アカシア年代記

田中

アカシア年代記

プセルロス<750~807> -ヴァシリ帝国宰相-

序章

 ドクサ宮殿と言えば、古都ヴァシリティオンの観光名所である。

 新市街と旧市街から同程度の距離にある小高い丘の上にあって、観光客は市電でエイレーネ駅まで行くかタクシーを使うのが一般的だ。足に自信がある人は街から徒歩で行けなくもない。

 この宮殿を訪れた者たちは、まず幾何学文様の施された美しく大きな門に感嘆の息を漏らす。門を抜けると、程なくして宮殿の中にたどり着くのだが、そこには仕掛けが施されていた。太陽の動きを計算されつくして設計された身廊は、差し込む光の量によって訪れる時間帯毎に違う顔を見せた。だから穴場の時間帯が存在せず、ドクサ宮殿はいつ何時も観光客で溢れていた。当時の建築技術の粋を集めたギリク建築の最高傑作である。

 この宮殿は旧市街のハギア宮殿に比べると、ずっと小さい。それもそのはずだ。この宮殿は元々廟として作られたものであると、どのガイドブックにも書かれている。まるで、それがドクサ宮殿の本質だと言わんばかりに。


 元々廟として作られたものを、宮殿に改築したということか。いいや、そうではなかった。

 この宮殿は初めから、とある死者の為に廟として建てられた。だから歴代のヴァシリ帝国の皇帝たちは誰一人としてドクサ宮殿に居を構えていない。


 死者の居住地に手を出すのは縁起が悪い。


 ドクサ宮殿は宮殿としての機能を与えられていながらも、一度も使用されたことのない建物である。それでもこの空虚な宮殿の美しさは、死者にまつわる負のイメージを神秘的なイメージにすら変貌させ、訪れる者たちの心を掴んで震わさずにはいられなかった。


​***


 美しさで他を圧倒する点において、ドクサ宮殿はヴァシリティオンそのものだった。

 この玲瓏れいろうな都は異国の使者達を、あっという間に鄙びた田舎者にしてしまう。国を代表する誇り高き彼らは、祖国に戻ると子どものように興奮気味に顔を赤らめて、ヴァシリ帝国の繁栄を報告した。

 栄光のラカ帝国の唯一にして正当なる後継国。東西に分裂してしまった古代ラカ帝国の片割れ、東ラカ帝国。その別名をヴァシリ帝国。


 ヴァシリ宮殿の高官たちは慇懃いんぎんにして無礼。それでも、外国人たちはヴァシリ帝国に、ヴァシリティオンに憧れずにはいられなかった。

 ヴァシリの都には全てがあった。

 東西の文明の交わる都市。技術や文化、それを使いこなす人間達。この世の何もかもがこの都に集まった。


 8世紀頃に著されたグルツンギ、現フランカの歴史書『シメオン年代記』にはヴァシリティオンについてこんな記述がある。




“この場所で手に入らないものなど存在せず、その美しさは、まさに地上に現れた楽園であった。その豊かさたるや、ヴァシリティオンで1年働けば、グルツンギで7年は遊んで暮らせる程である”



 グルツンギは元西ラカ帝国の一部の国である。

 4世紀に西ラカ帝国が滅亡してから4世紀の間に、東西の経済格差はこれほどまでに大きくなっていた。

 一方で、この未曽有みぞうの発展を遂げていたヴァシリ帝国の歴史は、他国からの侵略と戦う歴史でもあった。歴代の皇帝たちはあらゆる策を講じてはラカを守ってきた。他国と同盟し、破棄し、そして裏切りさえも辞さない。


 全てはヴァシリ帝国の存続の為だ。

 しかし、彼らの慎ましい努力の姿は他国から見れば信念がなく、卑怯で信用できない国に映った。


 ヴァシリ人たち(本人たちの自称はラカ人・ラカ帝国であったが、本項では混同を防ぐためにヴァシリ人で統一する)は、ヴァシリを軽蔑する彼らを逆に鼻で笑ったかもしれない。お前たちがこの国を狙わなければ、こんな国になる必要はなかったのだと。元々ヴァシリ帝国は勇ましい古代ラカ帝国の末裔である。本来ならば外交に巧みになる必要はなかった。

 ヴァシリ帝国とは、古代ラカ帝国を継承する由緒正しき国でありながら、生き延びる為に変容を受け入れた国なのだ。




「あんな田舎者達にどう思われようとも、痛くもかゆくもないでしょう」



 これがヴァシリ人達の総意のように思われる。

 この言葉は、ペラギア女王の時代に、宰相ヴァシレオパトールを努めたプセルロスの言葉である。

 グルツンギ王をして「奴は三枚舌であり、必要であれば嘘をつき、それを翻すことを恥だと感じることがない」と言わしめたプセルロスだ。


 

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