21  呪詛返し・後


 薫は、居間から出ると、喜左衛門親子と連れだち、屋敷の奥の離れに向かった。

 屋敷には、広い中庭があり、上から見るとコの字形になっており、奥にゆくには、長い廊下を歩かねばならない。

 暗くて見えないが、中庭には池があるらしく、魚が跳ねる水音が聞こえた。

 冨美枝は、先代が建てた離れで寝起きしていた。屋敷の使用人に見られて噂が広まるのを恐れたからだ。

 離れに近づいた薫は、あたりの空気が急に澱むのを感じた。

 特に霊感などはない人間でも、ある場所に、とても嫌な雰囲気や気配を感じることがあるが、その部屋から漂ってくる気配は、ただ事ではなく、喜左衛門親子の顔が、たちまち青ざめる。


「今までの様子からして、あと四半刻もすれば呪詛がはじまるでしょう」

「いつも、こうして同じ刻限に呪いをかけるのには、何か理由があるのでしょうか?」

 喜左衛門が薫に訊いた。

「ええ。そうすることによって、この場所に《陰》の気を集める道筋を作るのです。

 この部屋に近づいたとき、何か嫌な感じがしませんでしたか?」

「言われてみれば……寒いわけでもないのに、肌が粟立ち、なにやら近くに行くのが嫌な感じです」

「それが呪の道筋です。まだ呪詛がはじまる前から邪気が集まりはじめているのです。手前が最初に結界を張ったのは、呪詛を返す前に、邪気をあまり屋敷に入れないためです。術を行うには、いろいろと手順が必要なのですよ」


「篁先生は、どうやって呪詛を祓うのですか?」

「呪詛を返すためには、ふつうは、さらに面倒な段取りが要りますが、手前は、面倒なことは嫌いです……

一晩中経文を唱えたり、護摩を焚いたりもしません。一気に斬るだけです」

 そう言われて改めて薫を見ると、素袷に小倉縞の高マチ袴を穿き、大刀を落とし差しにして、まるで剣客のような姿である。

 それは、喜左衛門の思い描く陰陽師のイメージとは、まるでかけ離れていた。

 以前姿を見かけた、隣町の駒込に住む陰陽師は、平安京にいてもおかしくないような、人目を惹く格好をしていた。


「陰陽師であろうが、あるいは修験者、坊主、神主であろうが、突き詰めてしまえば、どれだけ《ちから》があるのか……結局は、それに尽きるのですよ」

 喜左衛門は、納得しかねて薫に目を向ける。

「しかし、経文や祝詞なくして呪詛が祓えるものなのでしょうか?」

「先ほど話したとおり、手前の祓いは、返閉という邪気を払う方法の応用……

それに、神道の秘伝“剣祓い”を独自に混ぜたものです。

剣祓いには『九字』で払うやりかたと、『妙』という一字で払う、ふたつのやりかたがありますが……」


「篁先生は、いったい、どうやって……」

「増村殿。剣術の気合い声は、聞いたことはありますよね?」

「ええ。そりゃあ、この近くにも道場がごさいますので、前を通ると、エイ、ヤー、トー……などと、やっていますからね」

「手前の呪詛返しは、剣の《理合い》と、そのエイ、ヤーッ、トーの《気合い》が経文がわりです。

素人の叫び声とちがい、気合い声には、深い意味合いがあるのです。それは……」


――気合い声は、現在の剣道では、意味不明な絶叫と化してしまっているが、本来は、深い意味があった。


 ひとつは、動作と呼吸の一致である。

直心影流では、四陣という型の阿吽の呼吸が知られているし、宮本武蔵の二天一流では、打ちこむときに、ターン。という、独自の気合い声をかける。

 気合いは、大きく四っつに分けることができる。

「仕掛けの気合い」「構えの気合い」「間の気合い」「納めの気合い」だ。


 仕掛けの気合いは、「ヤーッ」。ヤーッは『也』であり、数字でいえば『八』、八は、偶数で陽の位に当たり、八千の理に通じる。

 八は体の極まり、千は、道理の極まり。

 八方に気を配り、油断のない構えと鬼神をも崩す烈気を表す。


 構えの気合いは、「エイ」。

 エイは『曳』であり、数字でいえば『九』、九は、奇数で陰の位に当たり、九萬の理に通じる。

 九は数字を表す最大の文字に当たる、つまり数の極まり。

 『曳』は、『映』の意味を持つ。

 敵の仕掛ける技から出る気、動く変、発する機、すべてを映じる鏡であり、受けて変化する臨機応変の気合いである。


 間の気合い、納めの気合いは、「トーッ」である。

 トーッは、『到』であり、数字でいえば『十』。

 十は数字のすべて。『全』であり『完』。完は陰陽の極まりであり、有声、無声の気合いを合わせ持つ。陰陽の変転が収斂するとなり、再び陰陽に分かれて千変万化に変化する残心の構えの気合いに当たる。


