黒い稲妻

 一方、複雑になりつつある会話劇に集中力をなくしていた野沢は、アマ公にお菓子をあげていた。

 野沢の耳元に顔を近づけたアマ公が、ひそひそ声で尋ねる。

「なあなあ明人。これはなんつうお菓子なん?」

「ブラックサンダー。直訳すると黒い稲妻」

「黒い、稲妻……! かっこええなあ!」

 野沢がテラ公と交わした約束は、美味しいお菓子をあげることであった。好奇心旺盛なテラ公は現代の文化に広く興味を持っていて、世界のお菓子文化もその一つである。

「ちなみに白いブラックサンダーというのもある」

「白くて黒い稲妻? 縞模様の稲妻っつうことか? なんと面妖な……」

「うぇっほん!」

 アマネの咳払いを聞き、颯爽と初期位置に戻る二人。

 アマネがじとりとした目つきで野沢を睨む。目を合わせたら絡まれることを分かっている野沢は、洞窟の天井から視線を外さないことに徹した。アマ公も同じ心境のようで、一つのブラックサンダーを両手で持ち、ちまちまと食べることに徹している。

 やがて前に向き直り、首をかしげるアマネ。両腕は依然として組んだままだ。

 会話が長らく中断されたことで、女の――玉依姫命のすすり泣く声が少しだけ大きくなったのを野沢は感じた。これから最悪十時間も声を聞き続けるのかと思うと、気が狂いそうになる空木の気持ちも少し分かった気がした。

「ああ、そうか。仏教公伝が成された年は、五百五十二年ではなく五百三十八年が後に有力とされたんだったな」

「その通りです」

 アマネが再び振り返り、空木を見やる。

「先に確認ですが。私の仮説に訂正を加えるということは、空木さんの知る真実を話してくれる気になったと受け取っても良いんですよね?」

 彼はゆっくりと首肯した。

「……はい。仮説を聞いていて思ったんです。アマネさんの言う通り、僕の知る真実を話すことで……皆さんと共有することで、向き合う覚悟が出来るかもしれないと」

 空木は伏し目がちに地面を見つめた。

「まず初めに言っておきます。玉依姫命を死に追いやったのは他でもありません。玉依姫命の家系である空木家です」

「なんだって?」と、衝撃的な発言にさすがの野沢も天井から目を外して、空木を見やる。

 アマネはまたまた前に向き直り、

「なるほど。そうきたか」

 と、ひとりごちた。

「では僕の身に起こった出来事からお話しします。……皆さんは龍口明神社で六十年ごとに行われる還暦巳年祭というものはご存知ですか?」

 空木の質問に野沢は首を横に振り、アマネは縦に振った。

「ああ。この時に限り、龍口明神社に祀られた五頭龍大神の御神体が御開帳されて、弁財天と共に江島神社の中津宮に安置されるという行事だろう?」

「正解です。直近だと平成元年に行われました。それから五年後に僕が生まれたわけですが……丁度五歳になった頃でしょうか。岩屋から玉依姫命の泣き声が聞こえてきました。耳の奥底に響いてくる名も知らない女性の泣き声を、初めて聞いた僕は号泣しました。その時の首筋から背中へと断続的に伝わる悪寒の波を今でも鮮明に覚えています。

 僕の元に急いで駆けつけ、なだめてくれた両親に尋ねても“気のせい”“忘れなさい”の二言しか返してくれませんでした。

 それから毎日毎日毎日毎日。彼女の泣き声が僕を呪うかのように聞こえてきました。最初は深夜一時から一時間だけ小さな声で響いていたものが……次第に二時間、三時間と長くなり、小さかった声も大きくなり。終いには二十四時間ずっと聞こえるようになり、声も自分の耳に口をつけて泣き続けられているかと思うほど鮮明なものに変わっていました」

 と、ここで言葉が途切れる。彼は当時のことを思い出し、苦しんでいるようだった。

「無理はしなくていいですよ。少し休もうか」

 アマネの気遣いに「いえ、大丈夫です。言います」と、表情を引き締めた。

「僕が八歳になった……平成十三年。ついに僕は発狂しました。自身の髪と顔と耳をズタズタになるまで引っ掻き続けました。耳に至っては引きちぎる始末。幸いにも手術が成功してくっつきましたが……。僕がこの髪型をしているのも、醜い耳を隠すためなんです」

