根強く、根気よく
つぶらやこーら
第1話 根強く、根気よく
朝、起きてみると、父の頭がはげていた。
「おう、おはよう」と、いつも通りあいさつをしてくる父に、かろうじてあいさつを返す。
父は今年で52歳。生え際が後退していることをしばしば嘆いていたが、果敢なる生き残りが、昨日まで父の頭頂部にしがみついていたはず。その姿が、今朝は見当たらない。
頭部戦線異状あり、だ。それでいて肝心の総司令官どのたる父は、優雅に椅子に腰かけて、新聞を広げており、昨日まで盛んに気にかけていた戦場に、興味がないご様子。
今朝はまだ鏡を見ていないのだろうか。それとも、今の態度は戦友の死を悲しみながらも、表に出さない、大人の配慮なのか。
私は判断に困りながらも、オレンジジュースをコップに注ぐ。食パンを2枚取り出して、オーブンに入れた。最近、火力が強いものに替えたので、あっという間に焼けるだろう。
私はオーブンの中身をじっと見つめる。パンが焦げないように見張りながらも、父の頭の「焼け野原」をあまり注視しては、気の毒だと思ったからだ。
「お前、パンよりも俺の頭を気にしているだろう」
見透かしたような、父の言葉が、私の背中に浴びせられる。
滅相もない、と即答できなかった自分がくやしい。
「大丈夫だ。俺の髪は生きている。見ろ」
その声に振り返った、私の目の前で、父は自分の頭部に手を掛けた。
水泳帽を脱ぐように、父の頭は、ずるりと剥ける。
その下からは、確かに昨日と変わらない地平。広い荒野の中に、わずかな黒い芝を住まわせる、父の頭皮が姿をのぞかせた。そして、父の手に残ったのは、はげのかつら。
「育毛とやらに、興味が湧いてな」
父ははげのかつらを指に引っかけて、くるくると回している。
「知人に相談したら、このかつらをおすすめされたんだ。なんでも毛根のマッサージをしてくれるようで、かぶっていると非常に気持ちいい。更にこのかつら自体も、育毛の具合を教えてくれる機能がついているようでな……」
トースターが鳴り、父の声を妨げる。
「とにかく、根強くやっていこうと思う」と父は再びかつらをかぶると、新聞をたたんで、キッチンを出ていってしまった。
何年も通勤していると、この時間は、電車の何両目が混んで、何両目が空いているかというのが、だいたいわかって来る。
私は多少、階段から離れることになっても、空いている車両を選ぶようにしている。赤の他人と触れ合うことすら抵抗があるのに、先を急ぎたい一心で、わざわざ混雑する車両に入り込み、おしくらまんじゅうされるなど、とても耐えられない。私は圧迫されると、暴れ出したい衝動に駆られるのだ。
私はドア近くの手すりに陣取り、携帯電話でニュースを見る。多少、混雑車両より余裕があるとは言っても、一人がとることのできるスペースは、決して広くない。今朝の父のように、優雅に紙の新聞を読むなどしたら、白い目で見られることは必至。
私は記事を読みながらも、視力が落ち始めた目を休ませるため、時々、外を見やる。
何か、工事をしているのか、少し前まで空き地だったところに、白いメッシュシートが張られているのが見えた。
「ああ、あそこ、どうやらテニスコートができるみたいなんだよ」
昼休み。休憩室で紙コップのコーヒーを飲みながら、あの辺りに住んでいる同僚に声をかけると、こんな答えが返ってきた。
「最近、運動不足でさあ。完成したら、久しぶりにラケット握ろうと思っているんだよ。どうだい? お前もやらないか? というか、テニスできる?」
「学生時代に、少々」
やや目をそらしながら答える。
かろうじてストロークができるくらいだ。サーブすら危うい。
「じゃ、決まりだな。コートができたら、閑散期にでも声をかける。その時は、よろしく頼むぜ」
同僚はひらひらと手を振りながら、休憩室を出ていく。
視線を逸らしたのは、テニスの件ばかりじゃない。
生え際の後退を悩んでいた同僚が、今朝からつるっぱげになっていたからだ。
午後も自分のデスクで、黙々と仕事をこなす。
書類を作りながら、ちらりちらりと周りをみやると、やはりはげの割合が高い。
この場を仕切っている部長でさえもはげ頭だと、どうにも違和感がある。つい先日まで、パーマをかけていたというのに。
女性陣の表情も、心なしか緩んでいる。笑いたいのだろう。
針でつつけば、破裂しそうなくらい、頬を膨らませている者もいた。
「お前ら、今日はミスが多いぞ! たるんでいるんじゃないのか!」
怒るのが取り柄の係長が、檄をとばす。やはり、はげ。元から坊主頭だが。
「地域に根差した活動をする、我が社の社員足る者、襟元をただし……」
ただしているのは、あんたらの頭だろ。育毛とやらでさ、と私は頭の中で突っ込んでやった。
それからというもの、私は会社で、町中で、電車の中で、つい、はげ頭を意識するようになってしまった。
