第23話 殺意
人が二人並んで歩くのがやっとの路地が重なり合う小さな飲み屋街。
それが錦町だ。
『ポアゾン+1』の場所は直ぐに分かった。
レンガもどきの壁にpoisonの文字が点滅する安っぽい電子看板。入口にはどういう意味なのか、水牛らしき獣の頭蓋骨と「WELLCOM」とスペルの間違ったボードが置かれている。
オレは見た目より遙かに軽いスチール製のドアを押し、店の中に入る。
「いらっしゃい」
そう声を掛けてきたのはTシャツにオーバーオールと言う服装の女性
オレは店の入口に一番近いカウンター席に腰を降ろす。見回した店内に三廻部の姿はなく、テーブル席にカップルらしき2人がいるのみ。店内にいる人間は3人ともオレと大して変わらない年齢に見える。
「何にするの?」
一瞬、店員がした質問の意図が汲めなかったが、ココがバーである事を考えれば妥当な問い掛けだ。
「梅酒」
メニューボードを見て一番最初に目に止まったお酒を注文する。
「ロックでいい?」
「いや、水割りがいい」
元々、オレはアルコールに弱い上、炭酸類が子供の頃から苦手な為、飲めるお酒は限定されている。
「どこかで見た事ある顔よね・・・・・・ 地元?」
店員の質問。
余計な詮索をされたくは無かったが、どのみち三廻部の事を尋ねるには素性を明かす方がスムーズに思えた。
「地元だよ。目抜き通りに実家がある」
「あの辺りって事は、結構なボンボンね。屋号は?」
スラリとした言葉の流し方にこの店員も地元の生まれである事は間違いないだろう。
「みやげ物屋兼酒屋の九十九堂」
オレは出された梅酒を一口だけ飲むと静かに屋号を告げた。
「・・・・・・えっ! って事はアンタ、あの『九角壮平』? 」
「わたしもネットで見た事あるから知ってるぅ! 全国に好きな女の子をバラされた人でしょ!」
「マジけ!」
店員の驚いた声に続き、後ろのカップルがこの辺り特有の感嘆の叫びをあげる
名前で驚かれるのは、実のところ少し慣れていた。元々、珍しい姓である事に加え、厭な事にあの事故で地元では名前が知れ渡っていた。
「その通りって、言うのもヘンだけど、確かにオレは、その九角壮平だよ」
オレの言葉に目の前にいた店員の顔色が曇る。
「あー・・・・・・ だとしたら、悪いんだけど、それ呑んだら帰って貰える? お店で揉め事は嫌なんだよね」
心底迷惑そうな店員の表情にオレはヤツがじきにココに姿を現すことを確信した。
「三廻部からオレの事は聞いているわけだ」
「アナタの事が死ぬほど嫌いだそうよ」
店員が煙草に火をつけながら、面倒臭そうに呟く。
「良かったよ。好かれていたらどうしようかと思った」
「何それ、ウケる」
顔の端だけで笑ってみせる店員。
「アイツはいつも何時頃に来る?」
「あと20分って所かしらね。観光客の女の子たちを連れて来たときは上機嫌。ひとりの時は荒れまくりの迷惑なヤツよ」
ナンパに成功した時は機嫌が良いと言う事か、何とも分かりやすい。
「ココの馴染みってわけか。良いのかい? 常連客の情報をオレに流して。オレはアイツと揉めに来たんだぜ」
「アレさえやってなければ、アンタに味方しないわ。でも、あんな匂いを
チーフディレクターを名乗ったあの男はマリファナの売買について捜査している警察の動きを追ってでもいるのだろう。
「ありがとう。外の通りでアイツを待つことにするよ」
「そうしてくれると助かるわ」
オレは残りの梅酒を一気に胃に流し込み、お礼代わりに千円札をテーブルの上に置いて外へと出た。
店を出て、通りに出た次の瞬間、背中に強い衝撃が走った。
蹴られた―――
それだけは直ぐに理解した。たたらを踏み、狭い通りの更に奥の方に身体を逃がし、視線を上げる。
そこには三廻部修司の姿。
