澄みきった笑顔で、俺を
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下宿の掃除をしていた翔馬は、本棚に小学校の卒業アルバムを見つけた。
適当にページを開くと、教職員の集合写真のページだった。よく野球の話で一緒に盛り上がってくれた五年生の時の担任。友人と裁縫の実習を抜け出そうとしたらバレて、こっぴどく叱ってきた家庭科の先生。なんでこんなときにインフルになるのかな、と自分だけ合成写真になってしまったことを嘆いていた保健の先生。意外と顔を見ればエピソードを思い出せるものらしい。
六年二組のページを開く。小学六年生の自分が無邪気に微笑みかけてきている。スポーツ刈りのまだまだやんちゃしていた頃の姿に、笑みがこぼれてしまう。これから三年間と、三年間と、余計に一年間を過ごした。小学六年生には、中学生は凄い人に見えて、高校生は憧れの人で、大学生は立派に大人だった。彼が今見ている自分は、そんな大人に見えているだろうか。
かつてのクラスメイトたちに思いを馳せながら、翔馬はページの右隣に目を移して、澄香の姿を見つけた。流れるようにさらっと長い髪の毛は束ねてポニーテールにしており、澄んだ瞳と穏やかな笑顔でカメラのレンズを見つめている。
俺の中の記憶を、見つめている。
ねえ、もう遊ばないの?
うん、なんだか疲れちゃった。
じゃあ、僕がいっしょにいてあげるね。
ありがとう。翔ちゃん、大好き!
僕も、好き!
なあ、こっちから帰ってみない?
えっ、でもお母さんがそっちは危ないって言ってたよ。
大丈夫。二人なら危なくないって。
そう、かな。そうだよね!
澄香、元気?
うん。翔ちゃん、わざわざお見舞いありがとう。すぐ治るよ。
そっか、良かった。えっと、これ差し入れ。
あ、このマンガ……。ありがとう。
読みたいって言ってたしな、病気治ったら返してよ。
うん。
翔ちゃん、翔ちゃん。
おい、泣くなよ。卒業してもどうせ中学は一緒だろ。
だって、絶対遊ぶ時間減るでしょ、寂しいよ。
うーん。じゃあ、その代わりさ、遊べるときは今までの何倍も楽しもうぜ。
うん……。絶対だよ。
「翔ちゃん。これからもずっと仲良くしてね」
寄せ書きの言葉はシンプルなものだった。ピンクのペンで書かれたあの流れるような字。何も語らないそんな言葉に、むしろ一番多くの意味を感じてしまう。
叫び声を上げて、翔馬はアルバムを床に叩きつけた。
周りにあるものを、手にしては投げ捨てていった。畳んでいたシャツが散らばり、枕が床を滑り、ペンケースが壁に当たって中身をばらまかせた。獣のように凶暴な叫び声が喉から吐き出される。
こつん、と足に感触があった。見ると、引っ越してきた日に手にしたビー玉だった。透き通った青色が、自分の足先を映している。
腰抜け野郎の、逃げ足を。
途端に我に返り、その場に座り込むと、翔馬は声を押し殺して泣き始めた。
しばらくして、バカヤロウ、と呟いた。バカヤロウ、バカヤロウ、バカヤロウ!
殺していた鳴き声が、次第に慟哭になった。やがて咽び泣きに変わり、しゃくりあげる声だけが残った。
ずっと思っていたのに。ずっと思ってくれていたのに。
ずっと、ずっと。待たせてしまった。
木曜日、空きコマの時間を使って、翔馬は再び寺を訪れていた。
平日のお昼だというのに、寺の入り口にはいくらか車が止まっていて、墓場を歩くと人の姿もまばらに見かける。それぞれがそれぞれの思いを胸に、故人と向き合っている。気持ちが溢れたこの場所は、哀しくて、愛おしい。
澄香の眠る場所と向き合う。桜はほぼ散りつくしてしまった。誠も来ていないから線香の煙やろうそくの火はない。それでも、と翔馬は思い直す。こんなに優しい場所、物足りなくなんてないか。
立ったまま、翔馬は目だけを閉じた。少女の姿を思い浮かべる。最後に見た彼女の写真は、高校一年生の頃、メールでくれた文化祭の写真だ。それから三年、十九歳になっていたら、どんな姿だったのかな。あのまま成長して、水晶玉のような瞳と、大人の一歩手前の綺麗な顔と、落ち着きの増した佇まいと。
す、き。
試してみた呟きは、簡単に風に紛れた。
「す」も「き」も、はっきり言わなければ簡単にかき消される言葉だ。英語の「アイラブユー」や、この前習った、ドイツ語の「イッヒリーベディッヒ」は、そうでもないのに。
それがわかっているから、なかなか言えない言葉なのかもしれない。
「好き」
はっきりと声が出た。もう一度、今度は墓をじっと見据えて言う。
「好きだ、澄香」
その瞬間、自分の頭の中のフィルムが激しく回り出す。
百パーセントのぶどうジュースが好きだった澄香。
オムライスとミートスパゲティーが好きだった澄香。
足が遅くて、少し走るとヘロヘロだった澄香。
みんなでゲームをやると、遠慮していつも一位を譲った澄香。
だけどクイズをやらせると、抜群に強かった澄香。
よく笑う澄香。
好奇心旺盛な澄香。
自分と一緒に毎日笑い合う澄香。
俺は澄香を楽しませるのが好きで、澄香は俺を楽しませるのが好きで、二人は一緒に楽しむのが大好きだった。あの頃、自分の世界は澄香と共にあった。
頬を熱いものが伝う。今さらで、約束破りで、惨めな自分だ。この流れる涙は、自分のためなんだろうか、彼女のためなんだろうか。頭の中の澄香が微笑んでも、それは本当の澄香ではない。自分にはもう、彼女の気持ちを確かめる術はない。
それならせめて、と思う。せめて、彼女だけでも幸せな気持ちで言葉を受け取っていてほしい。ありがとう、と笑っていてほしい。
だけどやっぱり、澄みきった笑顔で、俺を見つめていてほしい。
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