翔馬の過去



「野球、頑張ってね」


 その約束が、俺を動かしていた。


 小学三年生のときから少年野球のチームに入っていた。チームでも早くから期待されて、六年生のときには正捕手とキャプテンを務めていた。中学で野球部に入ってからも、引っ越す前は、二年生に上がってからの春季大会ですでにベンチ入りが見込まれていた。


 引っ越してからは、自分が携帯を持っていなかったこともあり、彼女とは手紙で何度か連絡を取り合っていた。


「写真は、手芸部で作ったチューくんのストラップです。どう、可愛いでしょ?」


「一昨日まで修学旅行でした。沖原(おきはら)君覚えてる? 彼が勝手に班から離れちゃって大変でした」


「うちの中学の野球部、今日の大会で三回戦負けだったみたい。そっちはどう? 翔ちゃんがいるからきっと何度も優勝してると信じてます」


澄香は何度も体調を崩していたらしいのに、そんな暗さはおくびにも出さず、いつも線が細く流れるような字で、穏やかな語り口だった。自分は年頃ということもあって、気恥ずかしさであまり大した返信は書けなかったけれど、彼女に貰った元気と勇気で、転校先の野球部でもキャッチャーのレギュラーとして活躍した。しかし野球推薦の声はかからず、それなら、と一般入試で野球の強豪校へと入学した。ここから絶対に甲子園に出てやる、有名になってテレビにでもなんにでも出てやる、と。


 入部してからすぐに、チームのレベルの高さに愕然とした。


 先輩たちの練習を見ていたときのことだ。キャプテンで四番の先輩は、広い練習用グラウンドでホームランまで打っていた。エースピッチャーは、自分が今まで近くで見たことがないような速さの直球や、思わず、うわっ、と声が出てしまうような切れ味の変化球を披露していた。ホームランなんて一度も経験がないし、あんな球なんて見たことがない。それでも、このときはまだポジティブだった。あんな当たりを打ちたい、あんな球を受けてみたい、野球人としての血が騒いでいた。




「それが間違いだった」

「え?」


 翔馬は空を見上げる。あの四月には、まだ希望しか見えていなかった。空に向かって大きく腕を振り、幻の白球を放とうとする。実際は、空を切る感触が残っただけだった。


「せめてあのときに気付いていれば良かったんだ」


 自分の実力に。




 高校に入ると、澄香とは携帯のメールでやり取りするようになっていた。俺は部活で忙しくて、やっぱりあまり大した返事はできなかったけれど、彼女の温度は無機質なはずの活字からも充分伝わってきた。心の支えになっていた。


 しかし二年生になったばかりの春、澄香が入院したと聞いた。


 本人からのメールでは、相変わらず日常のささいなことを楽しそうに語っていたが、きっと「そのとき」はもう近づいているだろうということもわかっていた。


 活躍するなら、甲子園に出るなら今年がラストだ、と思った。なのに実際の自分は、燻っていた。


 ベンチ入りの候補メンバー、いわゆる一軍は全部員中三十人程度。自分はずっと二軍で、上から声がかかる気配すらなかった。挙句の果てに、松江という入ったばかりの一年生キャッチャーにまで先に一軍に行かれてしまう始末。


 毎日朝四時には起きて、授業は寝続けて、授業以外の時間は練習して、帰ったら倒れ込むように寝て。そんな生活が一年の頃からずっと続いていた。澄香の容態を知ってからは、それでも足りないと、練習の密度をとにかく上げようと必死だった。上野、肩やリードはそれなりだけど他は、と、コーチと監督が話していたのを盗み聞いてからは、素振りの本数を倍にした。練習後、ロッカー室に入るなりベンチで眠りに落ちたことも何度かある。


 六月のある日のことだった。目を覚ますとロッカー室のベンチで横になっていて、頭の先では同期の友人が暇そうに携帯をいじっていた。悪い、と声をかけて、そこまで根詰めてぶっ壊れるなよ、と苦笑され、一緒に部屋を出ようとした。