すぐさま、右側から蹴りが飛んできた。
油断をしていた訳ではないが、ケンカ自体が初めてのオレにとっては何をどうするのが正しいのかが分からず、なす術も無く大きく体勢を崩す。
「偉そうに粋がってるが、ケンカってのを分かってねぇな」
オレの右側へ回り込んだ三廻部の拳が腹にめり込む。
痛さより熱さが腹から背中へと突き抜ける。
人を殴った時の拳の感触が不愉快だと感じた者は暴力を振う才に恵まれていないと大学時代に聞いた事がある。
その言葉が真実であるのなら、目の前で嬉しそうな笑顔を浮かべる三廻部は暴力の才があるのだろう。
「オマエの義兄ちゃん、警官だからよぉ。ヤるにしても色々と面倒だぜ」
今度は鳩尾辺りに膝が入る感触。
気管が焼けるように熱くなり、喉の奥が悲鳴をあげた。目の前にチカチカと激しい火花が散る。
間を於かず続けて、右上腕に激しい痛みが走る。オレの身体は路地の奥にあるスナックの壁面にまで飛ばされていた。恐らくは回し蹴りだ。無論、見えていた訳ではない。そうだとしか思えない程の衝撃だった。
いつの間に切れたのか、口の中に血の味が広がっていた。口から首に伝う血の感触が何とも言えず不愉快だった。
「オマエの右手、上手く動かねぇんなら、いっそ潰してやんよ」
三廻部が発したくぐもった声に身震いがした。
再び右側から何かの気配。
咄嗟に左手で右手を庇うと再び鳩尾に強い衝撃を受けた。膝だ。
「フェイントにもあっさり引っかかるな、おもしれー! いい加減に倒れて、ボコられろや」
倒れていないのは、蹴られて追い詰められたのが壁際だからに過ぎない。言うなれば殆ど偶然だ。
オレの襟首を持った三廻部は胃のあたりに拳をめり込ましてきた。
酸性の臭いが鼻を突き抜け、目に刺さる。吐瀉した液体で呼吸すらも間々ならない。
オレは思わず左膝をつく。
「汚ねぇなぁ、ゲロ吐きやがった」
涙で揺れる視界で捉えた三廻部は不愉快そうに右手をシャツで拭っていた。
「たいした事ねぇなぁ、どいつもコイツも力で脅せば一発だ」
再度、右側から打ちおろすように飛んできた拳を俺はなす術も無く頬に受けた。
前のめりに崩れ落ちるのを辛うじて止めたオレの顔に三廻部が唾を吐きつけてきた。
それは、負けを認めろと言っている事が分かった。
「あの件で皆を脅していたのか」
相手の言葉に代名詞を乗せて繰り返すと人物の特定に繋がると昔読んだハードボイルド小説に書いてあったのを思い出す。
「テメエ知ってやがったのか……」
効果はあったようだ。オレは敢えて肯定するように首を縦に振る。
「・・・・・・当事者だから知ってても不思議じゃねえか。ゲロしたのはタイミング的に優梨子じゃねえな・・・・・・ 理と巴か……アイツらオレの子飼いの分際で裏切りやがったな」
何となく予感はしていた。
「プータローの分際で羽振りがいいのは金づるがいるからか・・・・・・」
呑むにしても大麻を吸うにしても元手はいる筈。こいつの家がウチと同じ老舗みやげ物屋であっても、物価の高い観光地で遊び続けていられるのは違和感があった。
「ああ、そうだよ。オマエならアイツ等から金をせびれるんじゃないか? 何せオマエの手をそんな風にしたのは理と優梨子なんだからな」
再び飛んできた拳が右脇腹にめり込むのをオレは何処か他人事のように眺めていた。
カラオケなのだろう。夜の帳から音程の外れた歌声が聞こえる。
「アイツ等も昔の事をいつまでも引きずる馬鹿ばかりだから、いいカモだぜ!」
ヤツの言葉と流れ落ちる汗、そして身体の痛みがオレの何かを壊しはじめていた。
「・・・・・・何がカモだよ。半ヨゴレのマイルドヤンキーの分際で。アンタ、近いうちに観光客にもソッポ向かれるぜ、アンタの素行の悪さが知れ渡り始めたようだからな」