 アマネが「あっ」と顔を上げる。

「確か平成十三年には、六十年毎の行事とは別に『御鎮座千四百五十年祭』というのを行っていたな。まさかとは思うが、発狂した空木さんの為に行ったとか?」

「……はい。これらの行事は、玉依姫命を鎮めるためのものなんです。私の発狂をキッカケに、急遽行うことにしたそうです。祭りを行った後は、これまでの泣き声が嘘だったかのように、ピタリと声が止みました。

 ……あれから十七年。二十五歳になった今になって、再び声が聞こえるようになりました。また日に日に耳に響く声が、長く……大きくなっていくことに兢々とした僕は、原因を探るため、とあるアテにすがりました。それは空木家代々に伝わってきた門外不出の伝書です。

 僕が発狂した時、時刻は深夜だったため、お医者さんはすぐには来れませんでした。僕は応急手当され、神棚のある奥座敷に面した表座敷に寝かされました。

 その時、奥座敷から祖母が僕の無事を祈る声がかすかに聞こえたので、襖をこっそり開けてみたんです。

 すると部屋中の畳がひっくり返されている光景が飛び込んできました。祖母は煤けた書物を床下から取り出すと、目の前に置きました。次に手を突いたかと思えば、畳に血が滲むほど額をこすりつけて、延々と書物に対して謝罪をしていました。

 祖母の常軌を逸した姿を振り返り、あの書物には空木家に関する重要なことが書かれていると直感した僕は、その時の祖母と同じように奥座敷の畳をひっくり返しました。書物は父の代になってから、さして大事に扱われることもなくなったようで、箱に入れられているわけでもなく、床下に裸の状態でぞんざいに置かれていました。

 書物を手にした僕は、そこに記された言葉を現代語に訳す作業に入りました。次第に明らかになっていく空木家の正体に、陰鬱とした思いが立ち込めました。――そして」

 空木の声が遠くなっていく事に気付いた三人は振り返り、彼が立ち止まっていることを知った。皆も同じように歩みを止めて空木に視線を注ぐ。

「そして……僕たち空木家が玉依姫命の家系であること、玉依姫命を洞窟の奥底へと置き去りにしたことが分かりました。松明の灯りしか無かった時代、漆黒の闇の中に一人取り残される苦しみは如何ほどでしょうか。……彼女は今も僕たち空木の者を心底恨み、呪い殺したい思いでいるに違いません」

 玉依姫命の声が延々と洞窟内にこだましている。次第に参ってきて顔をしかめる野沢とは違い、アマネは涼しい顔で空木に声をかける。

「伝書に書かれた西暦五百三十八年からの、正しい歴史を聞かせてもらいますか」

 空木は「わかりました」と一言発して、胸に手を置いた。一度大きく空気を吸って、すっと吐く。

「五頭龍が現れたのは、五百五十二年ではなく五百三十八年でした。アマネさんが述べた仮説通りに事は運び、大和朝廷にいる欽明天皇にも話しが通じて仏教公伝の流れとなります。

 仮説と違うのはここからです。慎重で狡猾な長者は五頭龍の力を欲しますが、時期ではないと判断して安全かつ確実に五頭龍を殺害する方法を研究することにしました。

 長者は五頭龍の子を欲しておらず、自らが神になるための力を得んとしていました。そのため、玉依姫命は五頭龍を江ノ島に縛り付けておく純粋な人柱として送られます。色仕掛けというやつですね」

 野沢が「ハッ」と吐き捨てる。

「クソ野郎だな」

 彼の言葉に空木も頷く。

「長者は玉依姫命の血縁を岩屋守人と称して、彼女の見張り役に定めました。空木家は長者に多大なる恩がありました。さらに生活を脅かされる不安から断ることは出来ず、泣く泣く引き受けました。

 腰越の子供十六人を救う御心を持った心優しい五頭龍と、悲しい定めに縛られた玉依姫命が深い絆で結ばれるまで、時間はかかりませんでした。守り人となった空木家の男共も、仲睦まじく暮らす神様と血縁を傍で穏やかに見守る日々が続きました。その場にいる者の全員がこの瞬間を永遠のものに出来たらと願っていました。

