第10話 片足ジャンプ
――どうしたものかな。
圭は内心で呟く。
体育の授業だった。
ジャージの膝の土を払ってから、同じ格好をした男子生徒の一群の方に目をやる。
グラウンドで男女分かれての、走り高跳びの計測。
圭がこの高校に入ってから初めての体育だ。
ただの50分一コマではあるのだが、転校生の属性の一部分について判断を下される、
結野圭の出した結果は、「これくらいなら誰でも飛べるだろう」という男子の最低ラインでの、二回連続の失敗。再挑戦権の喪失。
戻っていく圭の先にいる、助走地点に集う男子の一群の中には、誠司のように好意的な笑顔を向けている者も多い。
しかし彼らほどクラスカーストに対して悠長でなく、そして今まで圭への判断を保留にし、注視していた者たちは、このタイミングを使ってその視線を侮ったものや、揶揄する視線へと変えたようだった。
本当は圭は、今後のことを考えて”ちょっと運動神経がいい”という辺りで飛んでおくつもりだった。圭にとってカーストはどうでも良くとも、今後何かの必要が生じて咄嗟の体術を使ったとき、そこまで目立たずに済むからだ。
圭の誤算は、そういう目途だけ立てておいて、”ちょっと運動神経がいい”動きをするためにまさか練習が必要だと思っていなかったことだった。
一回目は空中で丸まったままバーに激突。
二回目は踏切の一歩手前で足がグランドをえぐってしまい、バーどころかクッションマットの側面に突進してしまった。
大きな笑いと、体育教師の心配する声。
そして今、どうしたものかな、と。
これまでの鍛錬で【
【速化 《スピード》】や【
また、その速度でまともに動く為には”人間にとって正しい動き方”というものを感覚的に、無意識レベルで身に付けることが必須となり、圭も長い対人訓練でそれを身に付けていた。
【
つまり一切
圭はこれまで魔法発動状態と『スッピン』状態での戦闘訓練をともに怠らず積んできてはいたが、”高校生の平均値”という微妙なラインでの体動訓練は全くやっていなかった。
『スッピン』で3メートルあたりのバーを目指せばほぼ無意識的に動けただろう。しかし、本気っぽく走って本気っぽく1メートル強をジャンプするとなると、身体の各部位について余計なことを考えてしまい、それぞれがまるで噛み合わなくなってしまうのだ。
踏み込む一歩一歩で、腕の一振り一振りで大きくレベルを下げる、というのが予想以上に難しく、助走開始時点から心の中で、(このままでは2メートル行くんじゃないか。抑えろ)(抑えるってどう動くんだ)(抑え過ぎだ)を繰り返した結果が、これ。さぞガタガタ助走と不細工な踏み切りに見えたことだろう。
離れたところにいる女子グループの方からも視線を感じたが、とりわけりょうは顔面中に睨みと嘲りを乗せ合わせて、今にも悪役じみた哄笑を始めそうにしているのが分かる。りょうの視線についてあれこれ考えないことに慣れて来た圭にとっては、もはやどうでもいいところではあったが。
誠司が圭にねぎらいの声を掛ける。
「ふふ、圭。おつー」
「ああ」
「苦手っぽいねえ。うんまあ、人には向き不向きがあるって!」
「そう、だな。それにまあ、何だ。調子がちょっとね」
「うんうん、調子だよね! あるよねー。あ、ところでさー、やっぱその眼鏡って外して飛んだ方が…」
「クク、何あいつウケる。ダセえー」
誠司が話してる途中で、後ろから明らかな侮蔑の一言が入り込んだ。
圭はそちらを見ずに眼鏡を一度拭いて、掛け直す。
スルーして誠司に受け答えをするつもりだったのだが、むしろ誠司の方がその言葉を咎めた。
「うんー? 山下ー。お前だって別にすげえ出来るわけじゃあないだろー?」
「いやいや。そいつ、結野っつったっけ? 今のはもう、完全に”すげえ出来ない”じゃんよ。ウケるのが普通の反応じゃね?」
「人には向き不向きってのがあるんだって! そう、圭は眼鏡だから勉強ができるのだ」
「ん? ああ、誠司。俺勉強はもっと出来ないぞ」圭が表情のない声を差しはさむ。
「うえ?」
これは圭にとっても残念なことだったが、事実だった。
中学一年の途中から学校に通えない状態にあったため、通常の新高校生に比べると学習時間自体が明らかに足りていないのだ。
まともな時間を確保できるようになったのは中学の卒業式も間近な頃で、もう通常の入試には学力も日程も全く間に合っていなかった。
