14 深川 海辺大工町
その日、強矢修平は、深川海辺大工町にある本誓寺を訪れた。
この寺に寄宿している、剣友の関口準之助に借りた金を、返しにきたのだ。
根岸鍖衛の仕事が決まると、早速奉行所におもむき、対応に出た用人に前借りを申しでると、あっさり五両貸してくれたので、懐はあたたかい。
準之助とは、十年ほど前に、修平が武者修行で上州路を旅しているときに、高崎で知り合った。
金がなく、野宿など当たり前だった修平とちがって、武州熊谷の豪農の次男坊の準之助は、いつもたっぷり金を持っており、一緒に旅をしている間は、しょっちゅうこの男から飯をたかったものだ。
準之助は、いまも剣術修行と称して、故郷から仕送りしてもらい、本誓寺に寄宿しているが、竹刀などは、めったに握らず、博打にうつつを抜かす……という馬鹿息子だが、どういうわけか、修平とは馬が合い、交流はいまでも続いていた。
修平が準之助の住む離れを訪ねると、準之助は、縁側でうたた寝をしているさいちゅうであった。
「おい、準之助。起きろ! 借りた金を返しにきたぞ!」
修平が声をかけると、
「む……おお……なんだ修平か。金なんていつでもいいのに……」
準之助は、あくびをしながら、むくりと起きあがった。
「おまえなぁ……もう昼前だぞ。どれだけ寝れば気がすむのだ」
「いや、ゆうべは、越後殿(松平越後守・下屋敷のこと)の中間部屋で朝までこれをな……」
にやりと笑い、
このあたりの大名の下屋敷は、主人が来ることなどめったになく、夜になると、たちの悪い渡り中間が、当たり前のように賭場を開いていた。
「なんだ。で、勝負は勝ったのか?」
「うむ。途中まではな……どうもツキが落ちて、結局トントンだ」
「ちぇっ、景気の悪い話だな……ほれっ、おまえに借りた一両だ」
準之助は、修平が投げた小判を、器用に片手で受けとり、
「景気付けだ。ちょっと
と、立ちあがった。
藪とは、この当時、名店といわれていた、深川藪そばである。
深川の藪そばは、現在の藪そばとは関係がなく、海辺大工町の隣、扇橋町にあった店で、明治の中頃まで続いた。
子母澤寛によると、このあたりの名主、浅岡与左衛門が金を出し、信州から移住してきた徳蔵、お鶴の夫婦が開いた店で、周りに藪があることから、藪中そばと呼ばれていたそうだ。
ふたりは本誓寺を出ると、道沿いには行かず、はす向かいにある霊巌寺の広大な境内を抜けて、藪そばに向かった。
まだ時分どきには早いのか、店は空いていた。これが昼になると、店のなかは、喧騒であふれることになる。
常連らしい準之助は、庭の池と、隣の雑木林が見渡せる、二階のいちばんよい部屋に案内された。
「蕎麦を手繰る前に、一杯いこうぜ」
徳利を手に、準之助が言った。
「おい、まだ昼前だぞ……それに俺は、晩には奉行所に行かねばならんのだ。飲みたきゃ、おまえひとりで飲め」
「奉行所? なんだ修平……おまえ、なんか悪いことでもやったのか?」
「莫迦言うな。後ろに手が廻りそうなのは、おまえのほうだろう」
「なあに、平気さ……このあたりの賭場は、大名の下屋敷か、悪御家人の屋敷がとおり相場。町方は閉め出しだ」
「たしかにな……でも近ごろは、幕府(おかみ)もなかなかうるさいからな」
「まあ、このあたりでもいくつか賭場が潰されたが、きりがねえさ……
小見山みたいな悪御家人は、むしろ、取り潰してほしいぐらいだが……」
「ああ……あのダニか。まだ悪さをしてやがるのか」
「こないだ久しぶりに、やつの賭場に顔を出したが、相変わらずさ。そういえば、やつの屋敷の裏手にある道場に、新しく借り手がついたぞ……」
「ほう、また剣術道場が開いたのか」
「それがな……たちの悪そうな浪人がごろごろしていて、近づけたもんじゃねぇ」
「おまえの得意の剣術で、こてんぱんにしてやれよ」
修平が茶を飲みながらからかうと、
