(2)女王様って、あれれ?
どうしよう。
生まれてから今まで、これほど冷や汗が出たことはない。
古い宮殿は、もう冬の日差しに包まれて、装飾をおさえたこの書斎にも窓から暖かな光が降り注いでいる。けれど、夏場にも劣らない汗が全身に滴ってくる。
確かに、このシリル・コライユの口ぞえがなければ、女である自分が騎士にはなることは覚束ない。
基本的に、騎士は男の職業だ。女が騎士に就任できるのは、ごく僅かな例外が認められた時だけ。
それだけに、中央貴族に話もできる新女王の後見人の口添えは絶対にほしいところだけれど……。
まさか、こんな交換条件がついてくるとは思わなかった。
だから、冬を告げる陽射しを窓辺で受けながら、じっとこちらを見つめてくるシリルに、どう返事をしたらいいのかわからなくなる。
――でも、女王陛下の身代わりなんて……。
絶対に無理だ!
「あ、の……」
それなのに、搾り出したはずの声は、途中でからからに乾いて意味をなさなくなってしまう。
もしここで断れば――――、小さい頃から夢だった騎士にはなれないだろう。
脳裏に、砦で剣を教えてくれた兄や兄の友人の騎士達、それに「強くなったな」と嬉しそうに頭を撫でてくれた遠い日の父の笑顔が甦る。
本当は兄の結婚が決まるずっと前から、剣や弓を教えてくれた砦のみんなに交じって、自分も立派な騎士の一人になるのが夢だったのだ。
――それなのに、それが全部、次の私の返事で終わってしまうなんて!
嫌だ。
ぎゅっと目を閉じる。
でも、女王陛下の身代わりなんて。そんな恐れ多いことができるはずもないのに……。
どちらの言葉も選ぶことができない。目を閉じたまま、思わず拳を握り締めて力を入れた瞬間、後ろでぱたんと軽い音がした。
そして、柔らかな甘い香りが漂ってくる。
「ああ、ありがとうございます」
シリルの声に目を開けて、後ろを振り向くと、自分と同じくらいの歳に見える女の子が、テーブルに紅茶を入れた白磁のカップを置いてくれている。
ことりという軽い音をあげた指先の持ち主は、落ち着いた深い青のドレスを纏い、柔らかな金の巻き毛を肩から胸元へとたらしている。巻き毛から優しげに覗く笑顔は、シリルとは違う、まるで花のように無邪気な笑みだ。
「突然の話で驚かせたようですね。アンジィリーナ、一度座って、気持ちを落ち着かせてください」
「あ、はい――」
伸ばされた手に促されるように、後ろに置かれた金糸で刺繍がされた緑のソファに腰かけた。そして、小さな卓に置かれた白磁のカップに手を伸ばす。立ち上る柔らかな湯気が、先ほどまでの緊張で冷えきってしまった指先を温めてくれる。
カップから香る柔らかな花のような湯気がくすぐったい。
だから、ほっとして、見つめていた赤い水面に口につけると、さっきお茶を届けてくれた女の子が、安心したように、隣にすとんと腰かけた。
誰だろう。かわいい子だな。
私と同じ薄い金の髪と空色の瞳。人形のように白い肌をしているが、私が気がついたのが嬉しかったのか。こちらを見上げると、にこっと笑いかけてきてくれる。
でも、気のせいかな?
なんだか、私に似ているような気がするのだけれど……。
「どうですか? 姫自ら淹れてくださったお茶の味は」
シリルの言葉に思わず噴き出しそうになった。唇から出る寸前でなんとか阻止して、飲み込んだけれど、今度は逆にむせてしまい息が苦しい。
それでも、涙まじりの目をどうにかあげると、まだ咳の混じった苦しい声で尋ねた。
「今、ひ、姫って……!」
え!? まさか、この子が!?
さっきから話に出てきた、七カ国語を操る絶世の剣姫!?
――いやあ、さすがに盛りすぎだろう。
むせ返りながら、姫を見上げる。
確かに、普通よりはかわいいし、美人の範囲で通るかもしれない。けれど、今口に手をあててむせている私の背中を、慌ててさすってくれている不安そうな顔からは、とても剣姫とか賢女、絶世とかいう単語は思い浮かんでこない。
――親馬鹿の威力おそるべし。
咳き込んだ涙を目に浮かべながら見上げると、視線に気がついたのか、姫がほっとしたような表情をした。
その顔は、年よりもずっとあどけなく見える。
うん。確かにかわいいけれど……。
とても、これが新女王様には見えない。
それに、この顔って一体!?
