ファイル3「看護体験実習×医療過誤」(4/4)


「あのミス、どうも引っかかるんだよね」

「え……?」

 医学生は邪魔だとばかりに、休憩してきていいよと追い出され、南と雪野は人気のない自販機コーナーに逃げ込んだ。その時雪野がぽつりと言い出した。

「まあたしかに横井さんはうっかりやりかねないけど、でもちょっと疑問でね」

「疑問だらけだよ」と、南は言った。うっかり、なんてことあるのだろうか。「やるわけないよ……。それに、彼は今、仕事にすごく前向きだよ。些細なことも全部ぼくに打ち明けて話してくれている。ミスをしたとしても隠すとは思えない。彼が違うというなら、それは違うんだ」

「……そんなの根拠にならないし。南くんの都合のいい勘違いかもしれないだろ」


 雪野は横井さんのことを何もわかっていない。

 と、思う反面、不安にもなる。

 自分の勘違いなのだろうか。

 本当は気持ちを分かってあげられてなど、いないのだろうか。

 本人の心の中を確かめることはできない以上、それは不確かなことだ。


「根拠なのかどうなのか、わからないけど、少なくとも、ぼくには……わかるよ。横井さんのことは、ぼくが励ましてきたんだもん……」

 言葉尻が消えかかる。

「でもさ、逆効果だろ、南くんが何を言っても。今、横井さんよりも戦力になってるし」

「そう……かな」


 押し黙る南に、雪野は意外なことを口走った。


「包帯が置いてあっただろ」

「あったけど?」

「あの患者に包帯は必要ない」

 雪野は首を傾げている。

「それが、疑問?」

「ああ。横井さんはなんでわざわざ包帯なんか持ってたんだ?」

 南は記憶を辿るように思い返す。

「いや、鮎川先輩に持たされてたんだよ」

「鮎川さんに?」

「うん」

 雪野はふと思案顔になり、

「いや、そうか……。鮎川先輩に持たされたのか。だとしたら論理的には、南くんが正しいな」


 同時に、南も思い当たった。

「いや、そうだ……。ぼくも、心当たりがある」


 雪野はあごに手をやると、


「横井さんや鮎川さんの担当患者以外には包帯が必要な患者がいる。左腕を怪我していて糖尿病の波多野さんだ。彼は右腕に点滴針を刺している」


 目を閉じて、言葉にしていった。


「森沢さんにヒューマリンを混注して【入】を書き入れた人物は、右腕に点滴針が刺さっている人イコール波多野さんだと思い込んでいたんだ。だからわざわざ包帯交換に備えて新しい包帯も一緒に用意した。包帯を持ってきたのは鮎川さん。犯人は、鮎川さんだ」


 そういうことか。包帯の疑問と真犯人がわかってすっきりした。顔を上げると。


「って、あれ? 南くん……いないし」

 いつの間にか雪野一人になっていた。


 南はナースステーションに戻ると、一人欠けていることに気付いてまた引き返した。そして隣の処置室に佇む姿を見つけた。肩甲骨あたりまでのストレートの長いポニーテールは彼女しかいない。

「鮎川さん、その……」

 そっと声をかけたものの、どう言ったものか。横井のことは見てきたけど、鮎川の性格は、まだ、よく分からない。

「何ですか?」

 その顔は不自然に引き攣っている。

 思わず胸が痛くなる。

 南は、人の顔を見ない癖がある。

 そもそも読み取りすぎているのに、情報量の多い顔を見てしまうと完全に情報過多になりパニックになるからだ。

 けれど、目を逸らさずに、南は言った。


「ぼく、点滴を間違えたこと、あるんです。昔の話ですが」


 横井には配慮してきたつもりだったけれど、鮎川のことまで気が回らなかったことに思い至ってしまった。

 横井の陰に隠れて目立たない事実だが、彼女だってまだほんの二年目なのだ。見た目はずっと年上だけれども。


「単なるソリタだったから体に害はなく、インシデントとして処理されましたけど……。そのことがあったから、よく注意して見ていたんです」


 忘れていたい嫌な記憶がまた掘り起こされていく。でも、引っ張り出すべき時だと、思う。鮎川は疑問を浮かべてこちらを見ている。南は覚悟を決めると、そっと打ち明ける。


「ぼくは、童顔のせいで若く見られるけど、本当は今年二十五なんです。もともとは看護大学を卒業して、看護師をやっていました。ずっと医者を目指したかったけど、自分に自信が無くて、人からもやめた方がいいなんて言われていて。実際、看護師としても、ダメダメナースで……。雪野くんは看護師に向いてるなんて言ってくれたけど、それは単に他のみんなより経験があるからというだけで、全然、向いてなんてない。経験していればできて当然のことができただけです」


