敦博



 ★




 黙々とグローブを手入れしていた夜十時過ぎ、突然、翔馬の部屋のインターホンがせわしなく何度も鳴り出した。何だよ、と覗き窓から様子を窺うと、淳博が立っていた。


「お前、どうして」


 ドアを開けた翔馬の顔面に、淳博の拳が飛び込んできた。左頬に、クリーンヒット。


「何すんだよ!」


「何してんだよお前は!」


 ドアを閉めて、淳博は掴みかかってきた。それを振り払って、翔馬は逆に彼をドアに押し付ける。


「ちゃんと話せ。どういうことだ」


「こっちのセリフだ。藤崎さんをあんなに悲しませやがって! 何をした!」


 手の力が抜けて、彼と真正面から向き合う。彼の眼差しがここまで憤っているのは初めてだった。頬の疼きを感じながら、翔馬は息をつく。


「話すから」


 淳博を部屋に上げ、ベッドに隣り合って腰掛ける。部屋は風邪が治ってからちゃんと掃除していたが、綺麗で余計な物が何もない空間は、逆に息が詰まる。


 翔馬はここ数日の間にあったことを話した。メールのこと、絵美もそれを見たこと、ノートのこと、誠に言われたこと。話しているだけで感情が昂って、息が切れそうになる。


「だから、俺、別れた方がいいんじゃないかって」


 話し終えると、そっと、グローブに手を触れる。だけど無機質に、何も答えてくれない。


「何勝手なこと言ってんだよ」


 淳博の声のボルテージは、変わっていない。


「だったらなおさら、あの子にちゃんと話せよ。お前の言葉を待ってるんだぞ」


「その言葉が見つからねえんだよ。俺は忘れようとしている。でもあの現象が起こるんだ。また絵美を悲しませるに決まってる」


 どんなに澄香を振り払おうとしても、どうしても上手くいかない。たとえ絵美に理解してもらったとしても、溝はきっと埋まらない。澄香の幻影との三角関係だなんて、誰にも幸せをもたらさない。


 わからなさが募っていく。気がどんどん重くなっていく。グローブも、片付けた部屋も、何も語らない。答えは、どこにも見えてこない。


 深い溜め息が聞こえた。


「色々言いたいことがあるけどさ。とりあえず、一つ思い付いたこと」


「なんだよ」


「お前、澄香さんからただ逃げてるだけじゃないのか?」


 逃げてる?


「……前に、俺が昔、ペロって名前の犬飼ってたって話したことあるよな」


「ああ、小学生のときに亡くなったんだっけ」


「最初はめちゃくちゃ悲しんだし、誰にもペロが死んだ話をしてほしくなかった。そんな現実見たくなんてなかった。だけどさ、ベースを始めて、友達とワイワイしてさ、そうしてるうちに、もうペロはいないっていうことを受け入れたんだ。そしたら悲しいときとかさ、迷ってるときとか、ペロが見守ってくれてる気がしてきたんだよ。それはたぶん、いつの間にか現実から逃げることをやめてたから」


 淳博に肩を掴まれる。ネックレスが揺れて、ワックスで固めた茶髪が揺れて、だけど彼の眼鏡越しに見つめてくる目は本気だ。まるで鋭利な刃物を突きつけてくるかのように。


「お前、澄香さんの死と真正面から向き合ったことがあるのか? 本当に、死を受け入れているか?」


 死を受け入れる。


 胸に何かがすとんと落ちる音を聞く。それはコペルニクス的転回で、コロンブスの卵で。


「明日野球の試合だか知らないけどさ、まず今日中にそれと向き合ってみろよ。それから、藤崎さんと向き合え」


 彼はそう言い残して、静かに部屋から出ていった。ドアの閉まる音を聞いてから、翔馬は目を閉じて俯いてみる。左頬の疼きはじんわりと残り続けている。手を置いていたグローブは、いつの間にか体温と同じ熱を持っている。



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