ファイル3「看護体験実習×医療過誤」(2/4)

 *


 看護実習二日目が始まった。


 看護実習は平日の五日間、朝八時から夕方五時までみっちりと拘束される。二時間や三時間などのバイトしかしたことのない大学生にとってはこの拘束時間だけでもかなりプレッシャーだ。普段バイトに明け暮れているらしい雪野も、正社員的な時間と日数には初め重圧を感じているようだった。


 でも、要領を得てくると、時間の使い方もうまくなってくる。次はベッドメーキングだから接遇の精神的負担はない、だから今ここは踏ん張ろう、など、感覚的にわかってくる。

 

 脳神経外科ではドレーンや様々な点滴ラインが入っている患者や寝たきりの患者が多いため、挿入部や皮膚の観察を丁寧に確認しながら洗浄の仕事を手伝うことが多いといったことも把握できてきた。


「波多野さん担当の平山ナースは今日でお休みなんだけど、波多野さんには尿道カテーテル抜去の指示が出てるから、その後の処置をお願いね、横井さん、南さん。あと、雪野さんも一緒に」

「はい」

 鮎川に言われて、横井と南プラス雪野でカテーテル抜去の処置を行う。バイクに乗っていて交通事故に遭ってしまって左腕を骨折。その際のCT検査でたまたま脳腫瘍が見つかり先日緊急手術を行った患者さんだ。男性の患者さんなので、男の看護師ならずらずら並べてもいいという判断かもしれない。一応、カーテンを閉めてプライバシーを確保。