 床にほつれたボールが落ちていた。拾い上げようとしたときに、ちょうど外から声が聞こえた。同級生の特待組のうち、キャッチャーの男と外野手の男だった。


「最近さ、なんか二軍の奴ら必死こいてるらしいぜ。上野とかもう目が血走ってるとか」


「ケッサク、俺と先輩と松江でキャッチャーは埋まってるって。あんなひょろひょろで三振ばっかでさ、一般生じゃ限界だって気付けよ」


 ドアが開く音がして、彼らの笑い声が大きくなって、次に気付いたときには、自分の手にあったボールが彼の鼻に真っ直ぐぶつかっていた。


 コン、コン、と固い音を立てて転がるボールには赤い色が付いていた。たらっとした鼻血。床にぽとりと落ちて、鮮やかな赤色が飛び散る。


 顔面蒼白、頭は真っ白。胸倉をつかまれ、たぶん殴り合いになり、コーチだったか監督だったかの声が聞こえて――。




「そいつら、最低だな」


 誠が、我慢できないと言わんばかりに口を挟んだ。


「上野君が本気でそんなことするとか、よっぽどだろ」

「それでも、それだけはやっちゃダメだった」

 俺は、そんなボールの使い方をするために練習してきた訳じゃない。野球で結果を出さないといけなかった。勝負から逃げてしまった。


 誠は押し黙る。翔馬は所在なく、玉砂利をつま先で軽く蹴る。




 一週間の謹慎、一か月の部活禁止。


 それまで、精神的にはかなりのところまで追い込まれていた。その緊張の糸は切れる音もなく、いつの間にか心はふわりと浮き上がっていて、意識が戻ると情けなさと悔しさが残った。それから、罪悪感が生まれた。


 自分の部屋のベッドでもがき続けた。叫び続けた。よくベッドのスプリングが切れなかったな、と今では思う。その期間も澄香から連絡は来ていたが、もはや携帯を見ることができるような精神状態ではなかった。


 七月六日、処分期間が終わる寸前のことだった。電話を受けた親から澄香の訃報を聞いた。その瞬間、何を思ったのかよくは覚えていない。


 ちょうどその日、野球部の友人に誘われてキャッチボールをすることになっていた。ちょっと出てくると言い残して、数日ぶりに外の世界へと足を踏み出した。


 小雨がしとしと降っていた。空は当然曇っている。それでも外は明るすぎると思った。


 公園で友人と落ち合った。グローブを手にし、あの日以来久し振りに人にボールを投げようとした。彼を直視した。


 投げられない、と気付いた。


 ボールを落とした。動悸が速くなり、いつの間にか自転車で逃げだしていた。


 当てもなくこいで、向こうに暗い海が見えた。商店街に入って、自転車を押しているとスーパーの横を通った。小さい女の子が、母親に手を引かれて入っていった。入り口には笹の葉が置かれていた。その笹の葉の青さと、カラフルな短冊が鮮明に目に焼き付いた。


 今日は七月六日か、とぼんやり思った。明日は七日だ。自分の誕生日でもあり、七夕でもある。願いが叶う日のはずだった。


 苦しむ澄香の願いが、苦しむ澄香を思う俺の願いが、叶うはずだった。


 ちゃりん、と悲しそうに、自転車のベルが壊れる音がした。


 地面に膝から崩れ落ち、頭痛と激しい嘔吐感を覚える。眩暈まで起こり始めて、ぐるんぐるんと回る世界で、思い続けていた。


 守れなかった。


 自分は、何も守れなかった。


 精神は、ついに限界を超えた。




「退部してからは尻切れトンボ。しばらく、何をしてたかすら覚えていない」


 翔馬が一つだけ覚えているのは、約束を破った負い目を引きずり続けていたということだ。一番澄香に希望を与えないといけないときに、自分は何もできなかったという事実も、じわじわと心を追い込んでいった。


「野球も気付けばできなくなってた。しばらくは試合すら見たくなかったな」

「うん」

「それで気持ち的にちょっと回復して、ようやく勉強を始めたのが高三になってから。だけど間に合わなくて、そこから一浪して、今」


 自分の情けなさに、翔馬は思わず笑ってしまう。それと同時に、ようやくここまで話せるようになった、とホッとしてもいた。


「教えてくれて、ありがとう」


 誠が探るように言った。気にするなよ、と翔馬は手を振り、大きく息を吐いてベンチにもたれる。青空には薄くて白い雲が流れる。空の青さや広さ、高さに気付くのは、白い雲があるおかげだよ、って言ったのも、澄香だっけ。


「それにしても、ここまで長かったなあ。色々、長かったよ」

「……話も長かった」

「はい。よく聞けましたね」


 誠の額に本気のでこぴんをくらわす。翔馬の指にも鈍い痛みが残るほどの力で、痛ってえ、と誠は悶絶している。


「これでも短いな、って思ったくらいだよ。年取ったのかな」


 この町を離れてからの六年間の生活は、もっともっと長くて濃密だったのに、と翔馬は思う。それをこうやってぎゅっと凝縮してしまうと、あまりに刺激的で、しかも現実より一層虚しい。


「上野君、今年でもう二十歳だもんね」

「ああ。早いなあ」


 その半分の年齢の頃にも、そのまた半分の頃にも、誠は傍にいた。お互い、あの頃と変わらない部分もあるだろうし、変わってしまった部分もきっと同じだけある。


 しばらく無言が続いた。お堂の方から、お経を読む低い声が聞こえてくる。澄香の葬式でも、ああ言ったお経が読まれていたんだろうか。彼女は棺の中で、ちゃんとそれを聞いたんだろうか。立派な会場で、家族や友人に見送られて、安らかな微笑みをみんなに見せて……。



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