メメント・モリ -死者の島へようこそ-
モギハラ
第1話 死者の島へようこそ
1-1
からん、という涼やかな響きとともに、意識は急激に浮上した。今のは、ドアに釣り下がった鐘が鳴った音だ。そう認識して、彼女ははじめて自分が小洒落た喫茶店の入り口に立っていることに気づいた。
「いらっしゃいませ、テーブルとカウンターどちらでも空いてますよ」
右手側から声がかかったのでそちらを見れば、日本人離れした容貌の女性ウェートレスがテーブル拭きを手にこちらを見ていた。ボブカットの赤毛に、緑の目、そばかすの散る肌は白く、アーモンド型の両目を彩るまつ毛まで赤毛だ。生活圏内ではあまり見かけない色を持つこの店員は、彼女にとっては物珍しく、不躾にも思わずじっと見つめてしまった。
「あの、何か?」
「あ、いえ、なんでもないです」
ちょっと困ったように首を傾げられ、来客はハッと我に返り、曖昧に笑ってごまかした。気恥ずかしさも手伝ってキョロキョロと店内を見回し、どこに座ろうかと悩むふりをする。
ウェートレスは「お好きな席へどうぞ」と微笑んで、コツコツと靴音を鳴らし別のテーブルへと歩き去って行った。
店内は全体的にお洒落というか、品が良いというか、落ち着く内装だ。
コーヒー豆の芳しい香りが漂う店内では、まばらに他の客がくつろいでいる。隅のテーブル席にはすりガラス越しに陽の光がやさしく差し込んでいて、読書をしている客の姿もある。
カウンターの奥にはワインのボトルが見え、バーも兼ねているのだろうとうかがえる。せっかくだから、カウンターにしよう、と彼女は奥へと足を運んだ。何がせっかくなのかわからないが、こういうお洒落な店に入ったからには是非カウンターに座りたい、というややミーハーな感情があるお年頃のようだった。
少し高い椅子にえいやと腰掛けてみると、コーヒーの香りがより濃くなった。カウンターの向こうにはいま、誰もいないようだ。先ほどのウェートレスを呼ぼうかとまた見回して、手元に呼び鈴であろうベルが置いてあるのが見えた。
これを鳴らせばいいのかと少し躊躇していると、決断するよりはやく、奥からロマンスグレーを後ろに流した初老の紳士があらわれた。
「ああ、いらっしゃい。何にしますか?」
顔の彫りが深く、几帳面に整えられた口髭の下には柔和な微笑みをたたえている。多分彼がこの店のマスターなのだろうと思いつつ、彼女は手渡されたシンプルなメニューを一瞥したが、どれを頼めば良いのか、自分はいま何を飲みたいのか、いまいち答えが見つからない。頭がまだどこかふわふわとしているようだ。
「ええと、コーヒー…おすすめとかありますか?」
「当店のオリジナルブレンドが」
「じゃあ、それで」
困った時のおすすめ頼りで注文を乗り切り、ややホッとした気持ちで来客は息を吐いた。
そのうちに豆を挽く音が聴こえて、視線をマスターに戻す。
「当店にいらっしゃるのは初めてですね」
「はい…今まで来たお客さんのこと、みんな覚えてるんですか?」
あるいは、一度見たら忘れないぐらい自分はよほどおかしな振る舞いをしていただろうか。
不安を覚えながら一応尋ねてみる。
「ええ、常連の方が多いですから」
知る人ぞ知る名店なのだろうか。彼女はなんだか得をした気分で、地元の人に愛されてるんですねと頷いた。
「そうですね、ありがたいことです」
しかし、新しいお客さんが少ないのはどうしてだろうか、見つけづらいのだろうかと彼女はなんとなくドアの外を振り返り、店の天井を見て、床を見て、何か違和感を覚えた。
「どうぞ」
「わ、すごくいい匂い」
目の前にそっと置かれたコーヒーから立つ香りで、また思考が遮られる。
「いただきます」
角砂糖を2つ入れてスプーンでくるくると回し、カップに口をつけた。
「…おいしい」
「ありがとうございます」
お世辞抜きに、思わず賛辞の言葉が出るぐらい美味しいコーヒーだった。