「はあ~管が外れた~。やっと自由だ~」

 患者のすがすがしい笑顔にこっちまで嬉しくなる。こういう時、看護の仕事もいいなと南は感じる。

 波多野はがばっと立ち上がって言った。

「ちょっくら売店行ってきちゃうから~」

 ぬっと壁のような影――ラガーマンのように大柄な体格であることに驚く。

「行ってらっしゃい。転ばないよう気を付けてくださいね」

 鮎川もにっこりと送り出す。

「おうよ!」

 スポーツか何かやっていたのかな。なまってしまった体を動かしたいとばかりに勢いよく歩いていく。

 ――大丈夫かな。

「次なにします?」

 南が横井の方を見ると、

「そうですね……やることは終わってしまいましたし」

 横井はそう言って先輩鮎川の方を見やる。

「いいよ。ちょっと待機してくれる?」

 よし。

「それなら、波多野さんと売店に一緒に行ってきてもいいですか?」

 南はいたずらっ子のような顔で申し出てみる。一瞬和んだ空気が流れた。鮎川と横井と共に、通りかかったベテランの貝塚に視線が向く。

「あら、悪い医学生さんですね。いいですよ」

「えへへ。失礼します」

 うまくいった。


 南は波多野を追いかけた。勢いよくと言っても、自由な右手の点滴台を引き引き歩いているのでさすがにすぐ追いつく。

「ご一緒してもいいですか?」

「おっ?」

「何かあるといけませんので。それに、ぼくもちょっと気分転換なのです」

「はは。一緒に行こう」


「ずっとベッドに縛り付けられてさ~。もう嫌んなってたよ。いつもの担当の看護師さん、厳しいんだよね~」

 波多野の愚痴を聞きながら、南は点滴台を代わりに押してやる。売店でプリンを買おうか悩んで結局缶コーヒーを二本買った。

「お兄さん、さっき持ってたプリンやめたの?」

「はい。やめました。よく考えたら食べる時間ないし」

「俺、糖尿だからさ~。プリン食うくらいならその分おにぎり食うね」

「糖質制限ですか」

「そーなのよ……おっと」

「大丈夫ですか?」

「はあ……っ、びっくりした」

「久しぶりに歩くと慣れないですよね……」


 生活変化のあった患者さんは特に転倒リスクがある。

 帰るまでに一度躓き、二度転倒しかけて南が支えた。


「いや~あぶないあぶない。よう転ぶわ俺。この看護師さんいなかったら怪我してたね。骨の一本は折れてたかも。これみたいに」

 帰るなり、波多野はそんなふうに言って、ギプスで固定されて首からつられた左腕を突き出す。あの包帯の下には生傷がまだ痛々しい。


「そうだったんですか。付き添ってくれて助かりました」

 鮎川に頭を下げられる。


「なんだか心配になっちゃって」

「本当によく気付いてくれますね……。助かります。ありがとうございます」

「いえいえ」

 医学部じゃいつも叱られてばかりなのに、ここでは頼りにされている気がする。

 同じことを思ったのか、横にいた雪野が、

「南くん、看護師向いてるんじゃない?」

 なんて言ってくる。

「う……ぼくは医者になるんだもん」

「でも、びっくりするくらいちゃんとやれてる」

「びっくり、かあ……」

 そう言われると苦い気分になる。普段どれだけ役立たずだと思われているんだろう……。


「横井さんなんか見てみろよ、またなんかやったみたいで、先輩ナースにしぼられてる」

「し、仕方ないよ……一年目なんだし」

「あのポンコツ看護師よりは俺らシロウト医学生の方がマシだよな」

「あ、あはは……。いや、きっと、任されてる量とか期待されてることが違うんだよ……うん」

 雪野は相変わらずの切れ味だなと南は苦笑していると、鮎川と目が合った。

 あ、やばい。

 雪野の発言が聞こえていたかもしれない。気分を害しただろうか、不機嫌そうにツカツカと歩み寄ってくる。


「雪野さん、昨日渡した本、読んでくれました?」

 だが雪野は少し姿勢を正すと、

「はい」

「そ、そう。三冊とも全部?」

「はい。持ってきたので今日お返しします」

「そんなすぐに返さなくても、わからなくなったら見返すのに使ってもいいわよ。実習はまだあるわけだし」

「頭にはもう入れたので」

 鮎川は少し面食らったように押し黙ると、

「じゃ、知らないわよ」

と、くるりと背を向けてしまう。


「さすがだね雪野くん……」

「なにが?」

「いや、いろいろと」


「それより南くんは、どうしてそんなに看護師の仕事ができるんだ?」

「へ、ぼく?」

 雪野が戸惑いながら首を傾げてこっちを向く。


「そ……それは……」

 南は口ごもった。


 貝塚がこっちを見てくすりと笑った。

「ふふ。南先生、立派ですよ」

 その意味深な視線に、顔から火が出そうになる。


「ぼ、ぼく、横井さんの患者さん看てきます~!」

 逃げるようにしてその場を後にした。


 横井の担当している患者は森沢という初老の男性たった一人だった。横井とペアになるというのは大変だったが、人数という意味では気楽だった。

「森沢さ~ん、点滴針には気を付けてくださいね」

「おお、悪い悪い」

 森沢は点滴を挿している手をついて起き上がったり、なんだかちょっと危なっかしい。

「ん……? ああ、森沢さんは左利きなんですか!」

「ええっ、そうだったんですか?」

 南の横で横井も驚きの声を上げる。

「まあ、親に矯正させられて両利きだけどね。でも、反射的には左手が出ちゃうよ」

「では、ルートは右腕に変更したほうがより安全かもですね。すいません俺、全然気が付かなかったです」


 横井は素直に詫びて、南に尋ねた。


「南さん、どうして、気付くことができたんですか」

「まあ、なんとなくわかりました」


 皮膚の内側に入り込む、そんな感覚は、いいものだ。患者の言葉、沈黙、表情、動作から、看護師が患者と一体になるようにもっていく。ぴったりとシンクロする瞬間は、ある種の芸術だと思う。


 人の役に立てるって、いいものだな。と、南は改めて思った。


 一方で横井の姿が自分に重なるようで、見ていられない時がある。

 いつもこんな感じに見られているのかなあぼく。


 休憩時間になり、南は横井と別れた。

 彼はちょっと外の空気を吸ってくるらしい。


 横井は今、何を思っているのだろう。

 困っていないだろうか、悩んでいないだろうか。

 心の声が聴けたらいいのに。そしたら助けてあげられるのに。


 *


 自分の力不足のせいで、目の前の患者を幸せにできない。


 言い訳をしても追いつかない。看護師としての実力が、ただただ足りない。圧倒的に、足りない。それだけだ。


 有能な医学生とペアにされてしまったことで、自分の駄目さが際立ったように感じた。

 憂鬱で憂鬱で、おなかが痛くなるほどに。


 同僚の先輩はすごくよくできる人だ。でも、自分より先に看護師になっていると思えば、納得感もあるし、仕方がないと思えていた。だけど、まだ素人同然のはずの医学生にまで看護の仕事で追い抜かれたら、それはもう、立場がない。


 人と比べたって仕方がないとわかっているけれど、気になるものは気になる。


 この場から、逃げたい。


 看護師としてのこの一日が、この一時間が、この一秒が、もう耐えられないと感じた。でも、自分の選んだ道が目の前にあって、歩まざるを得ない立場に置かれていて、立ち止まることなどは許されていなくて、前向きな気持ちで取り組んだってギリギリなのに、常に消えてなくなってしまいたい気持ちのまま、それでも自己満足のためじゃなくて患者さんにとっての心からの幸福という成果を上げなければならない。


 看護師を辞めることも考えた。でも、ここまでやってきて、なんのために辞めるんだ。


 本当はすべてが恐ろしい。

 命に係わる業務も。

 助けてくれた医学生の存在も。


 看護の仕事が大変だから失敗続きなのだというシールドを剥がされて。

 自分は単に無能だからできていないだけだと言われたような気がして。


 いや、それは事実で。


 看護師なんてもうやめたほうがいいのかもしれない。

 向いてなかったんだ。


 早く、一刻も早く、強制的に辞めさせてくれればいい。

 自分から辞めたわけじゃないから諦めがつく。

 過去の自分に申し訳なく思うこともない。

 仕方のないことだった。自分はやれる限りやった。そう思える。


 でも、医療の現場は人手不足で、こんな自分でもまだ必要とされてしまうらしい。

 それってもう、誰にとっても悲劇みたいなものだ。


 涙を拭って、持ち場へと戻る。

 足は震えていた。


 *


「南くん?」

「あ……」

 雪野の声に顔をあげる。

「どうしたの?」

「いや、ちょっと、考え事してた」

「ふうん」


 人に興味がなさそうな雪野に心配されるとは。自分はそんなにも深刻な顔をしていただろうか。


「自信なくなることって、あるよね」

 南は言うと、なかなか戻ってこない横井のことを案じた。

「横井さん、大丈夫かな。どうにか励ましてあげたいんだけどな」

 雪野は何も言わずに聞いているのかいないのか。

「なんか気持ちわかるんだ。だから」


「ま、南くんはこの看護実習、余裕ありそうだし、やってみたら」

「うん」


 いつも助けられてばかりの自分が、今度は助ける番だ。

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