キューピッドは振り返らない!
山下香織
第一章 愛という名のもとに
第1話 エリス降臨!
大理石の巨大な柱に囲まれた荘厳なる空間に、これまた大理石で加工された祭壇は、人間の手による装飾が施されたアンテペンディウムを前面に飾り、側面も金や銀などの浮彫で飾られた絢爛さだ。
祭壇の前に立つ長い金髪の美女――女神アフロディーテは、その両手を天に向けて広げる。
「私の愛しい娘、エリスよ。姿を見せておくれ。そして私の話を聞いておくれ」
目の前の空間に発光した粒子が霧状に漂いはじめ収束し、眩い黄金光を内側から滲ませてそれが広がると、母親と同じ金髪を揺らめかせた少女が光を割って現れた。
年の頃は十五、六に見え、その容姿は母アフロディーテをそのまま若くしたかのような美少女だ。
「なあに? ママ」
母親に劣らぬその美貌を、眠たげに崩した少女の顔は、寝起きのそれだ。
「エリス……今の神界は崩壊の危機に瀕しているの。このままでは冥界に飲み込まれてしまうわ。とってもとっても困っているの」
「ふーん。そうなの?」
両腕をショートボブの金髪の上に伸ばし、ふああと軽く欠伸をしながらエリスは興味もなさげに聞く。
「神界の力を取り戻すには愛のパワーが足りないの。この神殿を見たらわかるでしょう? すでに崩壊が始まっているわ。昨日もほら、そこの……柱が一本崩れてしまったわ」
本来神殿と呼ばれるものは人間が作りだしたものだが、それらは神界にすべて反映されていた。それも愛のパワーのなせる業のひとつである。それが弱まった時、この神殿もまた力を無くし、崩れゆくのだ。
「エリス。あなたにお願いがあるの。とってもとっても重要な事なの」
アフロディーテは長い金髪をなびかせて、エリスの元にふわりと近寄り、その手を取った。すべての動作が滑らかで優雅だ。
「エリス、あなたには現界へ行ってもらい、愛の結晶を集めて来てほしいの」
「愛の結晶?」
「そう、愛の結晶。あなたがそれを集める事によって、この神界は救われるのよ」
「現界ってニンゲンが居る所?」
「そうよ、エリス。とっても怖いかも知れないけど、人間があなたに危害を加える事は出来ないわ。人間と私たちとではとっても格が違うもの」
「そう? 面白そうだからいいよっ。あたし行く!」
「とってもとっても頼もしいわエリス。この世界の未来はあなたに懸っているの。お願いしますね」
「おっけー! ママ」
かくしてエリスは神界の危機を救うべく、現界へと降り立つのであった。
地球の日本の都心部に降臨したエリスは、
そしてエリスは今、六畳一間のボロアパートの一室に居た。
「もしもし? ママ? 聞こえる?」
真っ赤な丸いコンパクトミラーを開くと、鏡の部分にアフロディーテが映っている。
「無事に着きましたか? エリス」
「言われた通りの場所に来たけど、とってもみすぼらしい部屋に案内されたわ。本当にここがあたしの住む所なのかしら」
「あら、何か手違いがあったかしら? あなたの住む場所は、一流ホテルのスイートルームという事になっているはずですよ」
「えっと、この建物の名前が『一流荘』ってなってるけど」
「一流なら間違いないと思いますよ、エリス」
「そうね、一流だしとりあえずここでいいや。じゃあ頑張るからねママ」
「はい、お願いしますねエリス。とってもとっても愛していますよ」
「あたしも愛してるわっ。またねっ」
コンパクトをたたんでエリスは何も無い部屋に寝転ぶ。
和室なので畳の上だ。今の所、家具も何も置かれていない。
「取扱い説明書っと」
エリスが呟くと、何も無い所でその手に出現したA四サイズ程の紙束の表紙には、『愛の結晶の集め方』と書いてある。
『モードチェンジの説明』という所を飛ばして――実はこの飛ばした部分が、エリスにとって重要な事だったのだが、それをしてしまうのが、このエリスなのである――『武器の説明』という所を読み始めるエリス。
『その1・まずは天使の弓を装備しましょう』
「えっと、キューピッズ・ボウ!」
ボンと目の前に出現したそれは、細い木の枝で出来た弓だった。所々で木の節が微妙に角度を変えたその造形は、武器というよりひとつの芸術作品のようだ。
構えて弦を引けば光と共に矢が出現し、自動で装填される。このため矢筒の装備はない。
『その2・愛し合う男女に向けて矢を放ちましょう』
「ここには居ないわね、後で実践ね」
『その3・矢に当たった人間は育んだ愛を奪われ、その愛は結晶となってあなたの体に吸収されます。愛を奪われた人間は、愛を深めた相手の事を愛さなくなります。男女どちらかに当てた後、もう一人も同様に矢を当てる事で、二人の修羅場を避ける事が出来るでしょう』
「どっちも奪えって事ね。でもせっかく愛を育てた二人なのに可哀想じゃない?」
『二人揃って奪ってあげる事。それが神の慈悲と言うものなのです。躊躇ってはいけません。それが神の慈悲と言うものなのです』
説明書の文字がエリスを説得にかかる。これは大切なのだと強調したいらしく、二度続けて書かれていた。
「そっか、二人とも愛が無くなるんだから最初に戻るだけよね。また愛を育てればいいのよね」
エリスはすっくと立ち上がり、試し撃ちに出る事にした。