今まで気にしていなかったから、実際、どれだけの人がかつらで、どれだけの人が本物なのかは、ぱっと見た感じ、判断がつきづらい。中には文字通りの「バーコード」な方もいらっしゃり、何とも言えない気分になってくるのだ。
私は髪の毛に困っていないが、何度も見ているうちに、みんなを惹きつける「はげかつら」とやらに、ふつふつと興味が湧いてきた。
かつらをちょっと被らせてほしい。そう父に願い出たのは、はじめて「はげかつら」を見てから二週間後のことだった。
「お前がか?」と、父は少し意外そうな顔をする。
ちょうど二人とも定時にあがれたので、台所で一杯やっている最中だった。酔っていると思われたかもしれない。コップに注がれたビールは、泡の幕がすでに途切れそうになっている。
しぶられるかも、と思ったが、父はすんなり了承してくれた。あの時みたいに、ずるりとかつらを取る。
効果か思い込みか、父の戦場が、少し緑を取り戻したような気がする。
「気持ちいいぞ」という父の言葉と共に、かつらを受け取った私は、そうっと自分の頭に被せてみる。
最初こそ、野球のヘルメットのような違和感があったが、やがて頭がむずむずしてきた。
かゆい、というより、丹念に指圧をされている感じに近い。なるほど、毛根を刺激するにはちょうどいいかもしれなかった。その快さと酔いに押されて、まぶたが重く……。
「寝るな」と父に額を弾かれて、ハッとした。恥ずかしさに、乱暴にかつらに手をかけて、頭から引きはがす。わずかに「メリ」と剥がれる音がした。
心なしか、はげの部分がざらついている。剃りたての頭のような手ごたえだった。
「俺、そろそろこのかつらをとるわ」
同僚がそう言い出したのは、私が「はげかつら」を体験してから三日が経った、業後のトイレでのこと。ちょうどタイミングが重なり、鏡の前で手を洗っていた。
「じゃあ、そのはげかつら……いや、もうはげじゃないか」
かつらは「ツンツン頭」になっていた。ほんの数ミリ、短く整った黒髪が、まんべんなく、はっきりとかつら全体に浮かんでいる。
私は、かつらをかぶった日に父から聞いた。これは育毛が完了した合図なのだと。
友人がかつらに手をかける。「メリメリ」と、私が脱いだ時より大きな音がしたが、同僚は痛がるような素振りをみせない。
そして、下から出てきたのは、見事にふさふさとなった友人の髪の毛だった。広々と輝く、彼の額をよく見知っていた私は、そこがあふれんばかりに茂みに覆われていることに、驚きを隠せなかった。
「どうだ、大したものだろ。初めは効果を疑っていたんだが、ここまでとはな。このかつらもお役御免。返さないとな」
「レンタルだったのか」
私の問いに、同僚はある大企業の名前を挙げた。鉛筆から大型アリーナまで、その名を刻んでいるほどの、有名どころだ。
テニスの準備、忘れんなよ、と同僚がトイレを出ていく。私は手を洗いながら、父のかつらを触った時のざらざらした手触りを、何気なく思い出していた。
それから二週間余りの間に、職場からはげが駆逐され、代わりに髪のボリュームを増した男たちが席巻することになった。
正直、怒るのが仕事のような係長だけは、もともとの坊主頭の方が威厳にあふれていて良かったが、パーマをかけた髪を揺らしつつ、怒鳴る口元がわずかに持ち上がっているのをみると、結構、根が深い問題だったのかもしれない。
私は心の中で微笑ましく思いながらも、それをおくびにも出さず、淡々と仕事をこなしていく。
やがて、テニスコートが完成。約束通り、私は同僚と打ち合った。力の差は歴然。途中から明らかに同僚が手を抜いてくれているのが分かった。
私がラリーを続けられないのは、下手くそだからという理由だけではない。ここのコートは、最近増えている砂入り人工芝らしいのだが、最初に入った時に、やや黒みがかったその芝を手で触ってみたところ、あの日、父のかつらを触った時と、同じざらつきを覚えたのだ。実際、このテニスコートも、例の大企業の名前を冠している。
同僚は気にしているように見えないが、私はとんでもないことを、行っている気がしてならない。
加えてもう一点。
父もすでにかつらを脱いでいる。写真の中でしか見たことがない、在りし日の髪型を取り戻し、表情も穏やかになってきたような気がする。
だが、時々、鼻の穴からのぞくのだ。毛ではない、植物の細い根のようなものが、にょろりと。私が指摘しようとすると、さっと穴の奥へ引っ込んでしまい、不審な目で父に見られるのだ。
仕事場でも、電車の中でもそうだ。同僚を含めて、書類を見ながら、話しをしながら、携帯電話を見ながら、鼻水のごとく根っこを垂らすことがあり、しかも本人が気づかない。
どうやら例の大企業の影響は、しっかりとここに、根を張ることができたらしい。
根強く、根気よく つぶらやこーら @tuburayako-ra
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