北へ

橙 suzukake

Prologue

 僕が一人旅をするのは「独りになりたい」からで、いたってシンプルな理由だ。

 日頃の煩わしい人間関係から「自分」だけを切り離して時間を使いたいからで、けっして、見知らぬ土地に住む人々の温もりを求める旅ではない。

 かといって、「自分自身と対話をする旅」でもない。

 切り離した「自分」が、移動しながら一泊二日の時間をただ使う。それが僕の一人旅の内容だ。

 

 移動は「車」で、目的地や立ち寄り地や宿泊地を決めないで、疲れて嫌になるまで車を走らせるのがいつものやり方だ。向かう方角だけを決め、この日のために選んだ曲と煙草を持って、朝食後に近くの自販機で缶コーヒーを買ってから出発して、できるだけ海に近い道を選んで走り、日暮れ前に宿泊する街を地図上で決めて、休憩時間に電話ボックスの電話帳で適当な温泉旅館を調べて電話して、夕食時間に間に合うように旅館まで車を走らせる。翌日は、行きと同じ道を逆向きになぞって帰る。初回から変わらない一人旅のルールだ。

 


 最初の一人旅は、27か28歳のときだった。

 田舎で生まれ育った割には車の免許の取得が遅くて、この歳で若葉マークだった。

 たいした車を注文したわけでもないのに、縁故の小さい中古車屋から納車の連絡が無いまま夏が終わった。朝夕に秋の気配が見え始めた頃、僕は我慢できずにレンタカーを借りて一人旅に出かけることにした。

 当時、僕には助手席に乗るべき人は居た。怪訝そうに僕の顔を覗くその人に「一人で遠くまで運転したいんだ。泊まる場所が決まったら連絡する」と言ったが、当然のことながら、怪訝な顔色は変わることはなかった。言ったところでしょうがないけど「方角は、たぶん北」と付け加えて家を出た。

 

 

 レンタカーで借りた車は、日産のリッターカーだった。買ってもほとんど使うことがなかった若葉マークを白いボディに貼ってから躍りだすように店を出た。

 心の中の息遣いは激しかったはずだ。激しすぎて、出発直後に信号待ちの前の車に接触したことを覚えている。幸いに、お互いの体もボディにも怪我や傷が無く、「兄ちゃん気をつけなよ」の忠告ひとつで終わった。初の遠出のスタートでこの軽い事故はいい薬になった。心の中の息遣いを抑え、何百キロの旅を楽しいものにするためにまずは安全に…。北へ向かう旅のときは、いつもこのエピソードを思い出す。



 何回目の「北への旅」になるだろう。

 何回も行っていれば、途中で立ち寄りたくなる場所も、一日に走れる距離も、煙草の本数も、そして、もちろん、車内で歌いたくなる曲だって大体、見当がつく。

 でも、最終目的地は決めない。宿泊場所も未定だ。

 携帯の電源を切って、缶コーヒーを買って、そして、エンジンキーを回す。カーステレオのチャンネルをハードディスクに合わせ、左方向にウインカーを出す。

 

「方角は北」


 声に出してからアクセルを踏む、のもルールのひとつだ。



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