おそらくあのTV局の男は光木とオレ、そして温泉街で観光客の女性を食いモノにし、尚且つ、大麻にまで関わっているこの男を取材対象としていたはずだ。だからこそ『ポアゾン+1』の存在をオレに伝えてきた。
ヤツの瞳に今までと違う色の光が宿るのを確認した上、オレは尚も煽った。
「そんなんじゃ、半年もしないうちに冷え上がって、アンタの相手をしてくれるのは大麻の売人だけになるぜ」
汗と血でぼやける視界の中、三廻部の後ろを幾人かの観光客が通り過ぎていく。足早に通り過ぎて行くその姿はオレたちと関わりを持ちたくない意思の表れに思えた。
「下手クソな煽り方だな。だがな、その事でオレをどうにかしようなんて考えてんと、優梨子や茜音みたいに死ぬ事になるぜ! なにせオレは悪運が強いうえ、手足になって動く子飼いがいるからよ」
せせら笑うようなヤツの言葉。
「お前がふたりを殺ったのか!」
膝に力が入らす、よろけ、前に半歩ほど出ながらもオレはヤツに目も見据え尋ねた。
「俺は殺しちゃいねぇよ。ちょいとビビらせろ!って命令しただけだよ」
「どういう意味だ!」
直接は手を下していないと言う事は理解できた。怒りから尚もオレはヤツに詰め寄った。
「茜音も優梨子も俺をシカトしたから、死神に魅入られて無様に死んじまったって事だよ」
再び飛んできた回し蹴りをなす術も無く右肩に貰ったが、痛みには既に慣れてきたうえ、前に詰め寄って受けた分、ダメージはそれほどでもなかった。
「あのふたりも脅してモノにしていたのか・・・・・・」
無様にヘタり込むオレを満足そうに眺める三廻部。
「へっ、だとしたら何だって言うんだよ。優梨子も茜音もスゲーイイ抱き心地だったぜ? 羨ましいだろ。」
オレを叩き伏せる事が出来て興奮しているのかヤツの舌は滑らかだった。
「五十里は・・・・・・妊娠していたんだぞ!」
身重の姉と五十里の姿が重なり、オレの奥歯がひとつなる。
「知ってるに決まってんだろ! 相手は俺なんだからよぉ。茜音も間抜けだぜ、自分を裏切っている人間たちの為に、俺に抱かれたんだからよ。」
見え始めた背景にオレはどうしようもない怒りを覚えた。
「女にマジで惚れる事が出来ないキサマが何をほざく!」
叫び。それでも三廻部は笑っていた。
「負け惜しみだな。一度ヤっちまえば、コッチのモンなんだよ。お前にも見せてやろうか? 優梨子と茜音がオレの舌で悶える姿!おまえにとっちゃ、スゲーいいズリネタにはなるぜ」
行為を盗撮したと言う事なのだろう。下衆の極みだ。
ヤツの得意げな言葉が続く。
「まぁ、
それらのデータが収められていると言う意味なのだろう。三廻部は、せせら笑いと共に自身のスマホをオレに掲げてきた。
「っっ!!」
怒りに任せて殴りかかった左手は虚しく空を切り、代わりにヤツの拳がオレの右あごを直撃した。
煽られていたのはオレで、それを分かっていたのは三廻部だった。
深く切れた口の中に血が広がっていき、鉄の臭いが鼻をつく。
「かーっ 痛ててて、硬い顎してやがんな」
左手を摩りながらおどける三廻部には、まだ余裕が感じられた。そして、オレ自身は手を摩るヤツの姿にとあるアイデアが浮かぶ。
おそらく勝機は一瞬。それに全てをかける。
怒気を隠さずオレは三廻部に歩み寄り、せせら笑うヤツの顔目がけて口の中に溜まっていた血と唾の塊を吹きかけた。
目潰し。
素早く動きソレを避けたヤツがオレの右側へと回り込む姿が見えた。
予想通り。
今までのパターン通りなら右から拳が飛んでくる。
オレは重心を後ろに引き、腹筋に力を込めた。そして、顎を引き、首筋に力を込め、凄まじい速さで飛んできたヤツの左拳めがけて額を突き出す。
狙うはヤツの左手薬指。
パ―――――ンッ!!!!!!!!!