 このように剣術には、かつて気合い声ひとつとっても、深い意味合いがあったのである。


 離れの部屋まで来ると、喜左衛門親子の足が止まり、薫が襖を開けたが、入室を躊躇う。

 部屋のなかには、澱んだ空気がねっとりと漂い、風もないのに行灯の明かりが、微かに明滅しているように見えた。

 親子にはかまわず、薫は部屋に入ると、眠っている冨美枝の枕元に立ち、口元に指先を運び、鋭く呼気を吐いた。


すると……。

 玄関の前に立っていた式神が、滑るような足取りで、屋敷の裏庭に向かい、薫が見つけた厭物を埋めた跡に駆けつけ、三尺の陣太刀を八相に構え、そのままピタリと動かなくなった。


 薫は、刀をいったん腰から抜くと、両手で頭上に捧げ持ち、再び、ゆっくりと帯に挿した。

 そして右に二回柄を回して、ゆっくりと座る。

 左足は普通に、右足は、やや膝を立て気味に足裏を前にだした、無形流居合術の座構えだ。

 無形流は、別所範治が興した、新田宮流の和田平助正勝からの流れを汲む流派である。

 薫の左手は鍔元に、右手は立て気味の右膝に、自然に置かれている。


 喜左衛門親子は、部屋には入らず、廊下に座りこみ、薫の姿を見守った。

というよりも、奇妙な圧迫を感じて、部屋に入るのが躊躇われたのだ。


 薫は、冨美枝の足元に、座構えを取ると、そのまま動きを止めて動かない。

 しかし、その姿はなんともいえない美しさで、喜左衛門親子は、思わず見とれてしまった。


 何事もなく四半刻ほどが過ぎる。

 そのとき、喜左衛門は、なにか視界が霞んだような気がして、思わず目をこするが、景色がぼやけたままなのを訝しく感じた。

 息子の喜太郎に目をやると、息子も同様らしく、ぽかんと部屋の真ん中を見据えている。

 親子には、寝ている冨美枝の真上の空間が、はっきりと目に見えるぐらい、ゆらゆらと歪んで見えた。


 その空間に、何かしら邪気のようなものが集まり、それがもやのようなものに変じようとしているのだ。

 冨美枝は、苦しそうな荒い寝息をたて、死んだように身動ぎもしない。

その肌には、ふつふつと水ぶくれが浮かび上がりつつあった。

 薫は、先ほどから座構えの姿勢のまま、まったく動かない。

 しかし、その身体から剣気が吹きだしているのが、剣術には縁のない親子にすら、はっきりと感じることができた。


 部屋のなかに充ちた禍々しい邪気は、徐々にその圧力を増している。

それにつれて、薫の身体から吹きでる剣気も一段と強くなる。

 喜左衛門親子は、息が苦しくなるような緊張に、着物の裾をきつく掴んだ。

 邪気は、ぼんやりとした形を取りはじめ、部屋のなかに雲が浮かんでいるかのようである。

 呪詛の念は、信じがたいことに、物理的な現象として、冨美枝の身体に覆いかぶさろうとしていた。

「あ、あれは……」

 喜左衛門が声にだした。

 何度見直しても、寝ている冨美枝のちょうど真上あたりの空間が、雲のようなもので霞んでいる。

 部屋のなかは、大げさなほど用意された行灯によって、昼間のように明るいはずなのに、急にその灯りが弱くなったかのように、薄暗くなった。


 そのとき、薫が口を開いた。

「――はじまりました」

 その途端、喜左衛門の背筋を、何かしら、うそ寒いものが、ざわざわと駆けあがった。

 冨美枝が苦しそうな呻き声をあげた。水膨れが顔にまで吹きだしている。

 ふと、気がつくと、いつの間にか薫が中腰-居合腰-の姿勢になっている。

喜左衛門親子は、終始目を離していないのに、薫がいつ動いたのか、まったく気付かなかった。

 いや、正確には、見てはいたのだが、いつ動きだしたのかが目に止まらなかったのだ。

 かといって、薫が素早く居合腰になったわけではない。

きわめてゆっくりと、流れるような動きだったはずなのに、その動きのを認識できなかったので、唐突に中腰になったかのように思えたのである。


 部屋に充ちた邪気は、臨界点まで膨らみ、廊下に座る喜左衛門親子は、その禍々しさに、思わず後退あとずさった。

