第8話 竹橋君との愉快な旅

 …竹橋君は私より3才下の男で、以前私の勤める会社で同じ部署で働いていた同僚です。

 …その頃私たちの仕事はやたら忙しく、日々の疲れやストレスもけっこうキツイ状況になっていました。

「森緒さん、たまには週末どこか旅でも行きたいスねぇ… ! 」

 …陽が落ちるのが徐々に早まる秋の夜、残業中に彼は疲れた顔で言いました。

 さらに彼は私が旅行好きなのを知っていて、

「どっか…綺麗な海の近くの温泉とか行けたら最高っスよねぇ!」

 と、ちょっと遠くを見るような表情で呟やきながら明らかにリクエストして来たのでした。

「…じゃあ、伊豆あたりにでも行くかぁ…?」

 私がそう言って応えると、彼は笑顔で頷き全くもう即断即決で話は決まりました。

 そしてさらにもう1人、同じく同僚の湯野木さんも連れて週末の土日休みに男ばかりで伊豆に行くことになったのです。


 …という訳で秋も深まる10月半ば過ぎの土曜日の朝、私たち30代後半のおっさん3人は東京駅から東海道線特急「踊り子」に乗って出発したのでした。

「踊り子」は当時JR東日本のスタンダードな特急車両185系で、特急車両としては異例な開閉可能の車窓、…例えば熱海駅でホーム売りの駅弁も買えるという庶民的行楽列車なのです。

 …男たちは座席で缶ビールなど飲みながら、ミカン畑の向こうに広がる海を眺めつつ、列車は伊豆半島を南下して行きます。

 車窓から海の先に見えるは初島…そして伊豆大島。

「良いっスねぇ、鉄道の旅…!」

 竹橋君も湯野木さんも車内で寛ぎながら上機嫌です。


 鉄道の終点、伊豆急下田駅には昼過ぎに着きました。

 下車した後、私たちはバスに乗り、伊豆西海岸の堂ヶ島に向かいます。

 …まもなく走り出したバスは、下田の市街を抜け、山中へと分け入り、婆沙羅峠 (ばさらとうげ) を越えて、風光明媚な伊豆西海岸へと走り抜けて行きました。

 …バスを降りて、宿泊を予約した堂ヶ島近くの民宿にとりあえず荷物を預けて身軽になると、

「やっぱ温泉行きたいっスよねぇ!…露天風呂とか!」

 竹橋君が言いました。

 …民宿のおかみさんに訊くと、この漁港集落脇の丘の上に「沢田公園野天風呂」という温泉があるとのこと。

「行ってみよう!」

 と男3人でタオルを持って集落脇の石段を上がりちょっとした丘に登ると、確かに「沢田公園野天風呂」と表示された受付小屋がありました。

 入湯料500円を払って木戸を開けると、単純に四角い岩風呂が海を見下ろす断崖ぶちにお湯をたたえていました。

 一応板塀で真ん中を仕切った男女別湯になっていて、海側には丸太組みの簡単な柵がありましたが、野趣あふれる全くワイルドな温泉です。

「凄いっス!海の上の温泉、最高っス !! 」

 竹橋君は大喜び。…私と同い年の湯野木さんもお湯に浸かってへよ~んと寛ぎ満足そうです。

 すぐ眼下の海原には白い観光遊覧船がゆるゆると水面を動いているのが見えました。

「へ~イ !! 」

 嬉々としてはしゃぐ竹橋君につられて3人のおっさんは船に向かって手を振りました。

「…よ~し、じゃあ次はあの遊覧船に乗りましょうよ!」

 子供のようにキラキラした眼になってずんずん盛り上がる竹橋君なのでした。


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