。

 でも、額縁眼鏡の向こうには、遠くを見つめる目だけがあった。

「地球の反対側。遠い遠い、海の向こう」

 春の夕闇の中で感傷にひたる彼女の邪魔をするのが憚られて、僕はそれ以上のことを聞くのをやめた。

 ところが、今度は彼女のほうが熱く語り始める。

「空気だけじゃなくて、空間自体をねじ曲げたり引き裂いたりして、そこに隠れたり、別の場所への出口を開いたりする魔法があったの」

「へえ……」

 最寄りのバス停が見えてきた。やっと帰れる。

 だが、魔法高校の生徒が語る古の呪文に関する話は終わらなかった。

「今は失われてる『狭間潜み』っていう呪文でね。それがあれば瞬間移動したりできるんだけども」

「そうかあ……」

 気のない返事をしながら、僕はバス停に並ぶ人たちの後ろについた。

 彼女の寂しげな声が聞こえた。

「ないから、こうやって身を守るしかなかったの」 

 そう言いながら、再びパトカーのサイレンを鳴らした。

 バスを待つ客がびっくりしたのにうろたえながら、僕はその場を取り繕った。

「じゃあ、これで」

 目の前にバスが止まる。開いたドアの中に入ろうとしたら、呼び止められた。

「待って。私、幡多はたミオノ」

 空中に、まるでホログラムのように名刺が浮かぶ。これが魔法使いの自己紹介らしい。

 でも、これっきり会うこともない僕に見せる必要のないものだ。

「どうして、名前を?」

 バスがクラクションを鳴らす。乗るなら早く乗れと言っているのだ。僕がタラップを登ろうとすると幡多ミオノは追いすがってきた。

「名前を教えてほしいから」

 教えなければ、幡多ミオノはバスの中まで乗り込んできかねない。

 その上、バスの中からは無数の好奇の視線を感じる。

 思い余って、僕は答えた。

「サッサ・シトミ」

「何、それ?」

 きょとんとされるのも当然だと思った。自分でも、変な名前だと思っている。

 でも、それが僕の名前だ。漢字で書かないと、ピンと来ない。だから僕は、生徒手帳を見せた。

 幡多ミオノは、納得したらしい。

 じゃあねと振る手に手を振って座席に着くと、バスのドアが閉まった。

 その瞬間、肩章を着けた別の男子生徒がやってきて、声を荒らげた。

「名前教えるな! 魔法使いじゃないだろ、相手は!」

 発車の瞬間、平然と答える声が聞こえた。

「魔法使いの世界では、ね」 

 男子生徒は更に怒鳴り散らす。その声は、走りだしたバスの中まで聞こえてきた。

「それって、告白なんだぞ!」

 ドキッとした。慌てて振り向いたけど、昨今の路線バスは窓が開かない。

 幡多ミオノのほうはというと、同じ言葉を繰り返すばかりだった。

「魔法使いの世界では、ね!」

 聞こえたということは、相当の声量だったはずだ。

 結構、恥ずかしい。

 本当に、これ以上は関わらないほうがいいという気がした。

 それでも、幡多ミオノの額縁眼鏡や、そのまなざし、そして白いブラウスの胸が次々に思い出されてくる。

 胸のドキドキは、なかなか収まらなかった。

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