そこからまずは『学院』の編入試験合格を何とか目指すという流れになったが、範囲を大胆に絞り込んだ詰込み学習でもしかしたら形に出来るかどうか、という、運と力技に頼った手段しか残されてはいなかった。理科系と社会系科目の方がたまたま読書で覚えていた知識でショートカットできたのは、正直とても大きかったところだ。
それからは聖乃に毎日手伝ってもらいながら、睡眠もほとんど取らずに出題されそうな範囲を詰め込み続けた。結果的に『学院』でなく春日野の高校を受ける流れにはなってしまったが、まあ兎も角もどうにかこうにかで編入試験の合格を拾えたわけだ。
しかし、途中途中でぽっかりと未習になっている箇所はかなりの数あったし、今後勉強を積み重ねていくための基礎は未だにガタガタだと言わざるを得ない状態だった。
ちなみに聖乃はお山での勉強期間中に「元はすっごく頭よかったじゃん、大丈夫」と何度も励ましてくれたのだが、圭は、彼女には相当な時間だけでなく、気の方も大分使わせてしまったと今も申し訳なく思っていた。
圭の発言に、山下という生徒に限らずジャージ姿の集団の中に侮った感情が一層増える。
「あっははっ! ありゃりゃー。お前、そうかー。もういいとこゼロなの?」
山下の周囲からもさざめきのような笑いが起きる。
「やめとけって」
「いやだって誠司さあ。こいつ、いかにもクールっぽくしててだよ? そのくせ昨日も早速何か女子ときゃっきゃしてやがって、それが実は運チで勉強も…」
「”きゃっきゃ”、は、してえだろおが!!」
誠司が突然張り上げた声に、山下も圭も、ほかの男子生徒達も一様にキョトンとする。
「何か資格が必要なんかオイ! オイいいだろ、オイ! したくないってのか山下!」
「え? い……いや」
「きゃっきゃはしてえだろう!! 絶対に! 誰でも!」
「どう、だろう。そうかもしれんが……」
「そうなんだよ! 男はしたいんだ絶対に! だから!」
誠司はそこで息を止め、辺りに半呼吸分の静寂が訪れた。
「……そうだよ。だから、いいんだよ、圭。いや圭以外でも、俺や、そして山下。お前でも…」
自らの激高を収めるように誠治は息をゆっくり吐き、山下を真っ直ぐに見た。
「いいんだ。俺たちは女子ときゃっきゃして、いい」
そうして、ゆっくりと振り向いた誠司に優しい笑顔で圭は頷かれてしまい、内心で(……ええ……?)となりながらも、彼の強い想いを汲み取って頷き返すほかになかった。
女子たちはこちらを向いて騒めきながら、「また何かやってるよー、誠司が」などと笑いを含んだ声が聞こえてくる。
山下はもう毒気を抜かれてしまったようで、変に圭が目立つ状態は終わってくれたようだ。と言っても圭としては別に一回なってしまえば、あのままならあのままでも良かったところなのだが。
クラスの中の位置なら、結局どこかに収まるだけだ。2メートルとかをうっかり飛んで学校中の魔女にチェックを入れられる羽目さえ回避出来れば、どれだけ飛んでも飛ばなくても圭から見ると団子状態に近いとも言えた。
まあでも、兎も角誠司は変で、あと思ったより良い奴なのかもしれない。うまく説明はできないのだが、圭は、そう思ったのだった。
「どうしたー、お前ら」
踏切地点にいた体育教師が歩いて来た。
「いえ、何でもないっす」
「そうか。これで全員終わったんだが…、結野、お前どうする? このままじゃ記録残らないから、もっと下げてやってみるか」
圭は少し考えて顔を上げる。
「今って、何センチですか」
「このクラスの最高は、165だったな。まあ陸部のジャンプ競技がいなけりゃこんなもんだ」
「ちょっと、やってみます」
体育教師がきょとんとする。皆も同様だ。
「え…。ぶっはは! え? 結野が? 165を行く!? 110飛べなかったのに?」
大人しくなっていた山下が爆笑する。
誠司もこの流れに戸惑っているようだ。
「いや、圭? やめとけって」
「ああ、調子悪かったって言ったろ? さっきので掴めたかもしれない。まあでも、笑う準備だけしといてくれ」
圭はそう言って生徒の間を抜け出し、戸惑う体育教師に勝手に会釈をしてから助走を開始した。
――否、助走ではない。
さらに言えば圭は、走り幅跳びをするつもりもなかった。