 薫は、居合腰のまま、微動だにしない。

 そのとき、まさに雲のようなものが、冨美枝の顔に被さろうとしていた。


――刹那。

「エイッ!!」

 烈迫の気合いが薫から迸り、鞘走りの音、空気を斬り裂く音が、同時に炸裂した。

 親子には、一瞬、刀が煌めいたようにしか見えなかったが、鞘から放たれた刀は、邪気を切り裂き、頭上の位置で、ぴたりと水平に止まった。


 動いたと同時に、すべてが終了していた。

 はなれの至極。


――それは、一秒の三十分の一に満たない時間の抜刀だった。

 霧が晴れるように、部屋からは、邪気が消え失せ、呆気ないぐらいに、ごく普通の日常が戻っていた。

 冨美枝は、穏やかな寝顔をみせ、静かに寝息をたてている。

水ぶくれなどは影すらもない。

「ヤッ!!」

 薫はそのまま刀を、真っ向から斬り下ろす。

 そして、振り下ろした刀を、切っ先は正面に向けたまま、右腰に引きつけた。

 無声の気合い。残心である。


 鯉口を切ってから、斜め上に刀を抜きあげるまでに要した時間が、三十分の一秒以下という、神速の速さは、スポーツ的な反射神経や筋肉からは、決して生まれない。

 また、よく言われる鞘引きの速さなどというのも、全体のなかの一要素にすぎない。

 剣は、右手で抜くのではない。左半身を後方に開く動きで抜くのだ。

 手で抜かず体捌きで抜く。

 この卓越した発想こそが、居合を術たらしめていた。


 しかも、その動きに緩急があってはならない。始まったときから抜き終えるまで、ひとつ調子、つまり、等速運動でなければならない。

 なぜならば、拍子があると、いかに速くとも、必ず相手に気配を察知されてしまうからだ。

 気配、すなわち起こりである。

 それは、型によって先人から伝えられたものだ。


 薫は、ひと呼吸残心をとると、あたりの気配をうかがい、邪気や殺気がないことを確認して、ゆっくりと納刀する。

 ふと、廊下に目をやると、喜左衛門親子が、揃って腰を抜かしてへたりこんでいる姿が見え、薫は、口元をほころばせた。


――薫の刀が一閃する寸前。

 庭の一角には、鎧兜の武者が、ふたり並んで立っていた。

 薫の使役する式神である。

 式神は、呪詛師が厭物いみものを埋めた場所の前に、三尺あまりの陣太刀を八相に構え、彫像のように立ち、微動だにしない。


「エイッ!!」

 屋敷の奥から、薫の気合い声が響きわたり、夜気を震わせた。

 気合い声は、単なる大声ではない。臍下丹田にこめた気を、喉を開いて、爆発的に放つ声だ。

 その声に反応するように、鎧武者は、陣太刀を一気に地面に突き刺した。

 その瞬間、土の中で、なにかが弾け、蒼白く光を放った。

 陣太刀は、ほとんど鍔元まで地面に突き刺さっていた。


 それと時を同じくして、玄関の前にいた下男の太兵衛が、薫の気合い声を聞くと、手にした三枚の人形(ひとかた)を宙に放った。

 人形は、まるで矢のように宙を走り、昨日太兵衛が薫にたのまれ、昼間のうちに札を貼っておいた場所に突き刺さり、ここでも蒼白く燐光が弾けた。

 その瞬間、呪詛師が仕掛けた結界は、音もなく消滅していた。


「終わりました……厭魅の呪詛は、すべて相手に返し、結界は壊しました」

 たった一度、しかも、一瞬の抜刀なのに、薫の顔から汗が滴り落ちているのを見て、どれほどの集中力を使ったのか想像できず、親子は驚きを隠せなかった。

「ま、まことに……ありがとうございました。これでもう、呪詛の心配はないのでしょうか?」

「これほど強力な呪詛を行うには、おのれの命を懸けねばなりません……

並みの呪詛師なら、返された瞬間に死んでいるでしょう。仮に助かっていたとしても、しばらくは、なにもできないと思います」

「では娘は……」

「もう安心してよいと思います」


 薫が請け合うと、喜左衛門に安堵の表情が浮かんだ。

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