第一章 はじまりはチュートリアル

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 軽い。足取りが、とても軽い。人とは、こんなにも軽やかに歩けるものなのだろうか。エレベータなど使わずとも、今日の気分ならたとえ50階からだって階段を使って瞬く間に辿り着けるとも。地上の楽園に。

 生田いくたひろし 16歳、高校二年生。してやったり。

 お目当てのゲームのロムも無事に買えご満悦である。まだ少し早い時間だし、ちょっと都会をぶらぶら冷やかしてみようかしらなどと色気付いた心持ちで、雑居ビルから生還を果たしたその時だった。

 

「こんちわっす。ずいぶんとご機嫌ですね?」

 

 軽やかな女性の声が拓の背後から聞こえた。

 反射的に振り返ると古びた雑居ビルに挟まれた薄暗い路地裏の中に、黒づくめの人物がひっそりと立っていた。

 直前まで人の気配なんて無かったのに、という思考が浮かぶのと先を競うように、知覚から届くその容姿の胡散臭さ。

 黒いマント、いやゲームなんかでよく見るローブというのだろうか、ご丁寧にフードまですっぽりと被ったその姿は、さながら魔女そのものだった。


「あいや、そんなに警戒しないで欲しいっす。あたしは人畜無害っすよ。人畜無害度で言ったらあのカピバラさんをも差し置いて地上第一位を自負するっす。」

 

 たしかカピバラも、ハーレムを維持する際にはそれなりに凶暴であった気がするが、拓はそれを口にすることは無かった。

 拓は空気が読める子である。読み過ぎて生まれてこの方素敵な恋のお話が一つも聞こえてこないのはこの際別の話だ。

 

 それよりも。推定女性、超カピバラを自称するこの胡散臭い黒づくめだ。

 フードから除く口元は口角が上がりニヤけている。

 黒いローブ然とした外套は脛あたりまで延び、その下から茶色っぽい革のブーツが露わになっている。茶色っぽいとか革っぽいとか、口に出すと平凡な表現になってしまうが、すなわちこれが胡散臭さの元凶でもある。

 というのも、普段見慣れている素材とはどうにも、微妙に、何か違う気がするのだ。

 ただ悲しいかな、拓の人生経験はそれを言葉にする術を持たず、なんだかとにかく胡散臭いという印象だけが心を満たしていた。

 

「…で、カピバラさんが何か用なのかな…?」

 思い切って声を掛けた拓のその勇気は生来の物か、それともSNSでクリエーターがアップしていたほんのり肌色なヒロインの画像が原因なのか。

 浮ついた心は予想外のマレ人を迎えてもまだ健在していた。


「もう!あたしはカピバラじゃないっす!…そりゃぁまあ、カピバラさんを軽く凌駕する可愛さっすけども。」

 そう言いながらフードを外した後に現れたのは…。

 薄暗い路地裏にあって、なお輝く薄紅藤―紫とピンクの間の色―のボリューミーな髪をたわませながら、少し釣り上がった目を愉しそうに踊らせる美女だった。

 

「今日は生田拓君に、ちょっとしたモニターをやって欲しくて来たんすよ。」


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「モニター?」

 

 予想の斜め上、いや、そもそも何の予想もしていなかったが、思わぬ言葉に拓はオウム返しに口を開いていた。

 

「そうす。モニターす。」

 ローブ姿の美女は、いつの間に手にしていたのか古めかしい厚めの本を片手に何度も頷いてみせた。

 

「ここに……あ、あたしのことはネーレとでも呼んで欲しいっす。

 んで、ここに取り出しましたるは、偉大なる我が主上様が創り出したる究極の魔道書、その名も『マジカ・ムタレ』っす。」

 そう言って持っていた本を両手に持って、うやうやしく拓の前に差し出した。


「魔道書??」

 何となく勢いで差し出された本を受け取ってしまった拓。

 

「はい、紛うこと無き魔道書っす。どこに出しても恥ずかしくないヤツっす。実際に役に立つのか立たないのか良く分からない○検2級とかより全然確かなモノっす。」

 

「なるほど…○検2級より……って、謝って!○検に謝って!」

 明言を避けていたのにも係わらず律儀にフォローする拓。

 

 改めて手の中にある厚めの本に目を落とす。

 魔道書、と言われてもピンと来ないが、確かにただの本では無い感じがヒシヒシと伝わってくる。主に本の表紙から。

 黒ずんだ革表紙に刻まれた表題らしき文字は見たことも無く、シックながらもどことなくセンスを感じるその装丁は、曰わくありげな存在を予感させるには充分であった。

 厚みも10cm程はある。

 ずしりと手の中に感じる重厚感は、単純な物理的な重み以上に有無を言わせぬ存在感を主張し、無視出来ない何かを拓に感じさせていた。


「どうです? この高貴さが伝わってくるでしょ?

 今なら月の裏まで舞い上がってしまえそうでしょ?」

 自らをネーレと名乗った胡散臭い美女の、これまた胡散臭い言葉に惑わされながらも、拓は確かに手の中の本に意識を奪われていた。

 

には、これのモニターをお願いするっす。」

 

 拓は確かにこれまで出会った級友にはタクと呼ばれていたが、見知らぬ美女に、それもかなり胡散臭い女性にまでそう呼ばれるなどとは思ってもいなかった。

 何故初めて会った人に本名で無く愛称で呼ばれているのか、そもそも初対面らしからぬフランクさで接されているのはどういうわけか。むしろ舐めきった態度なのは何の振りだというのか。

 そんな諸々もどこ吹く風、拓は美女の顔を見てこくりと頷いてしまった。

 今そのリュックに仕舞われている、買ったばかりのインディーゲームは、しばらく触れることも叶わないなどと知らずに。

 これから彼を待ち受ける新たなる道筋に今はまだ気付いてもいないけれど、その持ち前の素直さと空気を読んで流れに身を任せる彼なりの処世術で、彼はただ、こくりと頷くのであった。

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