第7話 蝋燭と月光


 『ムシクイガニ』の止めを『断崖』が刺し、公園の原状回復を終えてから圭たちが家に帰り着いたのは、夜9時を少し回った頃だった。


「結局、寝てたか。おい美織、寝るんなら自分の部屋で寝てくれ」


 居間に入った圭は大の字で寝ている美織の元に歩いて行き、アイマスク代わりに頭の上半分を覆っていた着ぐるみ狸の鼻を摘まんで持ち上げた。


「ふあ? ああ、圭君、おっかえりー。どうだった、収穫は」

「ん…。まあ」

「まあ?」

「まあ、は、まあだよ。こちらでもお山と同じように戦うことはできたし、蟲も一匹倒してきた」

「ふーん。どんなんいたのー」


 圭は寝たままの美織の鼻先に、人差し指の先っぽ程度の大きさの石を出した。

 石は赤銅色の奥に行くほど色が濃くなっていて、磨かれたような光沢を放っていた。


「『断崖』によると、『ムシクイガニ』って奴だ」

「カニさんかあ。石が出るってことはなかなかだね。これなら両手いっぱいより、大きいかにゃ」

「ああ、4メートルぐらいだったな。外の『溜まり』となるとあんなのが普通に混ざり込んでるのか」

「へええ4メートル。悪さし出すお年頃だねー。どうだろうねえ。ここにはなんか、いるんかもねー」

「なんかって?」

「いやー。さあー?」


 美織は別段深刻な話でもないように圭のことを見上げながら、へへへーと脱力した笑いを付け足した。圭はその笑った口の端に付いている、涎が乾いた跡をすがめた目で見やる。


 美織は、外見だけでいえば冷涼な顔立ちと透き通った肌、均整の取れたプロポーションを持つ、テレビの中でさえなかなか見られないような美女とも言えたが、圭にしてみるとこういう残念な部分しか物心ついた時分から見ていないので、そのルックスに見合うような印象を与えてもらったことは一度もなかった。


「ところで美織。こっちに、蝋燭を持って来てたりしないか?」

「蝋燭ー?」

「ああ、一本、二本でも。ないならないで、まあいいんだが……」


 圭の言葉に、大の字の美織がにっかりと笑う。


「んーふっふー」


 それから粘体のようにでろでろと音がしそうな感じで起き上がり、廊下へと消えていった。

 圭はそれを口を小さく開けて見送っていたが、階段を上っていく音が消えると、そのまま座布団に座って座卓に携帯と『ムシクイガニ』の魔石とを置いた。

 座卓の上で、ちりりん、と鈴の音が響く。


「……何だよ」


 『断崖』は返事をしないで、まるでストラップのようにそこに転がっている。

 それを見ているうち圭は何故だかからかわれているような気になって、少し憮然とした表情をとった。


 圭にとって、今しがた『ムシクイガニ』と戦った感触では、『お山』と比べても魔法効力や自身の動きについて顕著な差は感じられなかった。

 地に満ちている”力”の量は違うはずなのだが、魔士としてその辺りが大味な圭にとっては細かい判別がつかない範疇に入るらしい。

 春日野町でその点の憂慮が不要と分かっただけでも、今日の収穫としては十分と言えた。


 ただその確認の中で、むしろ、圭のこの”大味”という部分がどうもこのままでは不安要因として足を引っ張りかねない、ということを圭は感じ始めていた。

 今日一日にしても、自分で必要な時に必要な情報を集められず、必要な時に必要な感知を、または魔法を使えないことがあった。

 『断崖』に耳の痛いことを言われたのも一度ではない。


 ――だから、蝋燭なのだ。


 そんな圭の殊勝な考えは、


 ゴッゴッゴッゴッゴゴバババババダラララララ!!


