終幕:勝利とメルヒオルと今

 有里が、死んだ。


 暑苦しい、夏の夜のことだった。


 有里の姉さんから連絡が来た時、嘘だろ、と震える声で返した。


 頭の中では分かっていた。この人はそんな嘘はつかないと。だが、その耐えがたき現実を、受け入れることは到底できなかった。


 電話の向こうで、アイツの姉さんの震える声が、今にも泣きそうな声が、俺の鼓膜をすり抜ける。


 代わりに響くのは、三日前、イプした時の会話だ。



『もうすぐ神サーのデビュー漫画が来るよぉ! めっちゃくちゃ楽しみ! その時まで死ねない』



 そう言っていたのに。


 どうして、あっさりと死んでいるんだよ。馬鹿だろ、お前。


 心が、ぽっかりと空いた。














 葬式にはもちろん参加した。久しぶりに会ったおじさんとおばさんは焦燥しきっていた。とくにおばさんは灰になっていた。目が虚ろで、絶え間なく涙を流している。


 おばさんは、有里に対してちょっと過保護気味だったもんな。葬式を仕切っていたのは、姉さんだった。三人は現実を受け止めてきれていないのが、ありありと伝わってくる。


 そうだよな、俺もそうだよ。これが悪い夢なんじゃないかって思うよ。夢であればいい。夢から醒めたら、アイツが暢気に笑う顔を拝めるんじゃないかって、そんな妄想をこの三日間で何百回もしているよ。


 葬式は寺で行われた。アイツの実家でやるには、狭すぎるから。


 寺の前で何やら揉めている。揉めているのは、あの男とおじさんだった。


 有里は、あの男の浮気現場を見た帰りに交通事故に遭って、ほぼ即死だったと聞いた。


 大方、あの男も葬式に参加したいけど、おじさんがそれを許さない、と揉めているんだろう。俺も参戦すべく、足を向けた。



「お願いします! 最後に、有里に会わせてください!!」


「お前に有里と会う資格はない!」


「資格はあります! 僕は有里の」


「いい加減にしろ!! この浮気屑野郎が!!」



 声を荒げた俺に、二人が振り向く。


 おじさんは、よくぞ来てくれた、という顔をしてくれたが、男……名前で呼ぶのも嫌だな……は、親の仇を見るような鋭い視線で俺を睨んできた。


 何故、お前が睨む。お前が直接殺していないわけではないけれど、有里が死んだのは度重なるお前の浮気のせいだろう。関与的にお前も有里の仇だ。


 あの時、お前が浮気をしていなかったら、有里は車に撥ねられずすんだのに。


 ああ、そういえば、こいつは度々俺を敵視していたな、とどうでもいいことを思い出した。


 有里がコイツと付き合う前から、有里と仲の良い俺に敵意剥き出しだった。



「何故お前が、有里の葬式に出席しているんだ」


「そりゃ幼馴染みだからだよ」



 当たり前だろ。お前と違って、俺は有里の家族とも仲が良いし、信頼されている。それに、お前ら本当に男女って言われるほど、俺たちは有里が死ぬまで仲が良かったから。


 お前はどうだ。浮気をして、有里にも有里の家族からも信用も信頼もされず、正直には言わないが、有里を牽いた運転手並みにお前を仇として見られている。



「幼馴染みが出席しているんです。彼氏である僕も」


「いい加減にしろ!!」



 俺はまた、声を張り上げた。



「いつまで彼氏面しているんだ!! アイツは死んだ。お前の浮気現場を目撃した帰りに! 有里は言ったらしいじゃないか。別れるって。それなのに、どうして平気な面で彼氏を名乗っているんだ!!」


「ぼ、僕は別れた覚えはない!」


「お前はそうでも、有里は違う。アイツのことだ。どうせ最後に、二度と面見せるんじゃねぇ! って、お前に怒鳴ったはずだ」



 ぴくり、と男の肩が分かりやすく揺れた。図星か。



「なら、アイツの前に姿を見せるな! それがアイツの望みだ、お前は散々約束を破ったんだ。最後くらい、アイツの望みを叶えろ!! 早くここから去れ!! それでもここにいるんなら、警察を呼ぶがいいか!?」