「そういえば、看板を見ずに入ったと思うんですけど、このお店ってなんて名前ですか?」
「喫茶メメントといいます。単に『ダッドの店』と呼ばれることが多いですが…」
「ダッド?」
「いいえ、私がダドリーという名前ですから」
「ああ、なるほど」
ダッドは愛称なのだ。もちろん、彼にぴったりだと思って彼女はふむふむと頷いた。
自分も心の中でそう呼ぶことにしようと決めたとき、再びダッドが口を開いた。
「お客さんは、どちらから来たんですか?」
なんてことない、もっともソツのない、よくある世間話だ。それなのに、とっさに言葉が出なかった。
「…えっと、私は…」
彼女の視線がななめに、下に泳ぎまわる。本来悩むはずのない質問に、なぜか出せる答えを持っていない。
「あれ? どこから…?」
思わず押し黙ってしまい、たっぷりの沈黙が流れる。まず、どこから来たのかわからないのは十分に大変なことだ。しかし、なんだろう、もっと重要なことを忘れている気がする。
沈黙のあと、ダッドはおそるおそるといったように、核心的な、致命的な質問をした。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「名前? 私の名前……えっ、あれっ…うそ、わたし…」
どこから来たか思い出せないどころか、自分の名前すら浮かばなかった。
1-2
名前。私の名前って何? 思い出せないはずはないでしょ、普通は。彼女は己に問いかけながら、落ち着かない様子でまばたきを繰り返した。なにしろ靄がかかったように、深くにしまいこんでしまったように、自分自身のことがまるでわからない。コーヒーを飲んで落ち着こうとカップに手をかけると、爪がカップを小刻みに叩く音で、自分の手が震えていることに気づく。
身分証か何かが無いかと自分を見下ろして荷物を探すが、そもそも、荷物も持っていなかった。携帯すらない。ここの支払いをどうすればいいのだろうと、別の問題にも気づいてまた青ざめ、目を白黒させた。
マスターは気遣わしげに彼女を見て、大丈夫、よくあることです、と慰めた。よくあること? 名前を思い出せず、無一文だなんて、よくあってたまるかと思う。
「だって、おかしいんです、何も思い出せないなんて…」
「…その、胸のバッジに書かれているのは、お名前では?」
「バッジ? …あ、本当だ…」
胸につけていたバッジには、アルファベットで「MORI」と書かれている。今着ている服も、どこかのバイト制服に見える。
「モリ…森。そうだ、わたしは森……でも、だめ、名前のほうが出てこない」
とてもしっくり来る響きだ。たぶん自分の苗字で間違いない。しかし、更に馴染みがあってしかるべき下の名前が出てこない。そんなことってあるのだろうか。
「落ち着いて。ゆっくり思い出していけばいいんですよ」
「そんなこと言われても…」
自分が誰なのか思い出さなきゃ、家にも帰れない。モリは焦燥に駆られた。
「そもそも、ここは? ここはどこなんですか? 私、どうやって来たのかも覚えてないみたいなんです」
「ここは、島の街はずれにある喫茶店です」
「島…?」
「はい、ハザマの島です。かばねの国とも」
「…えっと、すみません、それって日本のどこですか?」
どちらにせよ、聞いたことのない名前だ。何も思い出せないが、自分はもともと島にいたのではなかったはずだと妙な確信があった。確実によく知らない場所で迷子の上、記憶もないのだという事実にまた打ちのめされる。
「モリさんは、ニホンのご出身なんですね」
「え、はい…もしかして外国ですか…?」
「…外国といえば、外国かもしれません」
この返答はどういうことだろうか。自分のしゃべっている言葉が通じているのだから、てっきり日本だとばかり考えていたが、海外旅行中に偶然日本語が通じる店の前で記憶喪失にでもなったのだろうか?
