第4話

 窓を開けても、吹き込んでくるのは生温かい風ばかり。そろそろ腕まくりのワイシャツが増えた予備校の教室で、俺は浮かんでは消える思考と格闘していた。

 今日も最上は、俺のことを待っているのだろうか。昨日あんなに冷たく突き放してしまった後で、それでもあいつは俺を待っているんだろうか。

 というか俺は、昨日の今日であいつに会いたいなどと、思っているのか。冷静になって考えれば、俺はからかわれていただけかもしれないんだぞ。腹は立つはずなのに、俺の方が、あんな態度をとってしまって申し訳が立たないから、あいつの顔見れない、とか、思ってもいる。

 理不尽だな、なんか。

 人間の思考がこんなに勝手で整合性がないなんて、知らなかった。

 授業後に外に出ると、いつものところに最上の姿はなかった。

 やっぱり、といえば、やっぱり、である。それなのに、

 心のどこかが、ズキズキと痛むのは、なんでだろう。

 寂しい、とか、思っているのだろうか。

 この場から動けずに佇んで、あいつのことちょっと待ってみているのはなんでだろう。

 バカだな、俺。待ってたって、来る訳、ないじゃん。

 自分の愚かさに、口元に薄い笑みが浮かんだ気がして、足元に落とした視線を、もう一度上げた時。

 コンビニのレジ袋を提げて、こちらに歩いてくる人影――最上――。

「はあ……よかった、まだいた。買って来る間に、帰ってるかも、と思ったから」

俺が何も答えないのにも構わず、最上は袋の中身を差し出す。

 アイス。いちご練乳の。

 なんでそんなかわいらしいものチョイスしたんだよ。

 ていうか、なんでそんないつも通りなんだよ。

 あ、でも。

 アイスの袋を破りながら、その可能性に思い当たる。

 寧ろ、いつも通りじゃないのかも。このアイスは、こいつなりの俺への気遣いだったりするのかな。

 俺のはいちご練乳だけど、隣で頬張ってるこいつのは何のアイスだろう。

 一瞬考えたけど、どうでもいいと思ってしまった。最上の気遣いに気付いて、逆にまた腹が立ったのかもしれない。でも、こういう思考の整合性のなさには、俺はもう戸惑わなかった。

「なあ、そっち、一口くれよ」

俺が新たな一口を口に含んだところで最上が言ってきたので、どうぞと言う代わりに黙って左手で持ったいちご練乳を差し出した。

「違う」

左手を押し戻されて、瞬間、最上の舌に唇を強引にこじ開けられた。

「んっ……ふ……」

あー、こいつが食べていたのは、普通にガリガリ君とかだ、なんて、頭を過ったのも束の間、いちご練乳は互いの舌の上で転がされ、その熱でどろどろに溶けていく。周りが静かだからか、音がやけに頭の中に響く。

 甘い、息できない、苦しい、甘い、やばい何も考えられない。

 俺も俺だ。まともに必死になって応えて、

「なんでっ……」

最上の唇がピンク色の糸を引いてやっと離れた瞬間、俺は乱された呼吸の合間に呟いた。

 そうだよ。なんでこんなことできるんだよ。お前は昨日、俺に逃げ出されてるんだぞ。

 最上は何も答えない。答えない代わりに、二度目のキスが俺の唇を塞いだ。こいつ頭おかしいんじゃねえのと思っていたのに、俺は口を薄く開いてしまう。侵入ってきた舌は、何ならさっきより執拗だ。その舌が俺の歯列をなぞり、反射的にさすがにやばい、と思う。

「は……も、がみ……もう、アイス、ない、から……」

「ん、何?ふっ」

キスの隙間からやっとの思いで制止したけど、こいつが言うことを聞くわけもない。

 最上の舌がまた侵入ってきた、のみならず、

(え、手……指……?)