 という怪音によって打ち切られる。


「はあい、どうぞー!」


 何の音かも分からずに圭は早足で廊下に出た。音の原因は分からないが、また家が散らかった予感しかしない。


 と、圭の前の薄暗い廊下に、階段に、玄関にと、太い乳白色の蝋燭が無数に散乱し、その上に蓋の開いた大きな段ボールが無造作に転がっているのが見えた。

 階段の上には、箱を投げ落としたときのままなのか万歳状態の美織が逆光で立っている。


「こ、れは……」

「蝋燭ー! 『お山』の倉庫にねえ、あった!」

「何で、こんな……」

「重いから! もう、重くって今ねえ、えいって!」

「いや、お山で、困ってるんじゃ……。しかも美織、こんなん持って来といて、服は……」

「もうー、お礼はいいってば! 圭君頑張ってねえ!! 美織ちゃんは寝る!」


 そう言い残してから、逆光の万歳女は階上から見えなくなった。


「……あり…がとう………?」


 圭は千本ほどにもありそうな蝋燭が散らばった光景を、生まれたてのようになって呆然と見ていた。実際、こういう光景は初めて見たのだ。




 部屋着に着替えた圭は薄い座布団の上に正座してから、小皿の上に一本の蝋燭を乗せる。

 ほとんどがらんどうの部屋の中には、外からの月明かりだけが差し込んでいた。

 十五畳という広すぎる板敷きの部屋の真ん中には『紅仙山』の居室から持って来た小さなちゃぶ台がひとつ、ぽつんと不自然なバランスで置いてあり、圭はその前に座っていた。


 部屋にはあとは小さな文机と、隅の方に畳まれた布団。

 ドアのそばには二つの大きなダンボール箱があって、これには蝋燭がパンパンに入っていた。

 それだけだ。あとは寂しげな空間が広がっている。


 小皿の横に置いたスマホのボリュームボタンを静かに絞っていく。スマホには、今はストラップが付いていなかった。


 それからしばらく無音が続いた後、部屋の中にと、て、て、て、と二足の足音が小さく響いた。

 その足音が圭の後ろを行ったり来たりした後で、ぼすん、と部屋の隅の布団から音がして、再び、しん、と音が止む。


 圭はそのまま、蝋燭を見つめている。

 

 ふた呼吸程の静寂の後、その蝋燭に、ふ、と火が点いた。

 

「おっとぉ! 火が点くようじゃあ、まだまだじゃな」


 蝋燭の火は徐々に絞られていき、豆粒ほどの大きさをしばらく保っていたかと思うと、白い煙を残して消えた。


「あは、そう、それを、”屁”、と言うそうじゃな。はっはは! ”屁”が出おった」


 圭は一度目をつむって眼鏡に手をやり、再び開けてから蝋燭の芯を見つめる。

 じ、じ、じりと芯が小さな小さな音を立て始める。


「点かすなよぉ、点かすなよぉ……。ああ! ほれ点いた!」

「うるさいぞ、『断崖』」


 圭はそう言って布団の上にいる『断崖』を振り向いた。


 今は『断崖の主』は、圭の布団の上で人型の姿をとっていた。


 長いウェーブのかかった赤髪で、年の頃は二十歳ぐらいの、妖艶な女性だった。気怠そうにも見える緩く下がった目が特徴的で、圭の学校指定のワイシャツ一枚にその肉感的な肢体を押し込めながら、圭と蝋燭の方を見て微笑んでいる。

 退屈しのぎをしている余裕の笑みにも見えるし、蠱惑的で艶然とした笑みにも見える、不思議な雰囲気を持った女性だった。


 蝋燭の炎が揺らめくと、半跏思惟像みたいに片膝を上げて座る『断崖』の影が、後ろの壁面で大きくたわむ。


 『断崖』と影とが顎をしゃくった。


「ほれ、早く続けぬか」


 圭はまた蝋燭の方を向きながら「冷やかしなら、黙っててくれ。ただもし助言なら、今は歓迎だ」と少し口惜しげに返した。

 クク、と口の中での笑いが届く。


「美織はなんだかんだと考えてそれを持ってきやったのかもしれんがのう。儂は狸じゃから、面倒見などというものはない。人をからかってやれるぐらいがせいぜいよ」

「そう言いながら手伝ってくれる流れにでも、期待しとくよ」

「ふん。儂がそんな甘ちゃんに見えるか? お主は知らんかもしれんがの、狸は子狐を千尋の谷にはたき落としてから親狐を蹴り落とすと言うてな」

「狐が嫌いなだけじゃないか」

「阿保め、そんな安直で単簡な話があるものか阿保。二度と儂に狐の話をするな」

「……嫌いなんじゃないか」


 自分で狐を出しておいてひどい話だ。

 『断崖』は自分の大きな尻尾をビーズクッション代わりにして寄りかかっていたが、その先の方がぼさり、と布団を叩いた。


「ところでお前、さっきから何で人型になってるんだ?」

「ん? この屋敷は、美織の仕掛けのお陰で”力”を気にする必要もないからな。儂は色々と化けてはみても、これ、この人型か、狸の姿かが正しいあり様よ。あとはそうじゃな、戦装束もあるがの」

「ああ、あの赤い毛布みたいなやつか」

「毛布……。ま、ぬくくはあるが」


 圭が蝋燭の火を念じて消すと、部屋は再び月明かりに戻る。


「で? そもそも、何を作ってるんじゃ」

「作る? ああ、いや、最初は『燃ヱズ』をな」

「ふむ。芯だけ炙るあれか。そんな悠長なことを言わずに、『楼組(ろうぐみ)』もやれ。順序を律儀に守って意味があるのは童(わっぱ)だけじゃ」

「そう、なのか?」


 いきなり複合技などまともに出来るとも思えなかったが、難易度が高いものに挑戦した方が成長は早いのかもしれない。結局自分がもうアドバイスをしてくれていることに、『断崖』は気付いているのかいないのか。兎も角圭はその言葉に従ってみることにした。