頸と頭に強い衝撃。ソレとともに、発泡スチロールがはじけた様な音。そして耳から空気が抜ける感覚。
「ぐがぁあああ」
叫び声をあげたのはオレではなく、拳を突き出した三廻部の方だった。
「いてぇぇえ、てめえぇ何しやがる。指がぁあ、俺の手がぁああああ!!!!」
震える左手を己の目の前まで運び、それを引き攣った顔で見つめる三廻部。
「何って、見て分からないのかい? ヘディングだよ、ヘディング。オレはアンタよりケンカは弱いけど、サッカーは上手かったのを忘れたのかい?」
正直ここまで上手く行くとは思っても見なかったが、狙いは当たっていたらしい。
「オレもかなり痛かったよ、アンタの拳。まだ、クラクラする」
サッカーをやっていた経験で人間の頭の固さはある程度理解していた。そして、ヘディングで競る際、覚悟してぶつかった時と、そうで無い時の差も。
「いてぇ!!!!!!」
手を押さえながら今度は三廻部が壁を背負いだした。
歪に曲がった左手の小指と薬指。
「そのカンジだと、小指も逝ってるな。硬いだろ、頭って。アンタが武術をやっていたとしても、長続きはしていないのは想像つくからな」
鍛えていない指と頭ならどちらが硬いかは明白だ。
「くそっ、身体にまで力が入らねぇ」
ヤツの声には、まだ少しの力が残っていた事が腹立たしかった。
「指が折れるって、痛いだろ?」
オレ自身も怪我をして初めて理解したのだが、指の中であまり動かしていないイメージのある薬指。実はその薬指がモノを掴む手の切っ先と誘導、船で言う艫と舵を担う鋭敏な器官である事に気が付いている人は殆どいない。また、その薬指の骨は非常に脆く、怪我をした際の痛みは、神経群が集中している事と、全手指の一番やわらかい事も手伝い強烈だ。
オレは見よう見まねでヤツの鳩尾にを思いっきり膝を入れた。
息苦しそうに崩れ落ちる三廻部。
「てめぇ、覚悟は出来てるんだろうな。俺の叔父貴は腕利きの弁護士なんだぞ」
思わず笑いがでた。
この男は、いつの時代の悪役なのだろう。
「腕利きの弁護士の前で喋れば、アンタが『口笛が止まらなくなった』フリをしている事も、マリファナ臭い事もバレるけど良いのかい? 」
オレの言葉にヤツの表情は固まっていた。
「クズだけど、頭の回転と察しだけは良いみたいだな」
オレが言葉と供に再び足に力を込めるとヤツの瞳が泳ぐのが分かった。
「見逃すなら、いい事を教えてやる」
未だに上からの物言いを見せる自尊心の高さはある意味、尊敬に値する。
「アンタ、状況分かっているのか? オレが尋ねる事に答えろ。光木は何を条件にアンタと・・・・・」
ヤツの顔に醜い笑顔が浮かぶ
オレは三廻部の鼻っ面を蹴り上げた。
湧き上がる悲鳴。
「答えろ!」
鼻血を噴き出しなから完全に戦意をなくした三廻部にオレは吐き棄てるようにそう告げた。
「茜音は・・・・・・・・・を・・・・・・しろと・・・・・・それが条件・・・・・・」
ヤツの口からオレにだけ聞こえる声で真実が語られた。確信にも近い、ある仮説が脳裏に浮かぶ。
刹那
オレは再びヤツの鼻先を蹴り上げていた。
つま先に残る不快感、そしてヤツの発した悲鳴をオレは何処か遠くで聴きながら、再度足に力を込めた。
「全てを・・・・話したんだからよぉ、許してくれよ。なっ」
地べたを這うように哀願してくる三廻部。
「・・・・・・」
オレは何も答えるつもりはなかった。ただ、黒い怒りだけが心を掴んで離してくれない。
そんな中、ヤツの言葉は続いた。
