しあわせについて
海百合 海月
しあわせについて
だからつまり、わたしはしあわせになりたかったのだ。
陽光のなかでぼんやりと立ち尽くしている時間は、いまのわたしにとっていちばん穏やかなものだと言えるかもしれない。
サナトリウムへかえるとき、つめたくてただただしろいだけの、かれが待つ空間のことを思う。えがおの、かれのことを、かえりたくない、と考える、わたしのきたなさを。
清潔な病室。あそこへ足を踏み入れていいのはわたしだけ、でもわたしは、きたない。本質的には。かれはそれを知らない。おかえりなさい、ほそい声がわたしを迎えた。
「外は、いい天気みたいだね」
「うん、冬も終わりだよ、もう」
「そっかあ、また、雪をみれないままだった」
「今年も、降らなかったよ」
「そうなの? ざんねんなような、うれしいような」
かれのほそい腕が、ホットココアの入ったマグカップをそっと持ちあげて、くちもとへ運んだ。湯気がふわりと立って、表情がすこし霞んだ。
ここはサナトリウム。かれの、ワンルーム。全面が窓というおよそ病室らしくないここが、かれがこれからの一生を約束し、約束された、ベッドで、お風呂で、キッチンで、トイレで、ベランダで、リビングで、そう、棺だ。
「あ、くらげだ」
かれが指さす先に、揺蕩うくらげ─────わたしには、みえないけれど。わたしにみえるのは、白々しげな青空と、この建物を囲む広葉樹、ていねいに手入れされた花壇で揺れる、花々だけ。若葉から、春らしい陽光––––––––––わたしが浴びてきたひかり––––––––––がめいっぱいあふれている。あかるい景色。
「きれい、だね」
「人魚は、くらげを食べたりするのかな」
「毒、あるじゃない」
「人魚は、かまわず食べてしまうかもよ」
無邪気にはずむ声。穏やかなえがお。ココアのあまったるいにおい。くらむ、頭。どうしよう。風に揺れる枝の鳴き声を聴いたような気がしたけれど、葉はすこしも揺れていなかった。
「ねえ、なにか、ほしいものは、ない?」
「ほしいもの……よければ、本を買ってきてほしいな」
「わかった。行ってくるね。」
「ありがとう」
病室を出る。自然と、音もなく閉まる扉。歩き出す。また、全面を窓が囲う廊下へ出て、陽光のなかで立ち尽くす。
外をみる。ここからみえる景色にも、空と樹木と花たちだけ。
「これがほんものなら、まだ、よかったのに」
エレベーターホールまで来ると、広い空間の隅にぽつりと置かれた椅子に座った老人と目が合う。
「花は、美味かったか」
「……ええ、はい」
「そうか、そうか」
うれしそうにうなずく。花は、美味かったか。食べたことはないけれど、ここでは、かれらの言葉を否定してはいけない。花は、美味しかった。
こころのどこかがこわれてしまったひとたち。真っ白い服を着て、真っ白い食事を摂るひとたち。真っ白い壁と、全面ガラスの窓を持つ部屋で暮らすひとたち。
かれらにみえている世界はそれぞれまったく異なる、そうだ。わたしや、かれらのお世話をする職員の、みている世界と。
けれど、わたしと、職員さんたちとがみている世界だって、異なっているはず。それでもかれらは「異常」とされ、ここにいる。あの部屋で暮らし、あの部屋で死ぬのだ。かれも。
エレベーターで三十六階まで上がる。振動音など鳴らない。静かすぎる静寂は、耳をつんざいて、耳鳴りへ変わる。
エレベーターはどのフロアでも止まることなく、すんなり上昇した。三十六階は、図書館である。
「こんにちは」
こわれたひとからのあいさつ。こんにちは、返す。司書だったかのじょは、こわれても司書だ。
こわれたくらいじゃ、ひとはべつなひとになったりはしない。
かれのすきな作家の本を探す。ここにある本は五十音順や出版社順やさまざまのわかりやすい方法でならんでいるわけではない。しょっちゅう、司書さんが、ならびかえてしまうので、決まった場所を探すというわけにはいかなかった。
本棚をまわることやっつ、わたしは目的の本に出逢うことができた。カウンターに行き、かのじょに貸出処理を行ってもらう。
「この本、おもしろいんですよ」
「そうなんですか」
「この本、おもしろいんですよ」
かのじょにさよならを言って、図書館を後にする。わたしが外へ買い物に行っていると思い込んでいる、かれのところへ戻るために。
かれは十四階で暮らしている。十四階のひとたちは、ふと目に入ったものを海にかかわるものと見紛うひとたちで、だから、窓は水族館のような全面ガラスなのだった。
司書のかのじょがどこの暮らしなのかは、しらない。でもかのじょも、「退勤時刻」になったら部屋へ戻っていく。
でも、部屋から出るのはかのじょだけだ。
こわれたかれらは部屋から出ない。そうしてはいけないと、言いきかせられるからだし、わたしのように、かれらの願いを過不足なく叶えるひとがいれば、かれらはそれで満足するのだった。
ただ、かのじょはどうしても、どうしても司書のままでいたいのだそうだ。ほかのフロアへ行ってしまうことはないそうで、だからかのじょは、とくべつなのだった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
バーコードも分類番号もついていない本を、手渡す。
「ありがとう。これ、おもしろいかな」
「きっと」
古びてページの端が破れかけている。そしてかれは、この本を読むのはこれが三度目だ。
本を手にしたら、あとはもう、かれはただ本を読む。わたしが買ってきた、本だということも、まだわたしがここにいることも、なにもかも、忘れて。