いつの間にか取られた右手の指に、最上の指が絡められていた。

「んん……も、がみ、そっちは、はっ……」

右手。人の身体に触れることのできない。

 こいつ、指のこと、知ってるはずなのに、なんで――。

「ん、いた、あっ……」

 痛い。痛い、のに。

 なんでこんなことするんだよ。お前には人の心ってものがないのかよ。許しがたいほどに怒りも込み上げている、のに。

 指先から伝わった痺れは全身を駆け巡って。頭、ガンガンして、前後を失いかけるまでにぼうっとするのは、いつもの病的な痛みのせいか、それとも今まで知らなかった快楽によるものか。もはや色々入り混じって、分からなかった。

 夜闇と、街灯と、汗と。甘い痛みの中に、沈んでいく。

 やっとのことで彼を振りほどいて逃げ去る時に、いつの間にか地面に落とされすっかり元の形を失ったいちご練乳を踏んづけた。


 校内はそろそろ生徒会選挙の話題で盛り上がり始めた。俺にしろ最上にしろ、自ら意思表示をした記憶はないのだが、皆の中では最上と俺で生徒会長、副会長という図がもう出来上がっているようだ。

 最上のことがなくても、俺は生徒会副会長に立候補してただろう。自分の意志というより、周りからそう期待されていることが分かっているから。でも今は——

 目の前で有り得ないほどでっかいかき氷を食べ進める最上に目をやる。頬杖をついた俺は、もうとっくにギブアップしている。

 俺は選挙のことについて特に最上に尋ねるでもない。

 ……ってかなんで、俺と二人でこんなカラフルかき氷なんだよ。インスタ女子じゃあるまいし。

 それにしたって、オバケのようなこのかき氷といい、この前のいちご練乳といい、こいつはいちいちチョイスがかわいらしいんだよな。次期生徒会長候補、学年一の顔面を誇る最上一様のこんなかわいい趣味、一体どれだけの人間が知っているんだろうな。これはギャップ萌えってやつじゃないか?

 何これ。教えたくない。他の人には。

 ……いや何マウント取ろうとしてんだ俺。

 どくせん、よく……?

「お前さ、こういうところには女の子と来たらいいだろ。誘える相手なんて、どうせ山ほどいるんだろうからさ」

頭に浮かんだ三文字熟語を振り払おうとしたら、棘のある言い方にしかならない。

 やっぱり俺には最上がもつ余裕の千分の一もない。そもそもこんな店に来るなんてこと、最上には抵抗もなく出来るんだろうけど、俺には今日のように最上に引きずり出されでもしなければ絶対に無理だった。

「そうだよな。女の子と来たらよかったよな」

あ。

 いや、俺が言った通りのことを最上は言ってるんだけど。自分で言っといて、軽く傷ついてるんじゃねえよ。

「ああ、この前の模試の結果、もうもらったか?」

ぎくしゃくした会話の軌道修正を図りたくて、別の話題を振る。

「あ?あー」

最上は自分の横に置いたカバンの中をゴソゴソと探って、一枚の紙を取り出す。前のめりになった俺に差し出すより先に、両手で顔の前に広げている。こいつ、もらったままよく見もしないで、多分今初めてちゃんと見ているな。これだから生まれながらの天才は。自分の成績なんて、大して気にしたこともないんだろう。

「なんだよ今持ってんのかよ~。ちょっと、見せろ見せろ」

俺はおどけた振りをして紙を覗き込み、取り上げる。

 本当は見るのが怖い癖に。

 最上に取り返される前に急いで目を動かして見たのは、「志望校合格可能性判定」の欄。

「は、なんだよっ、お前のは」

「いや俺今持ってない。家家」

本当は持ってるんだけどさ。

 ……次の模試では、俺も最上と同じところを、第一志望に書いてもいいかなあ。

 本当は凡人の俺には、おこがましいようなところかもしれないけど。いや、能力的にそうしてこなければならなかっただけかもしれないけど、俺は少なくとも最上よりは努力型の人間だ。頑張ることは苦じゃない。時間だって1年半ある。

 俺は何も言わずに最上に紙を突き返すと、また頬杖をついて最上の食べている様子を眺める。

「何」

「べーつにぃ。よくそんな生クリームやらあんこやら、大量に食えるな」

「何ならこれ、氷自体にも味ついてるぞ」

「うへぇ」

 あれから俺たちが少しも変わらないなんてことはあるわけない。でも、その微妙な変化にお互い気付かない振りをして、今まで通りの関係のままでいようとしている。無理矢理。何か変わったことがあるとすれば、こうして二人で寄り道して遊ぶ機会が増えたことくらいか。

 さっきの志望校の話題は俺からすれば他愛無くなかったけど、こうして他愛無い話をして時間を潰すような何気ない日々。互いに大事な核心には触れないようにしながら、壊さないように、壊さないようにって気を付けながら。この何気なさはだから謂わば作り物だけど、居心地の悪さは少しもなくて。

 こんな毎日がずっと続けばいいなんて願うのは、柄にもなさ過ぎて、吐き気すらするが。今はそれは、甘過ぎたインスタ映えかき氷のせいにしておく。

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