(2)

パン屋さん

 翔馬の瞼がひくついた。


 羽毛布団も、枕も、南側の窓からカーテン越しに差し込む日差しも、全てに柔らかな温もりを感じる。……日差し?


「しまった」


 慌てて目覚まし時計を掴むと、すでに十時を回っていた。一時間目の授業はもうじき終わる。うわあ、と力が抜けたように時計を元の位置に戻す。上野翔馬、大学に入って初めてのサボリだ。


 起き上がって、カーテンを無駄に勢いよく開けた。五月の朝は穏やかだ。ゴミ収集車の音がゆっくりと近づいてくる。BGMは昔から「赤とんぼ」。のんきな朝を演出する。


 今から準備すれば二時間目には間に合う。しかし出席も取らない、くだらない一般教養の授業だ。窓の向こうから体を温めようとしてくる春の陽気にやられて、後で同じ学部の友人にレジュメでも貰おう、と諦めた。


 翔馬はベッドの縁に腰掛ける。テーブルの上に放り出したままの卒業アルバムを見て、澄香、と呟く。


 澄香の墓に行ってしまった。好き、という言葉まで伝えてしまった。


 もうこの町に戻ってきた目的は、ほとんど達せられた。


 後は、せいぜい成人式とか同窓会でみんなに会うくらいか。それを除けば、いよいよ勉強しかすることがなくなる。理系教科だけはそこそこ得意だったのに、大学に入ってから、数学も物理もやけにレベルが上がった。特に数学は、もはや別の分野だろ、と何度も学部の友人と嘆いている。物理もきっと、もっと難しくなるはずだ。


 中身のない溜め息をつく。


 とにかく、心が空っぽになっていた。澄香を好きという気持ちや、野球のことや、そういったことはちゃんと心のどこかに残っているはずなのに、どこか彼方へ行ってしまったようだった。気持ちの悪い穏やかさが漂っていた。


 戸棚を開けると、買い貯めしていた食パンを切らしていることに気付く。カップ麺を見て、ブランチにしようかな、と一瞬思ったが、視界の隅に外の明るさが目に入って、やめた。


 確か井原駅前に美味しいパン屋があったはず。少し距離があるが、久々だし気晴らしも兼ねて、と翔馬は自転車の鍵を持って部屋を出た。




 ☆★




 サークル、かあ。


 取り出した計算用紙の裏を見て、絵美は溜め息をつく。フィギュアスケート同好会のチラシだった。前のオリンピックに出ていた選手を引き合いに出して、「○○選手みたいに跳べるかも?」とのふれこみだ。そんな簡単に飛ばれたら、メダリストの立つ瀬ないよね、と苦笑する。


 午前中の授業が休講になったので、駅前のパン屋の喫茶スペースで化学実験のレポートを書いている。くるみパンを頬張り、辺りのコーヒーの香りに鼻をくすぐらせながら進めているうちに、途中計算が実験中のメモと電卓とで合っていないことに気付き、不安になってもう一度手計算でも確認しようとしていた。


 友人に誘われていくつかのサークルの新歓に足を運んでみたけれど、どれもしっくりきていなかった。だけどもう五月で新歓も少なくなってきているから、早く決めなきゃ、と焦ってはいる。やっぱりテニサーかなあ。この前十和子が、そこそこ真面目なテニサーにいる知り合いの話をしていたから、やっぱりそこの見学に行ってみようか。


 計算をやり直してみると、電卓の方と一致したので、そっちの値を採用することにした。後は考察と結論を書くだけだ。考察と言っても、液体の色などの情報からどの物質が含まれているかを考えるだけの実験だったので、すぐに終わるはずだ。


 店員さんが水のお替りを注ぎに来てくれたので、顔を上げると、レジのところに思わぬ姿を見つけた。


 翔ちゃん。


 そう声をかけそうになって、やめてしまった。次見かけたときは絶対に声をかける、と決めていたのに、簡単に揺らいでしまう。もやもやしながら、何気なく左手でグラスを掴もうとして、手の背にそれが当たった。


 パリン、という緊張した音が店内に響く。驚きながら散らばった破片を見ていると、大丈夫ですか、と店員がタオルを手にやってくる。幸いにも持ち物や服に水はかかっておらず、すいません、と平謝りする。


「相変わらずそそっかしいな」


 思わず謝りかけて、気付いた。翔ちゃんだ。手には買ったばかりのパンの袋がある。


「前座るぜ、今買ったパン、ここで食べていいですかって聞いたら、OKだった」


「あ、うん」


 絵美は曖昧に返事をした。片付け終えた店員さんにもう一度謝っている間、彼は机の上のレポートに興味を示していた。


「勉強中だったか? お邪魔かな」


「ううん。もうすぐ終わるからいいよ」


 絵美が勉強道具を鞄に入れていると、翔馬のコーヒーが運ばれてきた。朝飯まだなんだよ、と言いながら彼はコロッケパンを貪る。


「ここってさ、こんなスペースあったっけ?」


「そっか。私が高一のときかな、改装して広がったんだよ。ほら、隣にお寿司屋さんあったでしょ? あの敷地」


「ああ、あったあった。結局一回くらいしか入ったことなかったけどな」


 コロッケパンを食べきると、彼はコーヒーを飲んでから、いくつもパンの入った袋の中からピザパンを取り出す。さすが男子だ、よく食べる。


「駅前も、よく見たらちょっとずつ見覚えない店があるんだよな」


「変わってないのは本屋とコンビニくらいかな? ここもちょっと店の名前変わったし」


「へえ、そっか」


 店内に流れていたBGMが一瞬途切れ、ピアノトリオのジャズが流れ始める。


「こんなオシャレな感じの曲まで流してさ。雰囲気はいいけど」


 あれ?


