私はバカだ。



 ☆




 ライブ会場の荷物置き場兼待合室で、絵美は椅子に座り、膝の上で指を動かす。タバコの臭いが充満して、壁のあちこちにポスターが張られた部屋で、他のメンバーはギターを爪弾いたり、談笑したり。隣は会場で、重たい防音のドア越しに一つ前の団体の演奏が聞こえる。絵美たちのバンドは最後の団体だ。


 絵美は緊張していた。ただでさえ初のライブで、しかもトリだ。指は動くだろうか。周りとずれないだろうか。頭真っ白にならないだろうか。


 野球の試合だという翔ちゃんは、来てくれるんだろうか。


 首を横に振った。そんな期待をしていたら、また気分が塞がってしまう。もう少しで本番なんだから、明るく、何か明るい気持ちになれることを。


 突然ドアが開いた。まだまだ、前の団体は終わってないのに、と絵美が思った次の瞬間。


 彼は、一目散に飛びついてきた。


 翔ちゃん?


「絵美、ごめんな」


 あわあわとする私を、翔ちゃんがぎゅっと力強く抱き締める。


「ごめんな、ずっと、ごめんな」


 何も、こんな時に、こんな所で、こんな周りに人がいる中で、こんなことをしなくても。


 だけど、私は彼の腕の力を感じる。胸板から体温を感じる。息遣いを感じる。


「ごめん、なさい」


 やっと、伝えられた。


「私も、ごめんなさい」


 翔ちゃん、ごめんなさい。


 涙が彼の白いシャツを濡らす。広がるしみはもちろん暗い色。グレーっぽい色だけど、それはきっと嬉しさに変わっていく色。


 彼の込める力が、強くなっていく。


「後でちゃんと全部話すから。ちゃんとお前を見てるから。ちゃんと」


 彼は言葉を切って息を整えた。大人びた、優しい表情になる。


「ちゃんと、お前が好きだから」


「……ずるい」


 バカ、大好き、バカ、と言葉をかける。なんだ、コレ。もう、なんだかめちゃくちゃ。


 めちゃくちゃなのに、なんだか最高に、幸せ。






 風のように現れ、嵐を起こして彼は部屋を出ていった。台風一過の部屋には、周りの視線と微妙な空気だけが残り、絵美の顔は引きつっている。


「彼氏さん、すっごいね……」


 文代は呆然としながら、まだドアの方から目を離せないでいる。


「いや、あれを嬉しがる藤崎さんも相当だ」


 淳博がニヤニヤしながら、絵美の方をチラチラと見てくる。


「アイツ、あんなことできるんだな。知らなかった」


 はい。翔ちゃんは、本当は結構飛び込んでいける人なんです。ちゃんと考えた上で、こっぴどく怒られたりしないギリギリのラインで、ああいうことができる人なんです。


「これ、当分二人をからかうネタにできそう」


 はい、からかってください。いや、そんなことを言うと、ほとぼりが冷めてから激しく後悔しそうだけど。あれ、そうやってからかわれるのを考えているうちに、なんだかニヤつきそうになる。


 やっぱり私は愚かだ。私は翔ちゃんバカだ。



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