できない

 ★




 ――野球、頑張ってね。テレビに出られるくらい頑張ってね。


 中学生の頃の澄香が目を閉じて笑っている。冗談めかした口調で、だけどそれはきっと真剣な言葉。


 ――ムチャ言うなよな。


 そう言いながらも、翔馬は彼女としっかり、ゆびきりげんまんをする。


 それは最後の感触だった。とても小さくて、柔らかい小指だった。




 目を開けて、天井を見ながら、夢か、と翔馬は呟く。日曜日の朝、隣の部屋の洗濯機が、ざぱん、ざぱん、と水を回す音が聞こえる。


 今の夢。翔馬と澄香が、別れの日に駅のホームで交わした会話だった。


 澄香は特別、野球が好きという訳ではなかった。そんな彼女がわざわざあんなことを口にした、意味。


 その少し前に、彼女は一度長い入院を経験していた。無事に退院したけれど、次に再発したときにはどうなるかわからないとも言われていた。彼女は俺に希望を持ってくれている。俺なら彼女を勇気づける何かができる。翔馬はそれを強く胸に刻み込んでいた。


 突然、翔馬の耳元で携帯が唸り、そんな夢の続きのぼんやりした思考は吹き飛んだ。休みの日の朝から誰だよ、と思って表示を見ても、自分の知らない電話番号だった。




 休日のお昼時、イルカ公園の広場も遊具も子供たちでいっぱいだ。その公園の片隅の日陰で、誠と絵美は待っていた。歩く翔馬の前を気の早いタンポポの綿毛が飛んでいった。


「ごめんね、誠に電話番号教えちゃった」

 絵美が言った。この前大学で出くわしたとき、翔馬は絵美と連絡先を交換していた。


「いいけどさ。どうしたんだよ、いきなり呼び出して」

「この前は、ごめん。つい、カッとし過ぎた」

 誠は目を伏せている。翔馬は黙って首を横に振った。

「いいよ。俺も悪かったから」

「でも」

「本当にいいんだって。それだけなら、もう帰るぞ」


 誠は何も言わず、赤いグローブを差し出した。翔馬にとって、久し振りに見る軟式野球のグローブだ。外野手用で、きちんと手入れされていたのが見て取れる。


「え、ちょっと待て、なんだこれ」

「キャッチボール、やろうよ」


 誠が手にはめたのは、茶色のピッチャー用のグローブだった。こちらもしっかり使い込まれていた形跡がある。


「はい」


 誠の右手から野球の軟式球が放たれる。翔馬は慌ててキャッチした。大きさに不慣れな感覚を覚える。高校生以上が使うA号球という大きめのサイズのものだ。高校から硬式球を使っていた翔馬にはあまり馴染みがない。


「上野君が向こうで頑張ってる間、俺も野球やってたんだ。俺は高校までずっと軟式だったけど」

「へえ、マジかよ」

「小学生のとき、地域のソフトボールチームに入ってたのは知ってるだろ。中学から野球部に入ったんだ。ずっと外野手だったけど、高校に入ってからはピッチャーやりたいって言って、三年の春からエースにもなって。結局最後は二回戦敗退だったけどね」

 彼は照れ臭そうに笑う。

「ほら、久々にキャッチボールしたら? スッキリするよ」

 絵美が言って、誠はパン、とグラブの内側を拳で叩く。ああ、そのために呼び出したのか、心配かけてたんだな、と翔馬はようやく気付く。二人の笑顔に、翔馬は別の種類の笑い方を返した。力のない諦めの笑顔。


「いいよ、やめておく」

「なんで? まずは一球くらい、ね」


 一球くらい、か。


 無邪気な絵美の言葉に、翔馬は少し心揺らぐ。一球くらい。思わずグローブを左手にはめ、ボールを右手に握っていた。一球、くらい。


 誠の顔を見つめた瞬間、胸が詰まり、頭が真っ白になる。


 力が抜ける。力を抜いてしまう。


「翔ちゃん?」


 翔馬の手前に落ちたボールは何度もバウンドして、バウンド音の間隔はどんどん短くなっていって、やがて静止した。呆然としている二人に、翔馬は乾いた笑みを向ける。


「やっぱり無理だ、やめておく」

「待って、どういうことだよ」

「すまん、またな」


 翔馬はグローブをそっと白いベンチに置いて、その隣に止めていた自転車をゆっくりこぎ始めた。ペダルをこぎながら振り向いてみたが、二人は追ってきてはいない。公園の入り口で、イルカがいつものように愛嬌を振りまいている。


