コップをひとつ
それは、自身を“悪魔”だと名乗った。
状況にそぐわない表情、地から離れた足、何より不法侵入してきた《それ》を責め立て、追い出す気力が無いことが今を非現実だと脳が警鐘を鳴らす。追い出す気力がない、は単なる言い訳にすぎないが。
自称・悪魔は軽やかに告げる。
「コップをひとつ。それが代償さ」
私が自称・悪魔に差し出したのは色褪せ、内側に茶渋がこびり付いたマグカップ。その昔、妻と色違いで買ったものである。飲み口の淵は所々欠けているが、変に愛着が湧いてしまい捨て時を逃していた。
悪魔は古びたマグカップをひょいと持ち上げ、その空の中身を飲み干した。
「うん、悪くないね」
気づけば悪魔は空中で脚を組んで座っていた。どのような原理で浮き留まっているのかなど、その時は疑問にすら思わなかった。脳のどこかでこれは夢だと思っていたからかもしれない。
「それじゃあね、お大事に」
カツンと軽くも高い音が鳴り、悪魔はマグカップごと目の前から消えていた。
その後、暫く呆然としていたが突然鳴った着信音によって現実に戻された。病院で処置を受けていた妻の意識が戻った、という知らせであった。
私はこれに酷く絶望した。
妻を、殺し損ねてしまった。
悪魔に思い出の品を渡したというのに。いや、今までのは白昼夢だったのだろう。あまりにも非現実的過ぎる。きっとそうだ。違いない。
妻の殺害に失敗した私は家中を彷徨い、どこで道を間違えたのか延々と考えていた。
悪魔に渡したのが妻のマグカップだと気づいたのは、食器棚を見た夕暮れの始めであった。
それは自身を悪魔と名乗った。コップ一杯分の“何か”と引き換えに、その持ち主の願いを叶えてくれるという。
悪魔は淡い暖色のマグカップに爪をぶつけてみる。カツンと軽くも高い音がした。
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