本山らのと昔の記憶

七条ミル

本山らのと昔の記憶

 あの方と出会えたことに、わたくしは本当に感謝しています。あの日のことを幾度と無く思い出し、そしてまた、感謝するのです。




 あの方と出会ったのは、大正十五年の初めの頃で御座いました。

 当時住まわせて頂いておりました東雲しののめ荘から散歩に出て、私はお恥ずかしながら迷子になってしまったのです。

 第六高女に入れていただき、毎日あのあたりは通っていたはずですから、迷子になるはずは本当はないのですが、何故だか迷子になってしまったのです。

 しかし、若かりし頃のことで、私は好奇心に打ち勝つことが出来ず、いつしか新しい風に見える神社にたどり着いたのです。

 東京の街中のはずですから、もう少し喧騒があっても良かったはずなのですが、私は特に何の疑問も抱かず、その神社に足を踏み入れました。

 小石一つ落ちぬ石畳の上を、私は履物をコツコツと鳴らしながらゆっくりと進みました。正面には柱が赤口本朱に塗られた拝殿、左手には絵馬掛けが御座います。拝殿手前、左右には狛犬でなく御狐様が鎮座しており、それぞれ手前方向を向いています。

 私は兎角神社と云う物が好きで御座いましたから、思わず財布を取り出し、なけなしの十銭を賽銭箱の中に入れました。

 お願い事は――なんだったのでしょう。どなたかに対する敬慕が云々、等と云うものだったのかもしれませんし、若しかするともっと単純な何かだったのやもしれません。何れにせよ、私は何某かのお願いをしたのです。お金はもう御座いませんでしたから絵馬は掛けられませんでしたが。

 ふと拝殿に向かい顔を上げると、扁額へんがくが掛けてありました。私はその時それを扁額などと云うとは存じ上げませんでしたが、扁額には『羅野らの神社』と金色の文字で書かれておりました。

 それから絵馬のお願いを少しだけ拝見させていただき、振り返るとそこには女性が立っておりました。少し赤みを帯びた珍しい形の着物に、頭の上にはなんと狐の耳がありました。私は極力驚きを顔に出さぬようにし、ご機嫌麗しゅう、と一声掛けました。よく見ると、尻尾も生えているようでした。

 着物は、裾が極端に短く、袴は着けておらず、袖は肩で切れて七分のあたりで別の布を鈴の付いた紐で止めていました。そして、帯の上には豊満な胸が乗り、なんとも不思議な様相を呈していました。

 女性は少しだけ下にずれた丸眼鏡を直して、私の目を見ました。

今日こんにちは」

 澄んだ声で、聞き易い声。でも、どこか不思議な話し方でした。

「ここの方、なのですか」

「はい! 本山らのと言います」

 らの――珍しい名前だと思いました。いえ、今でも珍しい名前だと思っております。私は、宮古栞ですと、自分の名を云いました。よくよく考えてもみると、私も珍しい名前をしております。ただ、当時は「らの」と云う語感や不思議な響きに惹かれて、そんなことは忘れてしまっておりました。

「その御耳と尻尾は……」

「えっ? あ、ああ、これはですね、その、まあそういうことです」

 らのさんはその時、とても慌てた様に見えました。それは恰も隠し忘れた、とでも云う様な。――いえ、恐らくは飾り耳の様なものをつけていただけなのでしょう。尻尾も、同じ様に、飾り。しかし、私には、それが本物の様に見えたのです。ましてやそれが、動いている様に、私には見えました。

「栞さんは、どうしてここに?」

「私は、御散歩をしようと思ったのですが、道に迷ってしまいまして。それで、この神社を見つけてついつい寄ってしまいました」

 云ってから、私は道に迷っていたことを思い出しました。幸いこの日は特に予定も御座いませんでしたから、ひとまず東雲荘へ帰ることさえ出来れば良いのですが。

「なるほど。ところで、一つお話をしてもいいですか?」

「ええ、構いませんが……」

 らのさんは、こほんと咳払いをして、どこからか一冊の本を取り出しました。当時ではありえないほど綺麗な本で、表紙には少し扇情的な女性と思しき絵が描かれていました。そして題目であろう文字は、仮名遣いが違っていたり、略字が混ざっていたり、一度も目にも耳にもしたことの無い言葉が使われていたりしました。

 それかららのさんはその書物について、熱心に語りました。

 そのお話は、大変魅力的で、私はその本が欲しくなってしまいました。けれど、それを頂くわけにもいきません。私はお礼を言って、すぐに神社を飛び出しました。そして大きな書店に入り、その本を探しました。けれど、当然その本があるはずはありません。

 それから、一度神社へ戻ろうと思い、私は来た道を戻りました。けれど、幾ら走れど神社は見えてきません。それどころか、東雲荘に戻ってしまったのです。

 その話を大家の東雲さんにすると、きっと狐に化かされたんだよ、と云われました。けれど、私にはあれが夢や幻覚の類だったとは、到底思えないのです。

 その日を境に、私は沢山本を読みました。読んで、読んで、東雲荘を本で埋め尽くす程に本を読みました。そして、それらの本は、私に沢山の知識や経験、その他の色々なものを齎してくれたのです。けれど、それから一度も神社を見つけることも、らのさんに紹介して頂いた本を見つけることも叶いませんでした。




 時は過ぎて、もう私は死の間際にあります。娘と孫とひ孫が、私の寝るベッドを囲っております。思考も徐々に薄くなってきました。


「栞さんっ!」


 その声は、澄んだ声で、聞き易い声で、でも、少し不思議な声でした。

 首を傾けて、声のした方を見ます。

 そこに立っていたのは、あの時と変わらぬ、裾の短くて、袴は穿いていなくて、袖は切れて七分で布を鈴の付いた紐で止めた、らのさんでした。

 らのさんの手には、あの時らのさんが持っていた本が握られています。

「あの時の本ですよ! どうぞ!」

 私は、それを震える手でしっかりと握りました。涙がつうと流れて、私は本をしっかりと抱きしめました。


「ありがとう、らのさん」

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本山らのと昔の記憶 七条ミル @Shichijo_Miru

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