「じゃあ……本堂か、御座(みくら)でも作ってみるかな」

「ここにせい」

「ここ?」

「この屋敷に”力”を這わせて形を捉え、そのままその蝋に写し取ってみせろ。全部じゃ。全部を一遍に、じゃ。ククク」

「……」

「最初は外観だけでもいいがな。ま、木和なら中どころか、動く人まで作りよる」

「……」


 外観だけでもいいなどと簡単に言ってくれるな、と圭は思う。

 この家の構造を把握するには基盤系の座標探索を点でなく”面”で行うということだろうが、それだけでも十分今の圭の手に余る。


 つまりはこういうことだ。

 まずは圭がやろうとしていた『燃ヱズ』。蝋燭には火を付けず、しかし高温を保って芯を焦がしていき、その熱で周りの蝋を徐々に溶かす。運動エネルギーをただ加速させていって放出するだけなら楽なのだが、そうではなく熱エネルギーに変換されるある一点を維持し続ける。そうしてあたかも蝋燭が自然と自ら溶けていってるように操ることで、魔力操作の精緻さを鍛える練習方法だ。

 圭はそれだけをまず習得しようとしていたが、それにこの家を覆うように座標系の極小魔力を這わせて形状を同時進行で捉えてみせて、更にその捉えた感覚を溶けた蝋へと還元し屋敷のミニチュア版を形作ってみせろ、と。

 大きな操作と細やかな操作が入り混じった、その三つを同時に。


 お山で魔力操作を鍛える方法のうち、かなりの上級者が行うものとして聞いたことはあったが、初心者未満とも言える圭にはそのどれか一つさえまともにできるとは思えなかった。


「あとな、圭。それ、その、”ぼりゅうむ”と言ったか。それを…そうじゃな、三割まで上げよ」


『断崖』の提示した新たな条件を聞いて、それはさすがに、と圭が驚く。

 限界まで絞っていた今の状態でも魔力操作はこのふらつき具合だったのだ。


「……お前なあ。花火みたいに燃え上がるのを笑いたいだけじゃないのか」

「さあのう? どう思う」


 断崖の言葉に、圭はしばらく蝋燭の先を見つめて考える。

 そして、暗がりの中、蝋燭の横に置かれた携帯にゆっくりと手を伸ばした。


「やってはみるが、な。お前ももらい火には気をつけとけ。あと……笑うなよ」

「クッハハ。それは約束できんに決まっておろう?」



 それからしばらく『断崖』は、圭が燃え上がらせる蝋燭をきゃらきゃらと笑って見守っていたが、何度目かの火炎が消えて月明かりに戻った部屋の中、不意に『紅仙山』で木和と最後に会話を交わしたときのことを思い出した。

 

「下手をすれば圭は、魔女か『只人』を殺すぞ」 


 低く落とした声音で言った『断崖』に、木和は微笑みながらこう返したのだ。


「……『只人』であれば、止めてください。それがもし、出来るのなら」



 それは恐らく、魔法に関係しない完全な部外者なら巻き込まないでやってくれ、という言葉。――いや、願望か。

 その時たまたまそばにいた見ず知らずの人を圭から守る言葉であり、圭を守るための言葉とは思えなかった。いつものように微笑んでいた木和だが、『断崖』からは目を逸らし、珍しいことに心持ち俯いてさえいた。

 丁度、今ぐらいに暗い、寺の縁台での話だ。


 通常、切った張ったの話が魔法を操る者同士のことであれば、たとえ最悪の結果になろうとも『大法院』が現実的な量刑からは守ってくれる可能性はあるものだ。事情次第ではあるが、戦争状態や私刑止む無しといった話がこの界隈では多分にある。

 しかし、圭の場合は『大法院』もそうは動かないはずだった。大きな、純粋な”リスク”として、魔法社会から圭本人という不確実性を取り除く動きをとることになるだろう。


 つまり、圭が引き起こしてもおかしくない事故を実際に起こしてしまった場合、彼の命運はそこで尽きてしまうはずなのだ。

 引いては木和は『魔力体融解(メルト・ダウン)』を引き起こす可能性さえも考慮しているのかもしれない。そのために、『お山』を出されたのかもしれない。いや、そうなった場合は『お山』の責任も逃れられるものでもないが……。しかし、山自体消えてしまうよりは……。

 と、木和の本意については知らぬ『断崖』だが、考え始めると悪い方にはいくらでも考えられた。


(こやつが山から見捨てられた、とは思いたくないがの)


 何の主従関係もなく、単に生まれたときから互いに知っているというだけの間柄だったが、そればかりは『断崖』にとっても気の滅入る想像だった。

 そんな『断崖』の物憂げな顔を、また花火に似た光が明るく照らし出した。


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