改めて考えてみれば簡単なことだったのだ。
助走は”走る”のレベルを落とすのでなく、”歩く”の速度をほんの少々上げるだけ。これなら練習も何もいらなかった。見ていて「そんな助走で飛べるかよ」、でもこの際構わない。
そして踏み切り地点に来たら、その緩いスピードさえも一瞬、全て殺す。寧ろこのときに筋肉や神経を使って、0.2秒程度の間に運動エネルギーも慣性も0にする。周りが気付くか気付かないかくらいにするのがベストだが、これも、「なんか一瞬立ち止まっちゃってない?」、だって構わない。「バーからもまだ離れてるし」、これもOKだ。
そうすれば、圭の身体はある瞬間に、ただ片足立ちで停止したという状態になる。
ここまでくれば、あとは簡単だ。片足で”立ち幅跳び”をすればいい。遠慮なく『スッピン』の時の動きで、「あの辺りまで、このくらいの高さで飛ぶ」と定めて飛べばいい。
その手筈通りに歩いて、止まって、圭はバーの前に立った。
クッションの奥側を狙った放物線の軌道をイメージし、右足に力を込める。
どよめきが起こり、それが歓声と拍手に変わった。
体育が終わり、何人かの生徒に肩や背中を叩かれた後、山下という生徒が圭のところにやって来た。
「何だよお前、実力隠し系かよ」
そう気まずそうでもないが、口をとがらしながら言う。
「そういうわけでもないんだが…。自分でも運動できるのかできないのかよく分からないんだ」
「何だそれ」
「自分で自分の身体があんまり分かってないんじゃないかな。これからも、コケたり急にできたりするかもしれない。まあ……」
圭はワイシャツのボタンを留めながら言う。
「実力隠し系のつもりはないけど、『実力隠しの圭』って呼んでくれる分には、構わないよ」
「……ハッ。お前、一応冗談とかも言うんだな」
「言うかもね」
「ま、詰まんねえけど。うはは」
山下は少し力が抜けたように言ってから、自分のロッカーへと戻った。
圭が着替えて更衣室から教室に戻る途中で、前を誠司が一人歩いているのに気付いた。
心なしか背中が丸まってるようにも見える。
先程の件で誠司には一言礼を言っておきたかったので、丁度良いと圭は誠司に歩み寄った。
しかし、口を開きかけて、何と声を掛ければいいのか分からなくなり圭は逡巡する。
確かにお礼を言っておきたい気はするのだが、いったい圭は誠司からどういった点で助けてもらったんだったろうか。
「お、圭」
かなり近寄っていたので誠司が気配で振り向いて、圭に気付いた。
圭も誠司の笑みに、頷きを返す。
「その、誠司。さっきは……アレだな。まあ、ありがとう」
「いいってことよ。圭はまあ、クラス来ていきなりあの3人組と話してたからな。りっちのお隣説ももう出回りだしてんのかもしれないし」
「ああ、そうか。モテグループ? だったっけか」
「そうそ。まあ、またああいうのあったら、俺に言ってくれりゃいいから」
”ああいうの”というのが、”女子生徒とのきゃっきゃを揶揄されること”なのかと圭は一瞬勘繰る。「圭がきゃっきゃしても、いいだろうが!」と情熱的なフォローをされるのは、圭としてももう勘弁願いたいところなのだ。
しかしすぐにそれを内心で否定し、誠司はもっとシンプルな好意で、困ったら言え、と言ってくれているのだろうと判断しておいた。
「ああ。助かる。その、さっきのやつはなかなかの熱弁だったな」
「あー。あれな」
「魂の震えみたいな…。うん、すごいものだった」
圭がそう感想を伝えると、不意に誠司は歩くスピードを緩め、圭の方を向いた。
その表情を見て圭も歩を緩める。
「ん、どうした?」
「いや、さっきのはまあ……丁度タイムリーだったんでな。俺も熱くなった」
「タイムリー……?」
「いや、何ていうかな」
「ああ、もしかして、何か恋愛系の話か?」
「ア……グゥッ」
誠司が弱った武士のような、苦し気な声を上げる。
色々な感情が複雑に宿った目で見上げられ、圭は今更ながら、(しまった)と気付いて、弁解めいた言葉を続けた。
「大変、そうだな。しかしそういう話は……すまないが俺はちょっと不得手だと思うんだ…。ほら誰か、誠司の部活とかの」
「なあ。俺がこれを相談するにはさ、お前は、お前の魂は、信頼できるのかな」
「たま…、いや、誠司? 普通に喋ってくれ」
圭の口がヒク、と強張る。