「もう刀の持ち方なぞ、忘れちまったよ」
準之助が自嘲気味につぶやいた。
「まあ、そんなところで吹き溜まってるような連中だ。腕前のほうも知れたもんだろう」
修平がそう言うと、
「ところが、さにあらずさ。雑魚はともかく、道場主らしき男は……おそらく俺では歯が立つまいよ」
自堕落な遊び人を気取っているが、実はこの男が、昨今の軟弱な侍など、束になっても敵わないほどの腕前なのを知っているので、修平は驚いた。
「嘘つけ……こんな場末の、しかも、
「いや、嘘じゃない。一度そやつが、庭で型を使っているのを見たが、
「ふーん。そいつは、ちょっと気になるな……」
修平は、なんとなくその道場が気になり、蕎麦で腹を満たすと、道場を見てから帰ることにして、準之助と藪そばの前で別れ、逆の方向に歩きだした。
道場は、藪そばから歩いてすぐの場所にあったが、すべての戸は閉ざされ、ひとがいる気配はなく、道をはさんだ材木置き場から、
修平は、しばらく様子を見ていたが、道場も小見山の屋敷も、しんと静まりかえり、動きがないので、あきらめて帰ることにする。
松平駿河守の下屋敷の横を通り、西永町、三好町と抜け、三十間川から続く堀をわたった。
その先は、先ほど抜けた霊巌寺に隣接した浄心寺の裏手にあたり、山本町に海辺大工町の飛び地、東平野町が入り組んでおり、忙しそうに、人びとが行きかっている。
修平が、東平野町の角を曲がると、一町ほど向こうから歩いてくる男が目に入った。
見た瞬間、
(――こいつだ!)
と、勘がつげた。
その男は、着流しに朱鞘の大刀を落とし差しに、左肘を束に乗せるように軽く手をかけ、ぶらぶらと歩いてくる。
しかし、のんびり歩いているように見えて、その姿には、毛ほどの隙もない。
無意識に、修平の左手も、刀の鞘に添えられた。
修平が気づいたのと同時に、男もこちらに注意を向ける。
ふたりは、お互い、強烈に相手を意識しながら、それでいて、一切目を合わさない。
相手の目や、どこか一点に意識を集中させるより、全体をぼんやりと見て、周辺視野を利用したほうが、より相手の動きを察知しやすいからだ。
もちろん、それは意識してやったことではない。
お互いが相手に感じた、ただならぬ気配に、身体が勝手に臨戦態勢をとったのだ。
間隔が狭まるにつれ、修平は、うなじの毛が、ちりちりと逆立つような緊張を感じる。
相手も同様なのは、表情を読まれぬよう、目を細めたことで明らかだった。
周りの人びとは、そんなふたりに、目を向けることもなく行きかっていた。職人ふうの男が、修平の前を横切る。
ふたりの間隔が、一歩、また一歩と近づくたびに、ねっとりと空気が粘りつくような錯覚を感じた。
そのとき、ふたりの間に、横丁から三毛猫がとびだしたが、一瞬、身体を硬直させ、もといた場所に、素早く飛びすさった。すべての毛が逆立っている。
もはや、ふたりの間隔は、抜き差しならない距離に近づいていた。
ふたりは、刀がとどかない、きわどい間合いですれ違う。
そして、三歩進んだところで、同時に足を止め、振り返って相手を見た。
「俺になにか用かい?」
修平が言った。
男は、にやりと笑い、
「先日、おぬしがひとを斬るのを見た。新陰流……いい太刀筋だった」
「ああ、高田馬場か……」
「おぬしとは、いずれまた会うような気がする……いや、会うにちがいない。俺の勘は、めったに外れないんだ」
「そうかい。そりゃ楽しみだ」
「――御免」
男は、くるりと背を向けると、一度も振り返ることなく歩み去る。
修平は、黙って見送り、男が角を曲がると、ようやく緊張をといた。
(あの野郎……ただ者じゃあねえ。たしかに、準之助では歯が立つまい……)
修平は、そのときになって、ようやく、脇の下が、汗で濡れていることに気づいた。
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