「地図で言うとどの辺りなんですか…? 太平洋とか…?」
「この島は、現世の地図上のどこにも位置していません。どこにでも現れ、どこにもない。文字通り、ハザマにある場所なんです」
「ごめんなさい、あの、ちょっとよくわかりません」
からかわれているのだろうかとも思ったが、目の前のひとは、不安に駆られているモリを刺激しないよう、慎重に言葉を選んでいるように見えた。つまり、何かものすごく言いづらい事実へ、遠回しに導いているように。
「…カンタンに言うとね」
不意に割り込んだ高い声に振り向くと、12歳ほどに見える総白髪の少年が後ろに立っていた。
「この場所は、この世とあの世のスキマにあるんだよ」
顔のサイズに合わない大きな赤縁のメガネが、少年の顔の印象のほとんどを占めているが、眼鏡の奥からまっすぐにこちらを見つめる黄緑の目もまた印象的だ。顔色は青白く、オーバーサイズの赤いコートを羽織っていて、半ズボンからスッと伸びる脚は折れそうに細い。
そして、少年の口にしたとんでもない言葉に、モリは首を傾げる。
「この世と…あの世の…?」
新たな登場人物に、突飛な情報。一度に処理しきれず、モリはフリーズした。
「キュウくん、あまり急いではいけないよ」
ダッドは、少年に向け柔らかい口調でたしなめる。キュウと呼ばれた少年は動じずに答える。
「この調子じゃ、どうせ理解するのも信じるのも時間がかかるでしょ。早めに言っても同じだ」
「あの、これドッキリですか? なにかのイタズラ?」
いくら記憶がないからといって、そんな風にからかうのは酷すぎる。どこかでカメラがまわっているのではと見回すが、ドッキリならば自分が見つけられるようなカメラは設置しないだろうとモリは早々に諦めた。もし冗談だったのなら、あとで盛大に抗議する心算は固まった。記憶喪失の人間に弁護士が雇えるのかは知らないが。しかし目の前の少年、キュウは呆れたようにあっさりとそれを否定する。
「違うよ。ある時代の人って、すぐイタズラを疑ってカメラを探すよね」
それでなんとなくあなたの生きてた時代がわかったかも、とひとりごちて、キュウは手に持ったノートに、古めかしい羽ペンで何か書き付ける。
「時代? あの、さっきからもう、何言ってるのかわからなくて…」
ノートから顔を上げないまま、キュウはさらに奇妙なことを口にした。
「ここは死者の住む島だ。あなたは死んだからここへ来たんだよ」
1-3
死者の住む島だとか、お前はもう死んでいるだとか、そんな少年漫画の決め台詞のようなことを言われても困る。あまりにぶっ飛んだ話に、モリは軽く目眩を覚えたし、少し笑いそうになった。
死んでいる? 死人がコーヒーを飲んだり、作ったりするわけがない。しかし思わず、自分の心臓が動いているか確認をしてしまう。…大丈夫、ちゃんと脈打っている。死んでいるはずがない。
「その冗談、あんまり笑えないよ」
「…僕は冗談が苦手だからね」
キュウの皮肉げな言い方で、冗談のつもりでないことはわかった。大人びて見えても子どもだし、彼は本気でそう思っているのだろう。しかし、どうしてマスターのダッドは訂正しないのだろうか。そういえばダッドもハザマだとか、よくわからないことをいっていた。
この人たちみんながおかしいのか、自分がおかしいのかもわからない。ただ嫌な汗が吹き出て、心拍数が上がっていくのだけはわかる。モリは猛烈に外の空気が吸いたくなった。
「…ちょっと、外の景色を見てきていいですか。何か思い出すかも」
「どうぞ」
ダッドが答えたのとほとんど同じタイミングで、モリは椅子から飛び降りるようにして出口へと向かう。しかし、ドアノブに手をかけるより前に扉が開いたので、モリはバランスを崩して前につんのめった。
「おっと」
あわや転倒かと思ったが、ドアの向こうにいた男性に肩を受け止められ、転ぶことはなかった。
「あ、すみません」
「悪いね、大丈夫?」
肩に置かれていた革手袋の匂いと、オーデコロンか何かの甘い香りが鼻をくすぐった。しかし今はときめいている暇もないので、ありがとうございますと言いながらも、モリは相手の顔をろくに見ることなく扉の向こうへとすり抜けた。不躾だったかもしれないが、とにかく自分の置かれた状況を、今すぐ自分の目で見なければ気が済まなかった。
