第31話

人員の少なさと、手際をはかってそわそわする、三十分の余裕がありながら、間に合わないと思いこませる動きがとろとろする、とはいえ待ち合わせに早く着く性分を省みて、おそらく時間通りに行くだろうと、とりあえず席に腰を落ち着かせる。


寝不足を避ける傾向にあったと、休み明けの体の軽さと目の重さに気づかされる、夜を起こさせる程の用事がなかったとはいえ、寒さが安定した働きに向けていたのか、とはいえ、集中力が削がれているとしばたたくので、今日は早く眠ろうと、繰り返す毎日の口癖を言う。


父の頭を侵食し続ける曲がラジオに流れる、待つわ、その音楽が眠れない夜に、何日といわず、何ヶ月も繰り返される、良い曲なのに、それでもしつこく悪夢にも届かない現実の痛みになるのか、度が過ぎるよりも、足りなくなるよりも、消えるべきか。


時に心から両親に感謝するほど、自身の特徴が日日に力添えしてくれる、ダイエットとは今後も無縁な骨の肉体も、昔はひけめとして長ズボンばかり履いていたが、今は好ましい、地黒で赤みなど帯びない土気色の顔も、この歳に長所となってごまかしている。


昨日までの晴れて乾いた時候と打って変わって、今日はにわか雨もある湿った曇り空だ、天候が気分を好き勝手に左右するとはいえ、人の心はもっと極端に震わせてくる、例えば好意を持った人のちょっとした表情や声とか、悩ましい作業の進捗とか。


髪型や衣服のように香りにも特定の個性がついてしまう、音と音の組み合わせに概念が与えられるように、言語としての流行の香水はあまりに多く頒布されて、生活圏のとある場所、とある時間に放たれる、もしかしたら、好みもたやすく分散するだろうか。


梅干しの下に唐辛子が隠れていて、その辛さに故郷が心に広がっていく、ある者には赤い酸味がそうだろうか、その感想を書き忘れた、多くの国で作られるピーマンの肉詰めに、ふと思い出す。


雨の日はもう家に戻らない、弁当への導線がやや伸びたから、そもそもどうして長靴をはいてまで帰っていたのか、答えはとうに知れた習慣だ、自転車でも戻れそうな小雨から戻り、わずかに開いた窓から気づく、これまた特別な事務所戻りだ。


右半身のずれはもう長いこと節節に違和を伝えている、左には一切ない痺れやつっかえが、書く字をよりまずい形にしている、年年字体が汚れていく、体を表すなんていうが、心身のどちらがそうなっているのか、不具合はたしかに迫ってきている。


深呼吸は体に良いと十数年前に知ってから、意識するようになった、洗顔の際の鼻腔の掃除もだ、宗教音楽を聴いている時にたまたま大きく息を吸い込み、とめて目を瞑れば、そのように心を働かせたわけではないのに、仮死の瞑想が訪れる、仕草が自然の心理を精神に流れさせる。


豚の骨と脂だけか、多くを食らったわけでもないのに、腹は一晩でガス工場と化した、右頬に腫れ物のうずきがおこり、場所をわきまえつつもかまわず放屁する、天然薬とするキャベツが万能なわけではない、再び休みがつきつけられる。


角にクレマチスが色濃く青を咲かせるのに続き、側面で桃白の紫陽花も次次と開いていく、古風な石造りの外観に沿って、コーヒー屋の小さな花壇は今年も栄えている、あの大きな花弁を見て、いつか送ろうと送れていないのだ。


白いソックスをはく少女が角で待っている、数十分前に痩身長躯の若い男との別れをみた後だ、美容室の下の一場面は物憂げに背を壁にもたせかける、健気と思っているところに、速く走りそうなドイツの車がT字路真ん中にやってくる、そういう世界だ。


覚えていると信じ込んでいる声音は、電話のベルの回数によって即座に取り払われる、時間によって人は入れ替わるだろうと、その待機時間までの中身をとらえずにいた、間抜けな声での問いかけにあきれるばかりだろう、だからそれを確かめる理由をつけて、もう一度電話する。


昨夕は前夜の眠りを注ぎきったのか、今日の帰りもどこかに寄って、川と明かりの中で花に酔って進めよう、そう意気込む清涼とした朝だが、数枚読んだだけですでに目は重たい、この眩しさに開かせてもらえればいいが。


からあげが匂ってくる、コーヒー豆を焙煎する午前中もある、夕暮れには前から焼き鳥の煙がもくもくとするものの、近くの中華料理は音沙汰がない、カレーや胡麻油、昼前の重労働のあとは目が朦朧として、斜向かいの山椒がやけに建物内に香る。


種類の多さうんぬんではなく、犬よりも魚のほうが名前を知っている、頭が焼けてしまいそうな夕映えを道に見ながら、ガラス窓の向こうの白く目のつぶらな暇犬を観察する、やっていることは同じだ、小さい子供や自転車など、名の知らないものは何でも反応する。


ほんの少しの時間に補給する、ちょっと一声が相手ではなく、自分に実りを抱かせる、イエローとライムグリーンの流線はマフラーの高いバイクに追い抜かされる、トラックがいつ来るかなどと、わかっていながら、わからないふりをする。


左瞼が昨日からぴくぴくと動いている、義兄らしいことができるだろうか、末っ子として甘受してきたからこそ、他を見習っての世話好きの面があるのか、それとも親の遺伝だろうか、親しくしてくれる、そんな義妹がいるなら、臆せずに迎えよう。


マーキングだろう、日陰でさえも香りを消し去ってしまいそうな日の中で、風の弱いうだる暑さに残っている、横へ走る残像は遅く、その間に何かが行われていたことを証拠としている、実像の過ぎ去った後に立って、間違えそうな幻がかっことして鼻にのぼる。

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