 一瞬、もしかしたら、投げられるかもしれないと思った。ちゃんと投げている自分も、見えそうだった。まあそう上手くいくはずもないよな、と自嘲気味に呟く。


 公園の周りに咲くツツジの花が、どんどん遠ざかっていく。その色が翔馬にはやけに赤く見える。目の奥に焼き付いて、なかなか離れてくれない。







 春なのに、アツい。


 舞台上、翔馬の真正面で、淳博がエレキベースを弾いている。その深い低音はドラムのビートに乗っていて、ギターとキーボードのバッキングや裏メロが乗り、金髪のボーカルがその上に立ってシャウトする。普段は一般教養の授業で使われている教室はライブ会場へと変質し、観客は熱狂の渦に……とまではいかないが、目の前の音楽にすっかり魅せられている。


 淳博の所属する軽音サークルの新歓ライブに、翔馬は誘われていた。なんとかいうメタルバンドのコピーらしく、自分の知らない曲だったが、それぞれの演奏技術がしっかりしていて充分楽しい。


 演奏が終わり、次のバンドが準備を始めると、淳博が隣の席にやってきた。


「お疲れ。上手いじゃねえか」

「サンキュ。どう、入る気になったか?」

「まさか。聴くだけで満足」

 翔馬は笑った。何せドレミすら一つずつ考えないと読めない。

「いや、それにしても、お前あんなに弾けたっけ? かなり練習したんじゃねえの」

「うん、まあ、授業サボりを少々」

「クズ」

「そう言ってられるのも今のうちだぞ? 絶対お前もサボるようになる」


 ゴン、という音がスピーカーから聞こえた。準備中のボーカルがマイクを落としてしまったらしい。慌てて拾い上げて無事かどうかを確認している。


「あいつ、あのマイク結構いいヤツなんだぞ、壊すなよ」

「そういやさ、機材とか凄いよな、全部揃えるの大変じゃないか?」


 翔馬にはその辺りの知識はないが、たとえば奥で陣取るドラムセットを一式揃えるだけでも、結構値が張ることくらいはわかる。マイク、アンプ、ケーブル、照明……よく見れば、色々な機材が余すところなく配置され、この舞台を作っている。


「まあな、うちは人数多いし、代々の部費で揃えたんだと思う。やっぱり高い機材とか買えないサークルもあるし、そういうのはうちからレンタルとかもしてるよ」

「へえ、助け合いだな」

「レンタル料はとるけどな。ご入用の際はぜひご相談を」

「だから楽器とかやらねえって」


 話していると、ようやく次のバンドの演奏が始まった。翔馬はしばらく黙って聴いていたが、さっきの淳博たちのバンドほどの魅力を感じない。たぶん淳博のバンドは比較的上手なメンバーが集まっているのだろう。そう言えば、以前、上手い先輩たちに誘われたと淳博が喜んでいたことを思い出す。


 正のスパイラルだ。上手い者が集まると相乗効果でどんどん上達していく。きっと音楽だってそうだし、野球だって……。


 はあ、と溜め息をついて翔馬は席を立とうとする。後ろから抵抗を感じた。パーカーの裾を淳博につかまれている。


「おい、服伸びるだろ」

「どうせなら最後までいろよ。食事会、お前はタダだからさ」

「いい。もう目的果たしたし。新入生、頑張って捕まえろよ」


 淳博の手を叩くと、翔馬は真っ直ぐドアに向かい、電子の音が鳴り響く空間を出ようとする。ふと振り返ると、淳博がバンドのメンバーと何かを話しながら少し心配そうにこちらを見ていて、翔馬は慌てて目をそらした。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る