 警察、という言葉を聞くと、男は俺を強く睨めつけながら、道路の向こう側へ消えた。



「ありがとう、勝利君」


「いいえ……もっと、言いたいことがあったんですけどね、なかなか言えないものですね」


「いいや、君は十分言ってくれたよ。さぁ、有里の許に行こうか」


「はい」



 おじさんは肩を叩いて笑ってくれたが、やっぱりまだ言いたいことがある。でも、二度と会いたくないな、と思った。












 有里の遺品整理は、俺にやらせてくれ、と有里の家族に懇願した。許可はあっさりと貰った。俺を信頼してくれてのことだろう。


 遺品整理をしたいのには、理由があった。それは腐女子だという証拠隠滅のためだ。親御さんは有里がオタクだということは知っているけど、腐女子だということは知らない。姉さんは知っているけど、腐っていないから出来れば、妹の性癖を知りたくない、ということで、姉さんに感謝された。気持ちは分からないでもない。


 合い鍵でアイツが住んでいた部屋に入る。



「うわ、散らかっている」



 有里は片付けが下手だった。床に本とか段ボールが放置されている。でも、下着とかは放置されていない。アイツ、変なところで几帳面だな。



「ん?」



 開けられていない段ボールを発見した。中身を確認すると、アイツが楽しみにしていた、神サーの商業デビュー漫画だ。


 そういえば、アイツが死んだ日は、これの発売日だったな。アイツ、これをずっと楽しみにしていたのに、死んでしまうなんて。無念だっただろうなぁ。死に間際、絶対にこれを読みたかったって、悔しがっていただろうなぁ。


 封を開けて、中身をパラパラ読んでみる。


 さすが、アイツが敬愛していた神サーの漫画。受け攻めが最後まで逆転せず、とても安定した展開だ。


 うん、最高だ。致している場所で、受け攻めが逆転したら立ち直れないから。


 ぽた、と漫画に染みが落ちる。



「あ……」



 それが涙だと自覚したら、次から次へと涙が溢れてきて、漫画の上に落ちていく。漫画のインクが滲んでいくのが嫌なのに、気が付いたらぐしゃりと握り潰していた。


 ああ、アイツに怒られる。神サーの漫画になにしとるんじゃぁ! って。けど、もうアイツは怒れない。声を聞けない。


 泣ける展開じゃなかったのに。ハッピーエンドで終わっているのに。最高だと思える漫画なのに。


 どうして、アイツがいないんだよ。


 アイツがこれを読んだら、最高だったよお前も読んでみ! と、漫画を推してくるのが目に見えている。


 それなのに、アイツはもういない。


 受けの心理描写がいいとか、攻めのこの顔がいいとか、アイツと語り合う未来はない。


 アイツも俺に漫画を推せなくて、俺もアイツに作品を推せない。


 それが虚しかった。とても、寂しかった。


 心の穴が、広がっていった。


 アイツが死んだ、と聞かされた時も、葬式の時も泣けなかったのに、やっとここで思いっきり泣けた。ぐしゃぐしゃになった漫画を抱きしめながら、長いこと泣き続けた。


 ようやく、アイツの死を少し受け入れられた。










 それから、ずっと灰色の時間を過ごしてきた。


 ハマった作品もあったけど、アイツが生きていた頃に比べると、かなり冷めていた。


 ああ、アイツが好きそうなキャラだな、とか、このカップリングは絶対にアイツハマっていたな、とか、結局、有里中心で考えては虚しくなるのを繰り返し。あの頃のように、カップリングについて熱く語れなくなった。


 思えば、俺がカップリングについて一番語り合っていたのは有里だ。アイツと語り合えるのが、一番楽しかった。好きなカップリングが被っていたから尚更で。解釈も似たようなものだったから、地雷もなかった。俺は、最高の片割れを失ったのだと、痛感した。


 ぽっかりと空いた穴は埋められないまま、穴を引き摺りながら、淡々と生きていく。


 浮気野郎は、女遊びが激しくなり、有里の死んだ二年後に、遊び相手の女に刺されて死んだと、風の噂で聞いた。


 ざまぁ、とか思わなかった。どうでもよかった。


 浮気野郎が死んだところで、有里は笑わない。喜ばない。還らない。


 有里がいなくなった世界を生きて、数十年。ようやく、そっちに逝けれそうだ。



「ゆ……り……」



 息も絶え絶えに、アイツの名前を呼ぶ。お前はそこにいるだろうか? いなくても、俺から会いに行くけど。


 死後の世界があるのか分からない。あったら、お前は思い残していた漫画や、あの漫画の続きを読めて満足しているかな。できれば、そうであってほしい。


 なあ、有里。お前は覚えているか? 俺が漫画好きになった切っ掛けはお前なんだぜ。


 親も共働きで家にいない上に、友達もいなくて、周囲に馴染めなかった小学生の頃。


 こっそり漫画を持ってきて、こっそり友達と読んでいたお前に誘われた。



『あ、勝利君も読む? これ、すごくおもしろいよ!』



 すごい推されて、渋々読んだそれが本当に面白くて、感想言ったら。



『でしょ!? 勝利君、わかっている!』



 嬉しそうに破顔した。


 それからお前と仲良くなりたくて、お前が好きな漫画を読んで、だんだんと漫画自体が好きになって。


 結果的にお前と同じ穴に入って、腐ったけど、お前があの時、漫画を薦めてくれなかったら、俺は腐っていなかっただろうし、人生が楽しくならなかっただろうな。


 なあ、有里。お前は絶対に気付かなかったと思うけど、俺は小学生の頃から、お前が好きだったよ。あれから何十年経った今でも、忘れることもなく、その想いが俺の心に根付いている。


