第九章 エピローグ
(1)これからの未来予想
冬の空は青く澄み渡っている。
あれから一ヶ月。ロードリッシュの次期女王候補が送った親書に、キリングが応えるという形で、使者のやり取りがかわされた。
そして、今日遂に両国の暫定国境線になっているシュリンケン峡谷の入り口で、正式な講和が結ばれることになったのだ。
峡谷の入り口をすぐ眼下に見る小高い丘の上には、たくさんの天幕が並んでいる。どちらの建物でもないここが選ばれたのは、お互いにおかしな動きができない上に、不審者も容易に近づけないからだ。
けれど、私の視線は今、ロードリッシュの広い天幕を訪ねてきた人物に釘づけになっている。
「お母様」
太陽を背中に背負うように、クリーム色のドレスを着た人影が天幕の入り口に立つ。
長い茶金の巻き毛を美しく揺らす姫は、背に受ける冬の陽射しのようにふわりと柔らかく微笑むと、天幕の中に立っていた王妃に愛おしそうに声をかけた。
「リアーヌ……」
声に振り返った王妃の喉が震えている。そして、急いで駆け寄った。早くに嫁いだ娘を見つめる王妃の瞳は、涙に溢れている。
「大きくなって! 元気に暮らしていた? キリングで辛い思いをしていない?」
「はい。キリングの王子である夫は、とても私を大切にしてくれています」
「そう――、よかった……」
数年ぶりに娘を抱きしめる王妃の手は震えている。白い頬は、化粧が崩れるのも気にしていないように涙だらけだ。けれど、幼い頃に別れた娘を抱きしめる王妃の嗚咽に、見ている私もじんと心が震えてしまう。
リアーヌ王女にも母の気持ちが伝わったのだろう。王女の瞳にも、白い涙が光りながら、縋る母の肩をそっと抱きしめた。
「お母様……。私もずっとお会いしとうございました」
そして、目を開く。王妃と同じ色の瞳からは、静かに涙がこぼれ落ちていく。
「夫の王子は、ずっとキリングが私のお兄様を殺したことを気にしていました」
「え……?」
驚いたのだろう。王妃が抱きしめていた娘から顔をあげた。
「だから、今回の講和の申し込みをとても喜んでいました。ロードリッシュの憎しみは深いでしょうが、どうかキリングを許して欲しいのです。夫は私の悲しみに、いつも一緒に辛い思いをしてくれていました……」
「わかっています。王子を殺したのは、戦場で戦った相手で、キリングの王子ではない……。恨まないわけではありませんが、私はお前の幸せも同じくらい大事なのです……」
「お母様……」
肩を抱かれていたリアーヌ王女の瞳から、また静かに涙が零れ落ちていく。けれど、それは悲しいというよりも安堵の優しい微笑みに揺れている。
「私は王妃として両国のために過去を乗り越えます。だから、どうかお前も……、また私に会いにきておくれ」
「はい。必ず」
笑うリアーヌ王女の姿は、いつの間にか立派なキリングの王太子妃になっている。
だから、私は天幕を離れた。そして、ゆっくりと歩き出す。
ごつごつとした土の上を、人を探しながら歩いていく。すると、離れた天幕の影に立っていたマリエルが私に声をかけた。
「シリルが、アンジィの騎士資格を許可するって言っていたわ」
「じゃあ……」
足を止め聞いた言葉に、二重の意味で顔が輝く。
「ええ。王妃様が、私が女王になることを認めてくださったの」
「よかった! この会談を実現させたからだな」
「ええ。そしてリアーヌ様を会談の場所に連れてきてくださるように、キリングにお願いしたのが叶ったからみたい」
ほっとしたようにマリエルが笑っている。だから私も笑った。
「やったね! マリエルが毎日すごく頑張ったからだよ!」
本当によかった。いつもあんなに遅くまで勉強をして頑張っていたのだ。きっとマリエルは素晴らしい女王様になる。
「私一人の力じゃないわ。シリルが毎日、貴族の中を走り回って講和の根回しをしてくれて。エマとロゼも毎日たくさんの手紙書きを協力してくれたもの」
「うん。でもシリル長官は嬉しそうだったよ。これでロードリッシュのみならず、キリングにまでマリエルの素晴らしさを広められるって、なにか別の計画を練っているようだったから。ちょっと気をつけないと。肖像画やなんかでマリエル教を広める気かもしれない」
「それなら、もうしているわよ?」
「え!?」
くすくすと面白そうに笑っている。
「ほら? キリングの使者とやりとりをする時、こちらの本気を示す為に、シリルったら本当に買い集めた塩を見せたじゃない?」
「ああ、あの時の……」
まさか、本当にイルド中の塩を買い集めてくるとは思わなかった。倉庫一面に積まれた塩を見たキリングの使者は、さぞや青くなったことだろう。
「でも都中の塩がなければ、すぐに暴動になるわ。だから見せた塩はすぐに、また売ったのだけど、買った価格より少しだけ安くして売りに出したのよ。その時に、私の似姿を全部の袋に貼っていたみたい」
つまり、塩を少し安く市民に売ることで、新女王陛下の恩恵ですと吹聴したというのか! どこまでもマリエル教を広めることに、ぬかりのない奴!
この調子では、マリエルが即位したら、ありとあらゆるものにマリエルの名前をつけるのじゃないだろうな!?
