ずっと、好きだったから
★☆
残念ながらすっかり空は灰色に曇っていて、海もどんよりとしたムードを漂わせている。
「微妙な空だな」
「うーん、水族館出るまでに晴れるかな」
翔馬と絵美は海沿いの遊歩道を歩いている。波が壁に当たって、ちゃぷ、ちゃぷ、という寂しげな音が鳴っている。
「まあ、そんなにきれいな海じゃないしな。見えない方がいいものもあるかもよ」
「それもそうだね。ゴミとか結構流れてるし」
周辺に砂浜などはないが、そうでなくても誰も泳ぎたいとは思えないような海だ。少し離れた岸には埋立地の工業地帯が見えて、巨大なクレーンがいくつかそびえ立っている。海上に見える船のほとんどは、あの地帯を出入りするものだ。
「でもせっかく来たんだから、海の景色も楽しみたいな。ねえ、海がいい感じに見えるレストランがあるんだ」
「言っておくけど、今日の目的は水族館に連れてくることだから。お礼としての効力はそこまで」
「えー、ケチ。そう言いながら、ランチくらい奢ってくれるよね」
さあな、と言いながら、翔馬は内心少しドキッとしていた。実は昨日の夜、ちゃんとこの辺りでランチを食べられるところを調べていて、たぶん絵美が言ったのと同じ店を第一希望に決めていたからだ。
絵美もわざわざ調べていたのか。本当に、喜んでくれていたんだな。
絵美と目が合った。気恥ずかしそうに笑う彼女が、服や化粧のおかげだけじゃなくて、いつもとなんだか違って見える。だけど目だけは、昔の、遊びで自分と一緒のチームになったときのイキイキとした目だ。
チケットの半券を手にエスカレーターを下りると、目の前には仄明るいトンネルが伸びている。トンネルの壁や天井は水槽になっていて、魚たちが優雅に泳ぎながら出迎えてくれる。
「わあ、すごい」
絵美が惚けたように言った。右を見て、左を見て、頭上の景色に圧倒される。曲線状の丈夫そうなガラスの上を、魚が器用に泳いでいく。
「すごいね、あんな泳ぎにくそうな形の場所でもちゃんと泳げるんだね」
「ああ、本当だな」
早く来たのは正解だったな、と翔馬は思う。まだ人は少なくて、空間がゆったりとしている。絵美は両手を横に広げて、海中を散歩する。大きい魚がライトの前を通る度に彼女に影が落ちて、行きすぎるとまた後ろから順にほんのり照らされていく。それが、どこか幻想的だ。
一つ一つのブースを、ゆっくりと回っていく。ヒトデに触るコーナーでは、怯えながらそおっと手を伸ばす絵美を翔馬はからかい、岩に擬態する魚のコーナーでは、どれが本物だろうかと二人で探してみた。クリオネを見て絵美が可愛いとはしゃぐので、翔馬はその隣で流れている捕食時の映像を見せてみた。触角が伸びて豹変した化け物みたいな姿に、彼女はきゃあっ、と目を伏せて、こんな映像見せないでよ、と頬を膨らませた。
二人並んで椅子に座り、辺りの水槽をぼんやり眺める。太平洋の先、海の底深くにいるという、翔馬も初めて見る魚たちがのんびりと泳いでいる。油彩絵の具で塗ったような青色や黄色を持つ魚を見て、本当にあんなのが海にいるんだろうか、と驚きだ。
「こういう施設でさ、ゆっくり回るなんて新鮮だよね」
絵美の視線の先には家族連れがいた。小学生くらいの男の子と女の子がぱたぱたと駆け回りながら、サメまだあ、と不満そうに言っている。
「ああ、昔なら見たいものだけパパッと見て、あっという間に回っただろうな」
子供会の遠足で動物園に行ったときとか、と翔馬は言った。象やライオンなど目ぼしいもの以外には全く目もくれず、ただ早く次の目的地へ行くことばかり考えていた。小学生は駆け回る生き物だ。
「すごくもったいないよね。せっかくなんだからじっくり見ようよ、って感じ」
「でも、ある意味理にかなってるかもしれないぜ。どうせ帰ってから覚えてるのはインパクトのある生き物だけだから」
「確かに。でも全く知らない生き物とか、見てて楽しいのにね」
「それがわかるのはもっと大きくなってからなんだよ」
いつかは、ライオンを見るだけじゃ興奮しなくなってしまう。知らない動物の未知なる習性に驚くのは、すでに多くのことを常識として知ってしまっているから。可愛いクリオネの捕食シーンはグロテスクで、よく知る海のさらに先には見たこともない魚が住んでいる。そうやって、知っていることと知らないことの狭間を繋ぐことが、驚きや興奮となる。
二人で、顔を見合わせた。たぶん、同じことを思った。
小学生のときも、澄香だけは、自分たちについてこなかった。子供の頃から、大人と一緒に色んな動物をじっくりと観察していた。彼女だけは、違った。
「ねえ、そう言えばさ」
突然、絵美が思い出したように言う。口調は穏やかなのに、急いたように。
「この前ね、友達と将来の夢について話したんだけど、私、まだ全然決まってなくて。翔ちゃんは、どう?」
ああ、と気を取り直す。
「まあ、考えてはいるけど」
「へえ、教えてよ」
「いや、いい、やめておく」
「どうして? 人には言えない夢なの? まさか何かの密売とか」
「どっからどう見てもまっとうな人間だろ、俺?」
注射痕もないだろ、と翔馬は腕を見せようとして、冗談だよ、と押し返される。
「はあ。やりたいこと? 野球の指導者か、サイエンスプロデューサー」