六畳の部屋から押入れのような横開きの扉を開き、八部屋分の扉を左右に配置した廊下を少し歩けば、すぐに階段がある。その階段と廊下との間にある申し訳程度のスペースが靴を脱ぐ場所でもあるのだが、エリスは部屋に居た時から土足である。そしてエリスの部屋は二階の一番奥にあった。
錆びれた鉄の階段をカンカンと音を立てながら下りると、アパートの大家が竹箒を手に、表を掃いている。
「あらエリスちゃん。おでかけ? 部屋に荷物は届いたのかい?」
『一流荘』の大家でもある
「ううん、荷物はまだないの。これからちょっと散歩」
「そうかい、気を付けて行くんだよ。アンタみたいなハーフで可愛い子だったら、攫われてもおかしくないくらいだよ」
「そうなの?」
「十六歳って言ってたから高校生よね? 変なおじさんとかに付いて行っちゃ駄目よ?」
「うん、わかったわ」
エリスは笑顔を向け、手を振って歩き出す。
「そういえば、なんでエリスちゃんがうちの部屋を借りるようになったんだっけ」
エリスが立ち去ってから、桐流一子はふと思う。
どうにも記憶にないのだが、家賃は五十年分前払いされてある。既に築四十年のアパートがそこまで持つわけもないというものだが、特に問題はないだろうという気にさせられ、アパート前の掃き掃除を続けるのだった。
エリスはあても無く歩いていた。
季節は十二月だというのに、白のノースリーブのワンピースに赤のショートブーツという軽装で寒そうにもしていない。
やがて公園の入り口が目に入った。
(こういう所ならカップルくらい居そうよね?)
平日の昼間という事の意味も分かっていないエリスは決めつけ、公園に入って行く。
随分と広い公園のようだ。木々は森のように生い茂り、遠くにボートの浮いている大きな池もある。
遊歩道の脇には自転車も走れる整備された道も隣接され、ベビーカーを押す母親とぶつかる心配もなさそうだ。
やがてエリスの思惑通りに、木々に囲まれた薄暗いベンチにイチャつくカップルを発見する。
平日の昼間でも、居る所には居るのだ。
(イチャップル発見!)
どこで覚えたのか分からないような造語を呟きつつ、少し離れた木の陰に隠れ、説明書を取り出す。
「えっと、弓を使うにはモードチェンジする必要があるって書いてあるわ」
アパートで読み飛ばした部分の説明だった。
エリスは説明書通りにモードチェンジの掛け声を口にした。
「チェンジ! モード・エロス!」
その瞬間、眩い光に包まれたエリスは愛の女神エロスの化身となり、キューピッドの能力を授かる。
ノースリーブのワンピースは光となって霧散し、背中に申し訳程度の小さな一対の白い羽が生える。
変身の完了したエリスは、今やキューピッドとなった。
その姿は足には元から履いていたショートブーツ、そしてそこから上は……全裸だ。
「えええええ!?」
天真爛漫に見えるエリスと言えど、白昼の公園で全裸は恥ずかしいらしい。
「ちょ、ちょっと何よこれ! ブーツしか履いてないじゃん! 全裸じゃん! 恥ずいじゃん!」
両肩を抱きしめ腰をクネクネさせて、キューピッドのあるべき姿に戸惑うエリスだったが、ベンチのカップルに気付かれてしまった。
「おい、なんか光ったと思ったらあそこに裸の女が居ないか?」
(やばいやばいやばい! あたしこんな羞恥プレイ望んでないぃ!)
「何言ってんのよもう、幻覚見る程サカリついちゃったの? ってまぢで? ホントだ! 変態!?」
(こ、殺す! こいつら殺して無かった事にしてやる!)
羞恥心で頭の沸騰したエリスは、もうそれしか考えられなかった。
エリスは殺気を漲らせ、弓を構え矢を番える。
バヒュンと特に狙いもせずに放たれた矢は、自動で心臓へと照準する。矢の先は鉛色に鈍く輝いていた。
それは男の胸に突き刺さった瞬間光となって消え、胸の部分から赤いハート型の結晶が飛び出す。
自動装填されて放った二の矢も、狙い違わず女の胸に突き刺さった。
(殺ったか!?)
二人分の愛の結晶がエリスの元へと飛んできて、その小さな推定Bカップの胸に吸い込まれる。
「あれ? なんか刺さったような気がする。そこの女! 何かしたのか!?」
(この矢で殺す事は出来ない! 結晶を集めるだけなのね!)
男がエリスに駆け寄ろうとしていた。既に愛を奪われ彼女への興味を無くした男は、全裸のエリスへ好奇と下心の籠った目つきを向けている。
それを見たエリスは踵を返し、一目散に逃げ出した。
「なんであたし全裸で走らなきゃならないのよぉぉぉ!」
一生懸命に走るも、むべなるかな推定Bカップの胸の揺れは、かなしいかなささやかだ。
(せ、説明書!)
全裸ストリーキングのエリスは走りながら、目を皿のようにしてモードの解除方法を説明書に求める。
「ち、チェンジ! モード・キャンセル!」
光が集まりエリスの肌に、元のワンピースが形成されてゆく。
服を身に着けるも、今や羞恥心の塊となったエリスは走り続ける。
全力疾走で公園を抜け、目に涙を溜めたエリスは、前しか見ていない。
彼女は決して、後ろを振り返らなかった。
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