けれど私の驚いた表情が伝わったのだろう。机の手前にまで出てきていたシリルが、咳き込んでいる私を見つめて薄く笑っている。
「よく似ているでしょう?」
その口ぶりは明らかに、私と姫が似ていることを知っていた顔だ。
「これは一体……」
どうして私達が、こんなに似ているんだ!?
けれど、シリルは楽しそうに口を開いた。
「実は、貴女も陛下の御落胤で――」
「嘘を言うつもりなら、少なくとも信憑性のある顔にしてください!」
なんだ、その盛大ににやけた顔は!
すると、面白くなさそうにシリルは斜め横を見上げる。
「冗談ですよ。正確には、アンジィリーナ、貴女と姫は従姉妹なのです」
「え?」
「覚えていませんか? ほら、幼い頃砦をお母様の妹のイレーヌ様とマリエル姫様が一緒に訪ねられたことがあったでしょう? 貴女が、お兄様と一緒になって砦中でかくれんぼをしてくれたお蔭で、私達が探すのに半日がかりになった。あの時ですよ」
言われた内容に、ずっと頭の中にしまっていた幼い八歳の頃の記憶が甦ってきた。
「あ、あの時の!」
砦中を半日かけて移動し続けて、徹底的に鬼から逃げ切ったことがあった。お蔭で、最後にはマリエルが帰る時間になったという叔母の従者と砦の騎士団あげての大捜索になり、今でも幼い頃の武勇伝として砦の中では語り継がれている。
「あの時のマリエル!? うわあ、懐かしいなあ! 覚えているか!? 砦中の扉に二人の手形と名前で参上って、書いて回ったの!」
「覚えていますとも。私の部屋にまで書いてくれて。その忘れられない犯行文のお蔭で、今回の手紙の差出人があの時の貴女だとすぐに思い当たりました」
――まさか、このシリル、まだ根に持っている?
なんて執念深いと後ろも振り返れずに汗が出てくる。ひょっしたら、敵に回したら厄介なタイプかも?
でも。
思い出したことが嬉しいのか、目の前でふわりと私を見つめているマリエルに、思わず笑みがこぼれた。
――懐かしい。
覚えている。砦に来た時、怪我をした兵士を心配して、泣きながら手当てをしようとしていた優しいマリエルだ。
「まさか姫様だったなんて……。全然知らなかった」
「それは仕方がありません。王宮の下女をされていたイレーヌ様が陛下のお子を宿されたことは、積極的には知らされていませんでしたから。まあ、いわゆる宮中の秘密というところですね。だからマリエル姫様のことも、陛下の御遺言が明らかになるまでは、国民にはあまり知られていませんでしたし」
「そっかあ。ごめんな、イレーヌ叔母様のお葬式にも行けなくて。遠いから子供は邪魔だと置いていかれたんだ……」
もう、五年も昔になるだろうか。その時の後悔を、久しぶりに会った従姉妹の顔を見つめながら告げる。けれど、マリエルは驚いたように瞳をきょとんとさせたままだ。それに、苦笑した。
「あ、ごめん。私、男の中ばかりで育ったから、口が悪くて。よく男みたいなんて言われるんだ」
私の言葉に、記憶の中と同じ面差しのマリエルはふわっと笑う。
けれど、浮かべた笑みにふと違和感が湧いた。
「マリエル――いや、姫様? まさか、喉が――」
よく考えたらさっきから一言も話していない。小さい頃は、あんなに大きな声で一緒にはしゃぎまわっていたのに。
「さっきお話した通りですよ。刺客に毒を盛られたんです」
「毒!?」
「幸いたいしたことはなく、毒は完全に解毒できたはずなのですが、それ以来声が出なくなりました。医者が言うには、幼い内に母上を亡くされ、今回はお父上まで病で亡くされた上に、ご自分も殺されそうになり――。ショックが重なったせいではないかという話なのですが……」
確か……。
「さっきの話では、姫様の
「はい。ご存知とは、思いますが、第一王子は昨年、戦での傷が元で早世されました。そして相次ぐ流行病で、第一王女と第二王女も――。今、残っておられるのは、王妃様が生まれた、幼い内に政略結婚で隣国キリングに嫁がれた第三王女様だけです。本当は、姫様よりも年下ですが――」