それでもわたしが部屋を離れると、かれはおどろいてパニックになる。職員さんに呼ばれて部屋へかえると、かれは髪も、ベッドシーツも、比較的あたらしいといえる本のページのあちこちもめちゃくちゃにし、ココアパウダーをまき散らし、マグカップはすべて割れていた。
だから、わたしはじっとしている。じっと、外の景色をみつめている。そうしながら、かれが死ぬか、わたしが死ぬかするまで続くのだなあと、この時間はいつもそう、考える。
こわれたひとたち同士は、顔を合わせたり、会話したり、食事したり、なにか遊んだり、ということをしない。こわれたひとたち同士が出逢えば、否定のし合いになってしまう。それは、たがいにとってストレスになるだけだ。
もしわたしがこわれたら、かれと会話したり、本を借りるために三十六階へ行ったり、ここでもの思いにふけることはもう、できなくなる。
そうしたら、かれはもっとこわれる。
そうしたら、かれは死ぬかもしれない。
そうしたら、──────
「ねえ、ココア、飲まない?」
ページをめくる手を止め、かれが言った。読書中のかれがなにかを言うのは、はじめてのことだった。
それは、こわれてからも、こわれるまえも、変わることのないかれの習慣だった。
「……飲もう、かな」
「じゃ、入れるね」
かれがベッドから出て、食器棚からマグカップをふたつ取り出し、ココアパウダーをそっとカップへ入れ、ポットでお湯をそそいだ。スプーンでかちゃかちゃとかき混ぜ、そうして、
「はい、どうぞ」
マグカップを受け取る。湯気がたちのぼる。かれの表情が霞む。わたしのも、きっと。
「ありがとう……」
「どう、したの……?」
不思議そうにこちらへ手をのばすかれ。頬に触れた。
「え、なに……?」
霞んでいるのが湯気の所為だけではないことに、ようやく気づいた。
「あ、え、ごめん、なんでもないよ」
よろこぶべきことなのに。かれが、むかしのようにココアを入れてくれることは、よろこぶべきことなのに。
だめ、戻ってこないで。
「美味しいなあ」
「でしょ」
うれしそうだ。わたしもどうにか笑ってみせた。安心したように、かれはさらに笑う。
だめ、そう、こわれたままでいて。
よろこびなんて、要らない。そんなよろこびなら、要らない。
「今年の冬、もし雪が降ったら、雪だるま、持ってきてほしいな」
「いいよ、約束」
小指同士、そっと約束を交わす。
雪だるまのこと、ずっと考えていて、そのまま、こわれたままでいて。
「降るといいねえ、雪」
窓の外へ目をやる。もう二度と降ることのない雪を想う。
ひとの手によってうみだされ、計算されつくしたうつくしい景色。窓からみることのできる自然は、窓ガラスを装ったスクリーンに映る、人工物だ。にせものだ。
ほんとうに、外へ出てみると、変化することのない曇天、そして、三百六十度、どこを見渡しても地平線のまるみがわたしの視線を迎える。
外はもう、荒廃しきっていて、汚染されつくしていて、酸素ボンベも防護服も意味をなさなくて、空を覆う汚染物質の濃度のために陽は射さず、川は涸れ、樹木は死に、海は塩分を失い、だからいきものはもう、いない。
わたしはこの建物の、五百七十八階で暮らしている。
この建物は、いきもの……人間が生きていくための、最後の砦だった。もうこれ以上高くも、地下へ掘り進めることもできない。ここで暮らしていけなくなったら、人間はいよいよ、おしまい。
こわれたひとたちをこわしたのは核戦争で、だからつまり、人間だった。こわれたひとたちは、地球がこわれてしまっていることを、きれいさっぱり忘れている。
こわれて、忘れて、だからサナトリウムの住人として、暮らしている。
「ねえ、しあわせ?」
「きみがいるから、ぼくはここで暮らしていけるんだ。しあわせだよ」
屈託なく笑う。わたしが騙していることも知らないで。
でも、知らなくていいのかもしれない。そのほうが、しあわせかもしれない。
わからない。こんな世界で、もうだれも、しあわせになりたいだとか、しあわせになろうだとか、しあわせにするだとか、しあわせってなんだろうだとか、そういうことは言わなくなってしまったから。
生きているだけでいいって、言えたのは、しあわせになる、なれる可能性がたしかにあったからなのだと、いまさらわかってもなににもならない。
「そっか、うれしい」
わたしはいまがしあわせだと断言するかれを、外へ連れ出したいなどと考えてしまう。現実を忘れたままで、しあわせになれるわけない。……なんて、自分勝手に考えては、理不尽な怒りをおぼえるのだ。
「わたしもね、しあわせだよ」
でも、かれとこうしている、こうしてココアを飲んでいる時間だけは、しあわせだと言ったってかまわないのだ。しあわせになりたいなら、なればいいのだ。
だってわたしたち、しあわせに、なりたかったのだから。
汚染なんかされていないままの地球で、ただ、しあわせになりたかったのだから。
かれはまた本を読みはじめた。もう、今日はねむるまでこちらを気にかけるようなことはないだろう。
外のことを忘れたままで、しあわせだと笑うかれ。なにもかも知っているままで、かれにだけしあわせだと言ってみせるわたし。どちらも、嘘だ。だって、真実は、ただ地球が荒れ果てているというだけなのだから。
だからつまり、わたしはしあわせになりたい。ほんとうの地球で、ほんとうのかれと、しあわせになりたかった。
「雪、降るといいなあ」
冬枯れというタイトルの本を読みながら、かれがかれの世界で、そうひとりごとを落とした。
しあわせについて 海百合 海月 @jellyfish_
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