一瞬で私の頭の中に、マリエル定理、マリエル装飾、マリエル形式といった数学や美術の新用語が並ぶ。
――やる! あの親馬鹿長官……!
これは、別な意味で新たなロードリッシュの危機かもしれない。
どうしよう!? もし、これから出る本の表紙は全てマリエルを描くこととか新しい法律で決められたら!? そんなのどれがどの本かわからなくて、ロードリッシュ中が大混乱になるぞ?
うわあああと叫びそうになっている私の前で、しかしマリエルは少し首を傾げている。
「ところで、アンジィはどこに行こうとしていたの?」
「うっ――!」
忘れていた! いや、咄嗟にとんでもない未来予想図で悶えてしまっていたせいだけれど。しかし、思い出した私の顔を見て、マリエルの表情が少し曇る。
「あのレオスって騎士のところ?」
「えっ!」
そうだけれど! なんで、何も言っていないのにわかるんだ!? あ、いつも側にいるからか。けれどマリエルは、更にしゅんとした表情をしている。
「あの人が好きなの?」
「ええっ!?」
どうしてばれているんだ!? 一度もマリエルの前では言っていないのに! いや、それどころか、まだ誰にもレオスへの気持ちは伝えていない筈だ!
けれど、マリエルは私の驚いた顔が面白かったのか、くすっと笑っている。
「バレバレよ? だって、あの人を見ている時のアンジィ、すごくかわいい顔をしているもの」
「かわいいって……」
「うーん、女の子らしいっていうの? だからわかったの。ああ、アンジィはこの人が好きなんだなって」
すごい観察力だ。そういえば、レオスが私を好きなことも一目で見抜いていた。
やはり、マリエルの頭の良さは並ではない。
けれど、マリエルの顔はまた少し悲しそうなものになった。
「じゃあ、あの人と結婚するの?」
「はい!?」
「違うの? じゃあ、愛人?」
「ちょっと待って! なんで、よりによってその二択?」
普通、間に恋人とか交際期間が入らないか? かなり突飛な質問に私は慌てて前髪を掻き揚げるふりをしながら、必死に冷静になろうと努めた。
「だって、貴族ではたいていどちらかだから。お互いの気持ちが通じ合ったら、誠実に対応するか、この場限りと割り切っておつきあいをするか」
口があんぐりと開いてしまう。
なんだ、その両極端――。だけど、言われてみれば、確かに家同士の利害が絡む関係ではそうなってしまうのかもしれない。
いやいやいや! だけど、問題はそこではない!
なんで、マリエルの頭の中に交際期間という概念がないんだよ!?
どうしよう、肝心なところで世間知らずなんて。
「だけど、アンジィは愛人関係なんてできるような性格じゃないから……。じゃあ、やっぱりあの人と結婚するつもりなのかなって……」
言いながら、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしている。
「私と仲良くしてくれた、たった一人の身内なのに……。まさか、こんなに早くほかの人に取られてしまうなんて……」
「いやいや! まだそこまでいかないから!」
「えっ?」
今度はマリエルが驚いている。なんで、ここで驚くのかがわからないが、やはり誤解は訂正しておくべきだろう。でないと、レオスがとんでもない不誠実な人間認定されそうだ。
「そりゃあ先はわからないよ? でも、今はまだ、私もあいつへの気持ちに気がついたばかりで……」
うっ。段々と恥ずかしくなってきたぞ?
「でも、あいつは何度も私と一緒に戦ってくれたんだ。あいつがいると、私は安心して戦えるし、もっと強くなれる気がする」
だから――。
「マリエルをこれからも守るためにも、レオスといることを許してほしいんだ。きっと、今よりも強くなって、二人でマリエルを守ってみせるから……」
「私を守るため?」
今まで泣いていたマリエルの瞳がきょとんと開かれた。
そして、ゆっくりと私に手を伸ばしてくる。
「わかったわ。アンジィが私の側にいてくれるのなら、アンジィの側にあの人がいることを認めるわ。結婚を申し込まないなんて不誠実は許さないけれど」
「マリエル……」
やはり両親のいなかった寂しさが、マリエルの心の傷になっているのだろう。伸ばされてくる指を握りながら、そっと微笑みかける。
「でも婚約を許すのは、あの人がこの国最強の騎士となった時。だから、それまではどうか私の側にいて欲しいの。私が噂通りの最強の女王陛下になるには、どうしてもアンジィの協力が必要だから。――どうか、お願いよ。これからも私を助けてちょうだい」
伸ばされたマリエルの指は細かく震えている。だから、私は強く握りながら、安心させるように笑いかけた。
「まかせておけ! 私でいいのなら、いくらでも手伝うよ!」
だってマリエルは私が認めた女王様だ。騎士が、忠誠を誓った女王様を守るのは当然だ!
そして、一度髪を安心させるように撫でてやる。
せっかく綺麗に化粧をしているのに、さっきの涙のせいでぐしゃぐしゃだ。
「これは、もう一度会談の前にエマたちの直してもらわないとな」
「アンジィは?」
「私は――。あいつにちょっと話があるから」
そうだ。ずっと返事を待たせていた。
だから返事をしなければいけない。今の私の気持ちを。
くしゃっとマリエルの前髪をかき回して、エマのところへ向かうのに送り出した。そして、レオスを探して歩き始める。
だけど、どうしよう。
だんだんと緊張してきた。
どんな顔で、私はあいつに気持ちを伝えたらよいのだろう。
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