今の誠司は、先程の熱弁の勢いか、それともそもそもの恋心のせいでずっと酩酊状態にあるのか、どうもヒロイックになりやすいらしい。
「いや、俺はきっとお前が信頼できる漢だと思う。今の俺には分かる」
「そうか? 男。俺が、そうなのか」
何となく漢字が違っていそうで圭は戸惑う。
この”恋愛相談”からは既に逃げるのは叶わなそうな流れを感じ始めていた。
「俺はな……そう。まずはヤンキーっぽいのが好きだ」
「そう、か」
「ヤンキー。いや、ギャル? まあそこら辺の範囲だ。説明できないが、好き。グッと来る」
「ああ、うん」
「そしてな? ある、そういう女と最近話をしててな。うちの部ってほら、女子多い高校だからまあ弱小なんだが…。弱小ゆえに何と俺が次の土曜の練習試合でスタメン出場することになっちまってな? 中学の時なんかは部員多くてそんな高待遇はなかった。で、俺は、嬉しくなって、それをその子に自慢したんだ」
「ああ。でも実際にそれは、すごいんじゃないか?」
「うん。うむ、そうかもな。へへへ」
誠司は野球部だった。
圭は野球には詳しくはないながら、いくら部員数が少ない弱い高校であっても、野球部で1年の五月にレギュラー起用されるとは、それは自慢してもいいんじゃないか、と思う。勿論練習試合だから動きを確かめるとかそういった目的もあるのだろうが。
「でな、圭。ここからなんだが、そしたら、その子がな? 試合、見に行くよって言うんだ」
「へえ。いいね。見てもらえよ」
「いや、簡単に言うなよ。俺はずっとモテない方の野球部だったんだ。教室でもお笑い担当なだけで、今まで、そういうのは全く、本当にアレなんだ」
「そうか。まあ、俺だって本当にアレだよ」
「グッ。そうなの?」
誠司が戦局が絶望的な武士みたいに呻く。
「じゃあ今最弱同士で話してる訳か」
「そうだろうな」
実際のところ圭はこういう話に関して気が利いていて有用な助言など思いつきもしないので、思ったままのことを伝える。
「兎に角頑張って活躍して、それを見てもらえるといいな」
「そう!! でも、うちのチームはそもそも強くない。あと俺も別段上手くない。だから、野球少年としては終わってる本音を正直に言っちまうとだな。チームは負けてもいいが、俺だけでも活躍したいんだ」
「ほんとに正直だな」
しかし、圭から見ると誠司は体のバランスも、歩いてるときの体移動を見ても中々動ける口に見えるんだが、と圭は考える。
先ほどの高跳びでも後半まで残っていたはずだ。
野球はろくに見たことがないのだが、そう簡単な話でもないということだろうか。
「ところで圭、お前、相手は誰だと思う?」
「あ、俺も知ってる子なのか?」
「…そう、クラスだ」
まだ女子生徒のことを覚えていないが、自分が分かる範囲で”ヤンキー”と言えば、と圭は思い起こす。
すぐに、椅子をブラブラと揺すりながら、こちらを睨みあげている姿がフラッシュバックした。
「ああ分かった。茜りょう、か?」
「へ?」
誠司がきょとんとする。
「いや、あの子はたまに言葉遣いは男っぽいけど、普通に可愛い普通の子だろ」
「え? そう、なのか?」
誠司の印象は圭と違って、りょうはほかのクラスメートに対しては魔力の塊を投げつけるタイプではないらしかった。
言われてみると、圭にとっては自分がいる場所では必ず自分のことを睨みつけてくる女生徒だったが、翻せば自分がいないときの普段のりょうのことをまだ見ていないということだった。
「ほら、美鈴だよ」
「美鈴…。ああ、そういえば」
圭の目の前に座ってる女生徒だった。ヤンキーやギャルの定義がいまいち分からないが、髪はクラスの中で特に明るい色をしていた。
「席近いよな、俺ら。だから、圭には是非いいパスを今後も頼みたい」
「あー。ああ、心には留めとくよ。ただ、まったく役に立てない可能性が高いよ」
「まあ分かってくれてるだけでも、精神的には助かるからさ。こういうのは」
「うん。応援はしとく」
そして二人は教室にたどり着く。
特に何かしなければいけない訳ではないが、何となく教室に入るのに緊張する圭だった。
因みに圭自身は気付いていないところだが、実は春日野に来てからこれが初めての緊張だった。
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