 自分の看護師一年目、いや二年目だって、それはもう、暗黒時代だ。


「ぼくは悪い意味で……有名人だったので……。そんな時代を、貝塚さんなんて知っているから、黙っててほしいと頼んだんです」


 何か少しでも活躍するたびに意味深な視線を送られて、参った。


「横井さんが昔のぼくと重なって、昔話を彼にしか話してなかったですね。鮎川さんのことまで気が回りませんでした。まだ、二年目なのに……大変でしたね」


 師長の話では、いつも不安でたまらないなんて、患者に話していたという。不安をこぼす相手が患者であってはならないのに、それでもつい出てしまったのだろう。


 鮎川にまで自分の正体を隠しておくのは得策ではなかったと南は反省していた。もしかしたら、知らないうちに彼女を追い詰めてしまっていたかもしれない。


「聞きたいですか? ぼくが看護師だった頃の話」


 圧倒的にできる医学生が来たこともあった。

 人として劣っているような気がしてコンプレックスを感じたなんてことも。

 しかも、先輩看護師はすごくよくできる人だった。よくできて、そして、できない人の気持ちなんてわからないような、そんな人だった。


 そんな昔話を、南はもう一度、話して聞かせた。


 かつてダメダメナースだった頃。

 今度は自分が医学生としてペアを組んで、つい――チラついた、看護師をやっていた頃の嫌な自分のことを。


 鮎川が「自分がやりました」と名乗り出たのはそのあとすぐだった。

 みんなの役に立たなきゃと焦っていたと正直に申し出た。

 右腕に点滴をしているのは波多野さんだけだと思ったらしい。南達が森沢さんの点滴を左から右に変えてしまったのを知らなかったのだ。


「ごめんなさい、横井くん。私、言い出せなくて。あのままだと、あなたのせいになるかもしれなかったのに」

「鮎川先輩……」

 鮎川からまっすぐとした謝罪を受け横井は驚いたようだったが、痛ましい表情で、訴えた。

「先輩がいつも助けてくださって、俺、本当に感謝してるんです。俺が先輩に心配ばかりかけてるから……もっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんです。だから、俺だって悪いんです」

「そんなことないわ……」


 先輩と後輩の綺麗な関係に、南は一瞬敗北感と羨望を抱き、慌ててかき消した。

 ぼくも、そんなふうに言い合いたかった。なんて、つい考えてしまう。

 だめだ。もうあんな、汚い、どす黒い感情とはお別れしたのに。


 それから残りの日数、南はもう看護師の一員として働くことにした。隠すのに疲れてしまったし、もっと役に立ちたいという純粋な思いもあった。南の正体を知った雪野にはそんなのずるいじゃんなんて少し笑われたけど、ほっとしたようだった。同じ実習生として、プレッシャーをかけてしまっていたかもしれない。


 看護実習最終日、一日の終わりに横井と鮎川から名残惜しそうに「七日間本当にありがとうございました」と礼を言われた。

「ぼくは、何も……」

 充実した日々だったなと思う。

 横井は進み出ると、もごもごと口を動かして、

「なんだか、うまく言葉にできないんですが……南さんに、ずっと浄化してもらってた気がします。滅菌操作みたいな」

 なんて、よくわからないことを言う。

「ふふ……はは。滅菌操作、かー」

 菌のない清潔な状態で処置をすることをそう呼ぶけど――

 

 そっか。

 ぼくはもう、自分の中の菌を、自力で倒せるようになったのかな。

 一度戦ったからこそ?


 後ろからドンっと背中を小突かれる。

「南くん、本当に成長したわね。びっくりよ、もう」

 吹っ飛ぶかと思った。大柄で怪力な貝塚さんだ。

「は、恥ずかしいです、貝塚さん……」

「ごめんごめん。でも、あの南くんがねえ、こんな立派な看護師になっているかと思えば、医学生なんだもんねえ。医者になるんだもんねえ」

 しみじみと言われてまた赤面する。が、南はちょっと胸を張ると、


「今度は、患者の菌を倒す医師になって戻ってきますから」

 そう言ってみた。


「楽しみに、お待ちしています」

「頑張れ、南先生!」


 こうして、苦い過去を伴った看護実習は、幕を下ろしたのだった。

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