「よく考えてみれば、マヌケな話だよな、オマエも茜音も、何年も悶々としていてよ。お互い怪我をさせちまった事を後悔しててよ。なぁ、九角、俺と組まねぇか? オマエもこっち側の人間なのは臭いで分かんだよ。なっ? 組もうぜ? つぎ狙うとしたらよ、この前のあの可愛いねーちゃん、詩子って言ったけ? アイツなんてどうだ? どうせ金持ちなんだ・・・・・・ぎゃああああああああああァー――――――
オレは三廻部修司の言葉が結ばれる寸前、折れているであろうヤツの左手を踏み抜いた。
折れた指を思いっきり踏みつけられ、痛みに負けた三廻部は失禁をし、気を失っていた。
崩れ落ちたヤツの胸ポケットからは、奥に隠していたのだろう数本のいかにも手製といった感じの巻きタバコとスマートフォンが零れ落ちている。
タレ流れている小便とオレ自身の汗と血の臭いで香りまでは分からなかったが、巻きタバコが大麻である事は直ぐに分かった。
オレは路地に転がっていた適当な大きさのレンガを左手で拾い上げ、ヤツのスマホに思いっきりソレを叩きつける。あっさりと砕けたスマホは画面に液漏れを起こした。
滴る汗と固まりだした血。そして黒く液漏れを起こす液晶画面。
再びレンガを握り左腕に力を込める。
視界にはスマホではなく、気を失い倒れている三廻部修司の姿。
このレンガをこの男の頭に叩きつければ――――― 心に洩れ出る黒い何か。
オレは腕に力を込めた。
「やめてっ!!!!」
聞き覚えのある声と同時に胸元に誰かが飛び込んでくる感触。オレはレンガを握ったまま、ブロック塀に腰を打ちつけた。
「そんなの頭に叩きつけたら、この男の人が死んじゃう!!」
「殺してやるよ、こんなヤツ!」
真顔で怯える新渡戸詩子をオレは正面から見据える事が出来なかった。
「とにかく、その石を放して!!!」
「コイツだけは許せない」
オレは左手に力を込めた。
「やめて!!!!」
その言葉と同時にオレの唇にふわりとした感触。
重ねられた新渡戸詩子の唇。そしていつの日かのシトラスの香り。
オレは思わず息を呑む。手から零れ落ちたレンガが地面に落ちて小さく砕けた。
「何のつもりだ!」
慌てて身体を離したオレのセリフが場違いであるのは分かっていた。
「さっきの仕返しよ! 少しは冷静になりなさい!」
ホテルでの一件を言っているのだろう。新渡戸詩子の瞳は涙で濡れ震えていた。
自分の奥底にあった、黒く重い何かが消えて行く。
「すまない・・・・・ 助かった」
多分、詩子が止めてくれていなければ、オレは三廻部を殺していた。
「・・・・・・この辺で一番、物騒な通りはココだって聞いたから、来てみれば奥のほうで、男の人がケンカをしているって噂話が出ていて・・・・・・色んな路地裏覗いて回ったら、九角君が倒れたあの男に向かってレンガを・・・・・・」
新渡戸詩子はまだ微かに震えていた。
オレを心配して探し回ってくれたのか、詩子の身体からは女性特有の汗の匂いがした。
「親父さんは大丈夫なのか?」
馬鹿な質問でもしなければ、詩子の匂いに取り込まれてしまいそうな気がした。
「大丈夫のわけないでしょ! 電話で散々アナタとの関係を問い質されたわ・・・・・・ だから、全部話したの。貴方の事も茜音の事も、そして、
涙を流しながらそう語る新渡戸詩子。
「それが、オレに偽名を使った理由か・・・・・・」
コクリと頷く詩子。
「貴方にも謝りたかったの。でも理系学生で、あの事件の被害者なら『nitoro』の事は知っているから、本名を名乗ったら、近づく事が出来ないと思ったのよ」
「考えすぎだよ。あの時は色んなSNSで騒がれた」
思い出したくもないが、それは紛れもない真実だった。
「その位は知ってる。でもね、主な発信源だった学生専用スマホの開発も、ふたりの事を面白おかしく書いていたSNSも、当時、女子高生だった私の発案なの。
