第60話

今日も偶然に誘われて茶を飲む、それも時間たっぷりのところで、灰色を基調に店内は香りを込めて蒸気が放出され、お手拭きのラベンダーも揮発しては爽やかに香る、休日をせかせかと過ごしてばかりで、毎日時間に追われている、それはとても大切なことだが、荷の降りた一時も大切だろう。


カウンターは孤独同士を結びつけたがるようだ、飛沫を防ぐ透明な仕切りはあっても、穏やかなジャズの甘い歌声が流れていると、昼であっても暗い店内は夜の慕情を募らせる、おそらくどちらも一声が欲しいのだろう、そこに想像が膨らみ、何も起きないのが引っ込み思案の現実か。


窓辺の花弁は映画を観るばかり、陽射しの影に沈思してたそがれ時となる、とにかく香りは人を惑わしてやまない、フローラルだろうとスモーキーだろうと、人は記憶をたよりにしんみりしてしまう、それが早春の大勢いる人の街でも、ビルの中は季節を閉じて昼も夜もなくしてしまう。


セイレーンの歌声のように鍵盤楽器は繰り返されて、わずかながら姿を変えていく、メタモルフォーゼという言葉が何よりしっくりする音楽を耳にしながら、約一年振りとなる演奏会の場で待っている、難しさはほんのわずかでも解けるようになったか、今からそれを問うことになる。


重たさは目、腹、それとも脳だろうか、週の始めから苛立ちが転転する、気分の八つ当たりを口八丁に頭に述べ続けて、細かい過失を責め苛む、愚痴が愚痴を呼び込み、綻びは誰かの心をかき乱して、物事を繕わなければならない、それが今日も人数不足によって広げられた。


書ける時はどしどし書いたほうがいい、あと二日もすればそんな気は乗らなくなり、油が欲しいと体のひずみを脳に響かせてしまい、思考は決まった誰かをくさすことばかりするのだから、平日の朝と夕とは異なり、夜の練習所は来ることも珍しい、そこで行われる事を前に、自分を演じても悪くない。


まるで対決する家族のようだ、まだ一言も話しなどしていなくても、空間における円は物理的な融和と親密性を生み出すらしい、まるで古代の様相まで連想されるほど、一分間における沈黙は吸着力があるようだ、闘うでも和解するでも同じことか、見知らぬ周囲にそんなことを思う。


酔い醒ましの日光浴だ、昨晩の酩酊の割には体調は良く、長くない睡眠でも体は機能を取り戻している、ただし頭はそれほど働かず、やはり酔いが残ってぼんやりする、今日は暖かくなるらしいから、くしゃみとかゆみも共に向かいの犬と対面する。


日日は仕事を追って貯める、これを書いて、これを載せて、次へ次へ、そんな夜どころか日中さえも、消失について思い至る、視界は虫や花のように変貌して、心底の恐怖をひとすくいしては活力とさせる、期限に着くまで、あとどれだけ味わえるのだろう。


菌のあとにウィルスの活性を鼻に感じる、皮膚は常に気を奪わせて、青臭い悩みを四十前にしてやます、早く床に入れば寝付けず、体はすこぶる元気にあるくせに、どうしてこうも共に居続ける生物が増殖するのか、おそらく数日前のたたりだろう。


数年前のフレンチを求めて曇り空をくぐれば、もぬけの空となっている、入れない室内は幽棲なほど暗くとまり、ガラス越しに透けるからこそ今が閉じこめられている、車輪の向きを変えてランチの居酒屋に入れば、ラストのカキフライにありつけて、営みの表裏が潮の味に茫洋とする。


タイピングマシーンを忘れるのは致命的な過失だが、メモ用紙とペンを置いてくるのも痛手となる、どちらかがあれば吐き出せるにしても、紙に書くという行為はキーボードタッチの音楽家気取りとは異なり、文筆家らしい様相で演じることができる、その違いは歴然とあって、心はやはり紙に宿る気がする。


風の強い朝は濃霧が発光している、道のあちらへ太陽が分散して、心は散り散りになる、人対人の小スペースにおいては、大自然の効果はあまりに滑稽にさせる、挨拶も交わさず過ぎ去る人間の営みには、所詮笑いでしか解決できないユーモアがある。


蚊の一撃による苦悶煩悶はひとまず捨てて置こう、それより色のある話を自分に喋るべきだ、朝は寒くとも昼には暖かく、小鳥がテーマにラジオされているのだから、目は悪く、良く見えないが、たまには視線を合わせてみよう。


あぶくのように上下水道からガスが間歇する、今日もまた腹はゆるく頭をふらつかせる、肌着を薄く娟娟と女も風に乗るように、晴れ晴れした日に一人腹蔵にこもりそうだ、とはいえ予定は軽く明白なので、縛りを自ら解いて素にさらそう。


泉鏡花で春が来た、空気のあかつきに文字による海が浮かべられて、玉と着物が濡れて打ち上げられる、眠りによる眠りが全身を弛緩させて、薄幸と発光が言葉に幻惑させられると、創作の息は再びかえされる。


尻尾の毛並みが路面にしなだれるよう、小さな犬と少女が陽光の陰で歩き、昨夜の映画の余韻はより強く心を和ませる、緑と土の香りを意識に漂わせて、一枚脱いだ上着は軽くまわりを見渡す、ありありとした親類の目線がそれぞれに宿り、向こうの子供の声も麗らかだ。


弱い者ほど第一に嘘がつく、責任を問えばかわす反応が直ちに発動する、それ以上は自分をわざわざ苦しめることになる、そのような相手と本気になることはなく、すぐに切ってしまえばいい、そんな事を今になっても新鮮に感じてしまい、これで当然の世の中に変革を求めそうになるから、自分をまず見直す。


夕刻に手が空いたのに、なにをわざわざ家を出て用事を足すのか、手持無沙汰とは異なる、ゴールに酒を置いているからだろう、小さな手間だけを予定に気楽に夜を動き、どちらの店へ行くか迷うくらいが、気楽でいい。


友達についてカウンターに聞く、頭の鈍さを第一の言い訳にして、そんな考えはすでにないことを考える、そもそも疑問に思ったことがあったか、ふと高校の記憶が蘇り、その時点で答えが出ていたとすぐに結びつく、悩むくらいがいいのだろう、諦めては楽しみもなにもない。

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