長いツイート

@J_Michael

年を経る

 19年の3月、まだ寒い日に僕は京都駅でバスを降り、駅構内へと足を踏み入れようとしていた。その信号待ちの列では、中年の男が拍手をするように手を叩いていた。もちろん、奇異だ。しかし、それを看過する僕らはいつも通りだった。その奇異が直接こちらを侵すまでは――あるいは侵してもそれを看過するのかもしれないが――僕らはお互いに不干渉で、それは普通のことだった。もしかしたら、例えば彼はただ虫を落としたかっただけなのかもしれない、と考えることだってできる。あくまでもその虫は我々には見えないが。2019年、と僕は間抜けにも今年を再確認した。義務教育を終え、自我の端くれを得てからと言うもの、特に大学に入ってからは西暦が嫌いだった。いや、西暦ではない。年が嫌いだった。例え和暦であったとしても、卑近なこの2010年代後半が、あまりにも日常過ぎて却って不自然に感じるのだ。時折訪れるこの感覚を描写する内に僕はもう駅構内にいよいよ入ろうとしていたが、件の男やさっき信号待ちしていた集団は同じようなスピードで歩いていたため、僕らは連れ立っているようだった。男は、別の男から横浜あたりの駅と京都駅との話をされ、何事か返答しているようだった。ほら。さっき干渉しなくてよかった。駅前では見つめ合うスーツ姿の男女が1組、歩く人々を掻き分けるように立っていた。女の方が今にも平手を打ちそうな顔をしていたのでしばらく突っ立って見ていたかったのだが、それは奇異だ。僕は素直に流れに沿って地下へ下る。嵯峨野線に乗るには、地下を経由するのが楽だ。駅構内に入ったことで、また僕は年というものについて考え始めた。例えばこの文章が「95年の冬のことだった……」と始まっていたらどうだろう。どうもこうもなく、煮え切らない僕の感情が流れて行くことに変わりはない。しかしそこには何か少し切ないものが、大事なものが、不思議な郷愁めいたものが漂っているようにどうしても感ぜられるのだ。これを文字に起こそう、嵯峨野線に乗り込んだあたりで僕はそう思った。何もないよりかはあった方がいい。2人掛けの窓側に座ると、前の席には高校生が座った。時刻はもう20時近く、少しだけ奇異に思ったが別にそうではない。これは本当だ。そうして散漫な視界を遊ばせていると、不意に彼女の鞄に刺さった一輪の造花が見えた。そうだ、今日は卒業式なのだ。

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