――マリエルは、王女の数にさえ入れてもらえていない。
辛い事実を告げられて胸が痛くなる。
どれだけ悲しかっただろう。家族なはずなのに、王族の数にも入れてはもらえず、愛人の子だというだけで、ずっと身を潜めるようにして暮らさなければならなかったのは――。
「そして、王妃様は、姫様ではなく、ご自分の第三王女様の王位継承を周りに勧めておられます」
「だから、姫に毒をもったり刺客を送ったりしているというわけか」
「はい、そのようですね」
「よし!」
思い切ると、腰に手を当てておもむろに立ち上がった。そして驚いて見つめているマリエルの瞳を上から覗き込む。
自分と同じ空の色だ。それを見ていると、同い年なのに、まるで妹を見ているような気分になる。
「わかった! 私が、側で守ってやる!」
「本当ですか!?」
後ろでシリルが驚いた顔をしているが、女に二言はない。
「ああ! 任せろ! 女王様だとびっくりしたけれど、マリエルなら私の友達だもんな! 友達を守るのは当たり前だし、第一大事な従姉妹殿だ!」
立ち上がった私に、マリエルが目を開いたまま見つめている。
「助かります! 身代わりは、王宮から使者が来た時だけでかまいませんから。その間になんとか姫の声を戻す方法を探します」
「わかった。マリエルの声がばれないようにだな」
確かに新女王の声が出ないとわかれば、あっという間にマリエルは日陰の身に追いやられてしまうだろう。だから、頷いているシリルに向かって軽くウインクをした。
そして、見上げたままのマリエルに気がつく。
「あ、本当は姫様か。なら私も姫様か、それとももう女王様と呼んだ方がいいのかな?」
けれども、振り返った私にマリエルは柔らかな巻き毛を振っている。そして、私の手をとると、指で文字を書いた。
『マリエルで――――アンジィ』
懐かしい呼び方に、マリエルも私を覚えていてくれたのだとわかる。にこっと見上げてくる笑顔がかわいくて、守ってあげたくて仕方がなくなる。
「よし、じゃあマリエル。今日から私がマリエルを守ってやるから! だから安心して!」
「一応人前では、姫様でお願いします。体面というものがありますから」
後ろでうるさいことを言ってくる奴がいるが、まあ仕方がないだろう。私だって、騎士を志した以上必要な礼儀ぐらいは心得ている。
「わかった」
「では、姫様の身代わりをする間は、男装でお願いします」
「は!?」
ちょっと待て! なんで、そうなる!?
「すぐ側に、そっくりな女の子がいれば、すぐ間者に身代わりと見抜かれてしまうでしょう? そうでなくても、最近部屋にこもりきりな姫様に、健康に問題があるのではと相手が疑っているようですのに」
「それは、そうかもだけど……。さすがに毎日、男装というのは……」
「ここにいる間、正騎士待遇として離宮の騎士隊で働けるように手を打ちましょう。身代わりの間、王宮騎士の制服が着れますよ?」
「やります!」
次の瞬間、返事を翻した。
幼い頃から憧れだった騎士服!
その騎士達の間でも、更にトップクラスしかなれないという王宮の精鋭騎士団の制服!
さすがに、これを逃す手はない――!
けれど、手を握り締めた私の横で、マリエルは心配そうな顔をしている。
だから、ぎゅっと手を握ってやった。
「大丈夫。私、小さい頃からしょっちゅう雄々しいって言われていたから」
でも、まだ心配そうだ。
「それが成長して、男らしい、男に生まれたらよかったのに、男みたいだと散々言われてきたから安心して」
「ええ。とりあえず、言われ慣れすぎて、最後のが悪口だと気がつかないのもどうかと思いますよ?」
――でも、大丈夫!
憧れの騎士の仕事ができる上に、マリエルも守れるのだ!
やるぞ!
だから、私は思い切り気合いを込めてガッツポーズをとった。
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