最後のページ



 明日、七月六日は澄香の命日だ。翔馬は、ベッドの脇に置かれた目覚まし時計を見る。この長針が後一回りすれば、その日がやってくる。


 そんな夜に翔馬と絵美は、翔馬の部屋のベッドに腰掛けている。時々顔を見合わせては、気まずくなってそらす。その度に、絵美の髪からシャンプーの良い香りが漂う。俺と同じシャンプーを使ったはずなのに、どうしてこんなに魅力的に香るんだろう。


「ねえ、やっぱり、やめようか?」


「何言ってんだよ、それでいいって言っただろ」


 そう言いながら、翔馬も動けない。シャワーも浴びた、必要な物も入手した。だけど、お互いに動けない。緊張の糸を引っ張り合ってもう限界だ。


 テーブルの上に、あの黄色い表紙のノートが置かれている。二人で最初からぱらぱらとめくってみる。澄香のノートのストーリーは、全て実現してきた。残されたのはただ一つ。たぶん亡くなる直前に書かれた、最後のストーリー。




 ベッドで寝込むチューネちゃんに、チューくんは向き合っている。二人は今までの思い出を語っていく。語っていくうちに、チューくんの目に涙というものが流れる。ほとんどいつもハッピーエンドで、涙を知らなかった彼は、ついにその感触を知る。


 チューくんは、おもむろに愛の言葉を伝える。チューネちゃんは顔を赤らめながら頷き、目を閉じる。




 やっと愛を誓い合った二人は、新たな場所へと旅立ちました。




 最後は、そんな一文で締めくくられていた。挿絵も無く、文章だけで。


 普通に考えれば、最期の瞬間まで看取っていてほしいという気持ちの表れだろう。だけど二人は、そこに別の解釈を入れようとしていた。


「ねえ、こんなの、すーちゃん怒らないかな。その、色んな意味で」


 絵美は目を伏せる。翔馬は衝動的にその髪の毛に触れていた。しっとりとした髪の下で、彼女の顔が上気している。今日はいつも以上に可愛くて、色っぽくて、何度も心がときめいてしまう。


「怒るかどうかなんてわからない。こっちがどう解釈しようが、アイツの答えは誰にもわからない」


 自分に言い聞かせるように、言葉を紡いでいく。


「怒らないよきっと。それと関係なしに、お前がまだ早いって思うなら無理はしない。まだ付き合って間もないしな」


「そんなことない!」


 絵美に睨み付けられ、思わず体を固くする。


「私は何年越しの恋だと思ってるの。日の浅さなんて関係ないよ」


 何年越し。もし出会った頃からだとしたら、ざっと十五年くらい。人生のおよそ四分の三。


「長いな、年期入ってる」


「でしょ。だからそこは問題ないよ」


 そうは言っているのに、やっぱり彼女もそわそわとしているだけだ。そう、お互いに、きっかけがないとたぶん動けない。


 カーテンの向こうの世界から、救急車の音が聞こえる。ノートを机に戻して顔を上げると、点いていないテレビの黒い枠に、不鮮明に歪んだ自分の白いシャツが映っている。


「ねえ、まさか私たち死なないよね?」


 絵美がぽつっと言った。それは、二人とも心のどこかで気にしていたことだった。そう、普通の解釈なら、「別の世界」に旅立ってしまうことになる。


「ここ数日楽しかったのは、最期のための時間だからじゃないよね?」


 最期に向かうための楽しい時間。それは澄香が手に入れられなくて、俺が澄香に与えられなかった時間。病院の窓から紫陽花の花を見て、頭の中のストーリーで遊ぶしかない中で、彼女はそんな時間を望んでいたんだろうか。


 絵美が、膝の上に倒れてくる。目が蛍光灯の色に潤んでいる。つられそうになって、そっと彼女の頬に手を置く。絶対に、涙だけは流さない。


「バカ。澄香がそんなことする訳ないだろ」


「でも……」


 懇願するような目で見つめられる。その瞳に映るのは、俺の決意の表情。


「もし何か起こりそうでも、俺がいるから。俺が守るから」


 絵美の左手を取り、唇で薬指に誓いの魔法をかける。精一杯の気持ちを込めた保護呪文。


「電気、消すぞ」


「……うん」


 これでいいのかはわからない。だけどもし仮にこれが最後だとしても、お互いに決めたことだから。次の朝に迎えるのは、逃げて掴んでしまった現実ではないから。今ならきっと受け入れられる。



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