そして、逃げるようにドアを抜けた先の景色は、まったく見覚えのないものだった。カフェを背に左を見れば、ヨーロッパかアメリカの映画で見るようなつくりの建物が通り添いに続いていて、右を見れば、遠くの森にまで道が伸びている。そして、目の前の段々になった道や教会の屋根や灯台が目に入り、その先遠くには、青い海が見えた。この街はそれなりに高台にあるようだ。
「……いや、ほんとにどこなの…」
気が抜けたような声が口から漏れる。その場にしゃがみこみそうになるが、そうしてしまうと二度と立ち上がれないような気がして、柱に寄りかかるだけにした。
街のにおいも、鳥の声も、耳馴染みのない異邦だということがわかって、モリは途方に暮れた。
そして、わけのわからないことを言われても、ひとまずカフェに戻って、話を聞くしかないとも思った。ここが海外にしても、日本語が通じる相手がいるのなら、誰かが日本の警察やら、大使館やらの連絡先を聞けるかもしれない。携帯電話すら持っていない今、ほかに頼れるものもないのだ。
沈んだ表情のモリが店に戻ると、さっき座っていたカウンターの隣席に、メガネのキュウも座っていた。少年のもうひとつ隣には、先程すれ違った人らしき、帽子の男が座っていた。その時は気づかなかったが、帽子の下から出ている男の髪は少年ほどではないが、ブロンドのような白髪のような、ごく薄い色をしている。
モリはぎこちなく先ほどの席に戻り、大きなため息を吐いた。
「やっぱり、何も覚えてません…」
「そうでしたか」
いつのまにかコーヒーのおかわりが用意されている。支払い方法はあとで考えるとして、角砂糖を入れてありがたく一口飲んだ。ここのコーヒーはやはり美味しくて、少しだけ気持ちが落ち着いた。モリが再び話し出すまで、皆様子を伺っているようだった。
「…何も思い出せないけど、あの世とこの世の間とかそういうのは、正直あんまり信じられなくて…」
「ええ」
ダッドはその答えに理解を示すように頷いた。
「最初はみんなそんな感じだよ」
少年のほうはいかにも飽き飽きしたような態度だが、彼にとって何回めだろうが、モリにとっては初めて聞く話で、しかもあまりに突飛な展開だ。パニックにもなる。
「…ここは、本当に日本じゃないんですか?」
「違うね」
この質問には、ダッドではなく、キュウが答えた。
「私は、家に帰れる?」
「…元の、って意味なら、帰れた人は見たことがないね」
そもそも家すら思い出せないのだが、かなり凹む答えだ。
「……日本の、大使館とかに連絡して、私が誰だか調べられるかな…?」
「…この島に日本大使館はないから、難しいと思う」
「そう…」
八方塞がりだ。そもそも、今飲んでいるコーヒー代を支払えるアテもない。
わけのわからない場所で、自分のことすらもわからないなかで、今夜は一体どこで眠ればいいと言うのだろう。キュウの容赦なく淡々とした答えを聞くたびにどんどん、モリの声は震え、視界がぼやけてきた。モリが涙目になったことに気づいてか、少年はさすがにばつの悪そうな顔をした。
「おい、女の子を泣かしたな。ルール違反だ、キュウ」
隣に座っていた男性に指で頰を小突かれ、キュウはムッとしたような顔をする。
「そんなルールは知らないよ」
そして、ポケットからハンカチを取り出してこちらへ差し出した。
「泣くなら、使って」
「………ありがと」
驚いて少し固まってしまったが、厳しいんだか優しいんだかよくわからない子だ。涙もこぼれずに引っ込んでしまった。とりあえずハンカチを受け取って、使うでもなく片手に持った。
「…ま、普通はこういう反応になるよな。増して若い女の子だし、不安になって当たり前だよ」
帽子の男性のいたわるような言葉にまた少しモリの目頭が熱くなるが、身も世もなく泣くのは本当にどうしようもなくなった時にとっておこう、と堪えた。
まずはこれからどうするか、考えなくてはいけないから。
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