「はあ? サイエンス、何?」
「ほら、そういう反応するだろ」
翔馬は思わず変な笑みをこぼした。
「サイエンスプロデューサーっていうのは、ほら、テレビで面白い科学実験とかやってるおじさんいるじゃん。ああいうことを全国各地の科学教室でやったり、後はサイエンスライターとして執筆活動をしたりさ、まさに科学を紹介する仕事。まあ、小学生の頃からずっと漠然と思ってただけで、深く考えてた訳じゃないけどな」
そこまで言って、ふふっと笑ってしまった。
「いや、本当に忘れかけてた。そうだよ、俺それを思ってこの学部に入ったんだったよな」
「そんなこと忘れる?」
そう言ってから、まあしょうがないか、と彼女は自分を納得させている。そう、色々忙しかった。そんなことを思い返す余裕もないくらいに。
「ところで、それってどうやってなるの?」
「難しいだろうな、日本じゃまだまだ少ないみたいだし。大抵は理科の先生になって、なんとか道筋つけて、みたいな。俺がお世話になった科学教室の主催者も、そういう経歴だったらしい」
もっとも、それは後になって調べたことだ。小学生の時はただ実験が面白くて、講師の人の語り口が魅力的で、あんな風に人に科学実験を見せることができたら、と思いながら、友人たちに仕入れた理科の知識を披露していた。
ふと、宙を舞うフィルムケースを思い出していた。夏の日、白い雲と一瞬だけ重なる白いケース、湧き上がる歓声、そしてあの日の充足感――。
「面白そうだね。私も将来の夢、それにしようかな」
絵美の言葉で、翔馬は我に返る。
「やめとけ」
「なんで」
「というか、お前みたいなそそっかしい奴が実験系の道に進む時点でそもそも大丈夫かって感じ。化学科って聞いたときも本当はそう思った。実験で試験管とか割ってないか」
「ノープロブレムです、ちゃんとできてますよーだ」
絵美はペロッと舌を出してきた。その肩を手で押すと、暴力反対、と言葉と裏腹に楽しげに言われる。その様子に、翔馬はなぜだかとても安らぎを覚えた。
ふと気付いた。さっきも、その前も、自分が澄香のことを思い出そうとする度、話題を切り替えてくれる。深く深く沈み込む前に、他愛もない話でそっと引き上げてくれる。
コイツと一緒だと、必要以上に澄香のことを考えなくて済む。
空っぽの日々を捨て去りたいと思っていた。そのきっかけを作ってくれたのもコイツだった。いつまでも、手に入らない過去を追い続けるのはやめないといけない。
過去を忘れることができて、安心できて、楽しくて、心惹かれて、ずっと一緒にいたくて。色んな感情が重なり、胸の鼓動が少しずつ速くなっていく。そのスピードは、不快な感じではなく、いつまでも味わっていたいくらいに心地良い。
こんなシチュエーションに、平常心が少し失われているのかもしれない。だけど、この昼とも夜ともつかない場所から飛び出してみるのが、今の自分には一番合っている気がした。
海の底から浮上するのが、正しいと思った。
目の前を、歳の近そうなカップルが手を繋ぎながら通っていく。行きすぎると、翔馬はゆっくり立ち上がった。
その右手は、今度は小指だけじゃなくて、しっかり絵美の手と繋がっていた。
「えっ、翔、ちゃん?」
「ほら、そろそろ行くぞ」
ぎこちなく言って、翔馬は顔を背けた。歩き始めても絵美は手を振り払ったりせず、むしろぎゅっと握りながら自分の横に立った。
「翔ちゃんの手、なんかざらざら」
「野球やってたからな」
お互い目をそらして、それっきり会話は続かなかった。手はボンドを塗り合わせたように固く結びついている。共に口をむずむずさせているうちに、突如目の前に巨大な水槽が現れ、大きな影が二人の視界の隅に映る。
「わあ……」
二人同時に感嘆の声がこぼれた。ヒト何人分もあるような長さのジンベエザメが、巨大水槽の中を雄大に泳いでいる。大量の魚やマンタが、その水槽の隙間を埋めるように泳ぎ回っている。水の揺らめきは光の揺らめきとなり、暗い空間に青い世界が存在感を放つ。
周りの歓声や子供の興奮する声を聞きながら、しばらく、二人でそのまま佇む。繋いだ手からは、お互いの体温と、もぞっと動く感触を渡し合い続ける。
「ねえ、翔ちゃん」
「うん?」
「連れてきてくれて、ありがとう」
翔馬は絵美の顔をじっと見据える。揺らめく光の中で、その眼は真っ直ぐだ。
本当は、水族館に誘うと決めたときから、こうなることは予期していたのかもしれない。リスタートの仕方として潜在的に選んでいたのは、こういうことだったのかもしれない。
「なあ、絵美」
その気持ちが正しいのか、確かめないと。
「うん?」
変わらないと。
「付き合ってくれないか」
ジンベエザメが、水槽のガラスの前をぬっと通っていく。その下に影が落ちて、歓声は、扉を一枚隔てたかのように遠く聞こえている。
「これから、こういう感じでさ、一緒にいてくれるか?」
手の感触が消え、右腕がぎゅっと束縛されるのを感じた。
「はい、もちろん」
ずっと、好きだったから。そんな囁き声が、さざ波のように優しく耳を撫でた。
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