コメントしたり、レスがついたりするとポイントがつくSNSで、射幸心を刺激して、そのポイントが社会人になってスマホを買い変える時の様々な特典に繋がる仕組みの学生スマホを格安で販売すれば、大手に対抗できるんじゃないかって・・・・・・」
学生のうちからユーザーを押えてしまう戦略と言う事なのだろう。流石、企業家の血を引くだけはある、凄い発想だ。
「本当にごめんなさい」
深く頭を下げる詩子。
「君が謝る事じゃない。風吹けば桶屋が儲かるってのと同じ話だよ」
オレは思ったままを口にした。人の悪意は善意と同様に全てを押しのけてでも沸いてくるものだ。
「茜音と同じ事を言うのね・・・・・・でも、九角君が茜音と同じように未だにガラゲーを使ってるのはSNSが嫌いだからでしょ? 着信もバイブだけだったり、車の中は静かな方がいいって言うのも、あの事件以来、電話の音に過敏になって、チョットした音でも電話の着信に聞こえてしまうからなんじゃないの!? 」
図星だった。
あの事件の直後、興味本位の人物たちの連絡により、オレの携帯は鳴り続けた。それは家業上とめることの出来なかった実家の固定電話や、親父やお袋、そして結婚が決まり幸せを迎えようとしていた姉貴の携帯も同様だった。気丈な姉貴は笑って見せてくれていたが、薬を飲まなければいけない位、心が壊れかけていた。オレは姉貴の門出に水を差したのだった。
「・・・・・・光木も苦しんでたのか」
「ええ。イギリスで出会ったばかりの頃は特に酷くて、少しの音にも怯えていた。だから、何度も謝ったわ。でも、その度に『あなたのせいじゃない』って言ってくれたわ。そして『日本にいる分、九角君はもっと苦しいはずだ』とも・・・・・・ 」
その言葉を聞き詩子も悩み苦しんでいた事は十分理解できた。
「オレはキミや『nitoro』を恨んじゃいない。恨んでいたらバイト先に『ν―toron』を選びなんてしない」
オレが見つめる新渡戸詩子は涙を袖で拭っていた。
「イギリス紳士じゃないから、オレはキミの涙を拭けるハンカチは持っていない。なにより、まだやらなきゃ事がある」
胸元にいた詩子からオレは少しだけ距離をとり、三廻部のスマホを手渡した。
「何をするつもりなの・・・・・・」
「初恋に対するケジメみたいなもんさ」
「さっきみたいな真似はしないで!」
語りかけた詩子の表情には憂いが浮かんでいた。
「分かっている。それよりキミには直ぐにやって貰いたい事がある。今、渡したのは
「・・・・・・ 非合法だけど、父に頼まなくても私なら出来るわ」
オレの言葉の意味を理解したのか詩子は強く頷いてくれた。
「すまない。結局巻き込んでしまった」
「茜音の為でもあるんでしょ? 気にしないで」
もう一度頷く詩子を確認したオレはガラゲーを開き、
内容は『錦通りの路地裏に恐喝と違法薬物使用の疑いがある三廻部修司が倒れている』と『五十里優梨子の事故を捉えているであろう駅前の防犯カメラで、彼女の隣にいる人物の動きを分析して欲しい』の2つ。
そして、一箇所、今度は電話を入れる。
コールは規定どおり3回。
「事務当直の九角です。長期休みを頂いて申し分かりません。院長に電話を回していただけないでしょうか?」
時間帯が良かったのだろう、電話口から『九角クンか?』との院長のゆったりとした声が聞こえてきた。
「院長、唐突でスイマセン。アレルギーについてひとつ教えてください」
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