 結局伝えることが出来なかったけど、死んでお前に再会したら、絶対に伝える。


 ああ、お前の間抜け面が久しぶりに見れるのが、今から楽しみで仕方ない。


 有里、ゆうり、ゆう……














「メル、メル」



 ぺしぺし、と軽く頬を叩かれた。


 今世の名前で呼ばれ、その声に導かれるように瞼をゆっくり開ける。


 ぼやける視線が、だんだんと定まっていく。目の前には、今はヴィオレットという名前の有里がそこにいた。


 学園を卒業して、晴れて結婚した俺たち。初夜で俺の気持ちを伝えて、なんだかんだあって、ヴィーは俺の気持ちに応えてくれた。


 一緒のベッドで共に過ごすのも、大分慣れてきた。



「すごく魘されていたけど、悪い夢でも見た?」



 心配そうに俺の顔を覗き込むヴィーを、引き寄せた。



「うぉっ」



 そんな可愛げのない声を上げて、俺の腕の中に収まるヴィー。俺は強くヴィーを抱き締めた。


 暖かい。温もりに安堵する。


 たとえ、姿と声が違っていても、たしかに有里はここにいる。ちゃんと、生きている。



「ゆうり……」



 前世の名前で呼ぶと、ヴィーがぴくり、と動いた。そして、俺の背中に腕を回して、ぽんぽんと背中を叩いた。


 まるで、あやしているように。安心させるように、優しく叩く。

 目頭が熱くなる。何とも言い難い感情が、じんわりと涙になって溢れてきた。



「どうしたの? 勝利」



 俺に会わせて、前世の名前を呼んでくれる。声が違うけど、口調は有里の頃と全く変わらない。



「お前が、死んだ時の夢を視た」


「うん」


「おじさんとおばさんが、今にも死にそうで、お前の姉さんも、すげぇ落ち込んでいて……なんで有里なんだ、目を開けてほしいって、お前の亡骸に縋り付いて、何度も有里有里って、連呼していた」



 今でも覚えている。病院のベッドに横たわる、傷だらけの有里。死んだのだと、もう動けないのだと、冷たくなって固くなった身体を抱き締めて、おばさんが慟哭していたあの光景と嗚咽を。


 俺はただ、見つめることしか出来なかった。嘘だと、思いたかった。あの身体が死体じゃないって、思いたかった。



「俺さ、すげぇ後悔した。アイツが初めて浮気した時点で、お前をアイツから無理矢理引き剥がすべきだったって。あの時別れていたら、お前が死ぬこともなかったはずだって」


「勝利」



 背中に回っていた有里の手が、そっと俺の頬に触れる。有里を見ると、ふんわりと笑った。あの頃と変わっていない、笑顔だった。



「そんなもしもの話はやめよ? ほら、身体は違うけど、わたし生きているし。あの頃を気にしても、しょうがないって」


「有里……」


「いっぱい苦しんじゃったね、辛い思いをさせちゃったね。ごめん、勝利。その分、出来るだけ勝利の傍にいるから。だから、泣き止み?」



 そう言って、有里は俺の瞼にキスを落とした。



「……有里」


「ん?」


「お前、今幸せか?」



 前世はオタ充はしていたが、最期が最期だったから、幸せだったとは言い切れない。

 だから、直接聞きたかった。


 有里は破顔した。



「幸せ! 漫画もあるし、勝利もいるし」


「漫画が先かよ」


「人間の中で一番だということに、誇りなさい」


「ほざけ」



 くすくすと笑い合う。


 悪夢のせいで冷え切った心が、暖まっていく。


 あの頃空いた穴は、今世でも引き摺ったままだったが、有里と再会したことで、その穴は埋まった。きっと、その穴が開かれることは、二度とない。


 また有里を失う時が来るかもしれない。けど、あの頃に比べたら、喪失感はないだろう。それくらい、今が満ち溢れている。



「勝利は幸せ?」



 有里が訊いてきた。

 俺はすぐ答えた。




「お前が生きているから、すごく幸せだ」


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