「どうした、絵美」


 絵美はBGMに耳を傾ける。軽快なベース音と、音の粒の一つ一つを贅沢に散らばらせるように奏でられるピアノ。ドラムの4ビートに合わせて軽く頭を動かしていると、ようやく思い当たった。


「これ、オスカー・ピーターソンの曲だ」


「……誰?」


「ピーターソン。ジャズピアノ界のちょー有名人。確か、この中にも」


 絵美は音楽プレイヤーを鞄から引っ張り出し、その曲が入ったアルバムの音源を探す。


「あった。この曲だと思う」


 赤いイヤホンごと彼に手渡す。首を傾げながら、彼はピザパンの残りを頬張りイヤホンを耳につける。再生ボタンを押してあげると、彼もリズムに合わせて小さく頭を動かす。赤いイヤホンは、意外と童顔な彼に似合って可愛い。


 少しして、へえ、と言いながら彼はイヤホンを外した。


「絵美ってジャズとか知ってるんだ。すげえ」


「うち、お父さんがジャズ好き、お母さんがクラシック好きだから。家にCDは結構あるんだよね。ジャズは高校のときにちょっとハマりかけたから」


 その娘は、結局ジャズにもクラシックにも染まりきらなかったけれど、そんなものかもしれない。


「ほお。つまりハイブリッドか」


「あ、この前のセリフ、まだバカにしてる」


「してないしてない」


 そう言いながらコーヒーを飲む彼は、カップに顔を半分隠してにやついている。これが誠だったら、そのコーヒーを奪い取って顔にぶちまけるくらいはしたくなりそうだ。


「なあ、音楽マイスターの絵美さん」


「マイスターって、英語ではマスターだっけ……って、しかも別に詳しくないよ、私」


「あ、お前もドイツ語選択だったのか。なあ、どうせだしオススメのジャズある? スカッとする曲」


 少し焦る。今、彼に言った通り、そこまで知識がある訳でもない。どうしよう、どうしようと思いながら手元のプレイヤーの画面に目を落として、ふと同じアルバムの中のある曲名が目に入った。


「あ、これなんかどうだろ。カッコいいよ」


 再び彼にイヤホンを付けてもらって、少しドキドキしながら再生ボタンを押す。彼は最初こそ何食わぬ顔で聞いていたけれど、だんだん曲に没頭していく。そんな彼の姿とプレイヤーの画面を絵美の目は何度も往復する。画面には、「Fly Me To The Moon」と表示されていた。どこに連れていかれるんだろうと感じさせる自由でスリリングな前奏から、せわしないマイナーコードのアドリブが始まるアレンジだ。


 曲が終わると、彼は興奮気味に言う。


「いいじゃん。クールな感じ。なんか夜の街に現れる怪盗のテーマ、的な」


「よくわかんないよ、いや、雰囲気は伝わるけど」


 そう言って、絵美は彼に曲名を教えた。


「月まで連れていって、ってこと? 夜のイメージは合ってたな」


「この曲の原曲が広まったのは一九六○年代。ちょうどその頃って、アメリカのアポロ計画全盛期だったでしょ。だからそういう意味も込められてるんじゃないかな」


 って、お父さんがビール飲みながら言ってた、と言うと、彼は笑った。


「おじさん酒好きだったよな。休みの日には朝から飲んでたし。体壊してないの?」


「残念ながら、ちょっと前に痛風を発症しました」


 自分の父親の姿を思い浮かべて、やれやれ、と絵美は思う。昔はもっとスマートだった記憶があるのに、今やすっかりビール腹だ。今でも時々こっそり飲もうとしては、お母さんに怒られている。


「あれだけ飲めるってことは、お前も結構お酒強いんじゃねえか。気をつけろよ」


「でも私のお母さん全く飲めないよ。私も、アルコールパッチテストで全然ダメだったし」


「あんなのアテにならないって」


 そう言いながら彼は時計を確認して、そろそろ時間かな、と呟く。


「いい気晴らしになったよ。ありがとう」


「うん、こっちこそ。あ、イヤホン放して」


「あ、持ったままだったか。はい。絵美ってさ、ほんと選曲センスいいよな」


 イヤホンのコードを巻く手が止まった。


「え?」


「いや、選曲センス。昔もさ、デビューしたての歌手の曲を俺たちに教えてくれて、それから一か月後には大ヒットになってたなんてことあったじゃん」


「あれは、たまたま車のラジオで聞いたからだって」


「でも、それを覚えてるっていうのも大事じゃないか? あ、お前は電車だっけ」


 絵美は頷く。彼は自転車だということで、店の前で別れて後ろ姿を見送る。かごに入れたパンは、早めに着いたら講義室で食べるのかもしれない。


 改札の方へ歩きながら、絵美は考える。選曲センス。


 あのときのすーちゃんと、全く同じ言葉だった。同じくらい嬉しくて、だけど嬉しいの種類が違う。だって、翔ちゃんに褒めてもらえた。


 ふと思い付いた。もし自分のセンスが本物だったならば、色んな人を楽しませられるかもしれない。


 翔ちゃんに、笑顔を与えられるかもしれない。



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