 しかし。五百五十二の年……とうとう長者の研究が終わりを遂げ、五頭龍を手中に収めんと暴虐の限りを尽くします。

 まず長者は玉依姫命を含め、五頭龍以外の者は津村に戻ってくるよう命令を出しました。それに対し、玉依姫命は愛する神と離れることは出来ないと、長者に反抗する道を取りました。空木家の男共も彼女に協力する姿勢でしたが、長者は彼女らの反逆を知るやいなや、村に残した空木家の女子供を縄で拘束しました。

 長者は一日一人ずつ、四肢をじっくり火で炙って絶命させると宣言しました。……脅しではないと、実際に一人の女の子を焼殺したそうです。これを聞いた男共は玉依姫命に涙を流して詫びながら、腰越の子供達を連れて、津村へ戻ってしまいます。

 玉依姫命だけは最後まで頑として五頭龍のもとを離れようとはしませんでしたが、長者はこの状況も計算済みでした。一人の空木家の男を江ノ島へと駆り出し、洞窟内で眠る一柱と一人の寝込みを襲って、玉依姫命を攫いました。彼女は洞窟の奥深くへと連れ去られ、闇の中に放置されてしまいます。それも口と両手両足を縄で縛り上げられて。

 翌朝。五頭龍は長者が遣わした使者から、『玉依姫命を攫った。殺してほしくなければ津村の山まで来たるべし』と聞き、一目散に山へと向かいました。……ちなみにこの山は現代で言うところの龍口山です。江島縁起では、人々を守るために神通力を使い果たした五頭龍が、人を見守るために化けた山となっています。

 けれど、伝書に記されている内容は全くの別物。実は五世紀に日本へ伝来したのは仏教だけではありません。陰陽五行説――日本に陰陽道が生まれる思想が広まったのも仏教と同時期でした。長者は渡来人と結託し、五頭龍を使役するための呪術と退魔術を研究していたのです。

 長者は培った研究成果で、龍口山にやってきた五頭龍の呪縛に成功します。それは人の力を遥かに上回る五頭龍でも抜け出すことの出来ない非常に強力な術でした。

 ……この場面で。玉依姫命は龍口山ではなく、江ノ島にいると聞かされた五頭龍。彼は目から涙をぽろぽろと流し、彼女とはもう会えないのか。彼女の声を聞くことは叶わないのか。彼女の温もりと愛情をもう一度だけでも味わいたかったと嘆いて、天を裂かんばかりの咆哮で大地を揺らしました。……もしかすると、洞窟奥深くに放置された玉依姫命の耳にも届いたかもしれません」

 と、ここでアマネが唐突にうめき声を上げ、額から下を片手で覆った。

「泣いていいか」

 それに続いて、野沢が「人間のすることかよ」と片手を腰に当てて俯き、「人の風上にも置けんな」と、さすがのテラ公も腕を組んでしかめ面を披露した。

 空木はかすかに苦笑し、話の続きを述べる。

「五頭龍は長者を睨めつけて言いました。

 ここで果てる命ならば、私は山霊となって彼女を待とう。それが如何なる悠久の時となろうとも、愛した者を一人残して逝くわけにはいかない。彼女が笑顔でいられる場所を守ってやることこそ夫の努めだろう」

「神対応かよ! まあ神だけど!」

 アマネが言いながら身を翻し、皆に背を向けた。どうやら泣いているようだ。

 空木の話はまだ続く。

「五頭龍は言い終えるや否や、眩い光で身を包み、姿を消したそうです。長者は目的が達成出来ないと知ると、抜け殻のようになってしまい、家の中に閉じこもるようになりました。やがて息子に代を継ぎ、そのまま床に伏して生涯を終えたようです」

「マジで勝手な野郎だな」

 憤慨する野沢に空木が言う。

「伝書によると、長者はずる賢い反面で、温厚で聡明な一面を持ち合わせていたそうです。五頭龍の出現で欲に溺れてしまったのでしょう。……この先は皆さんの知る限りです。五頭龍を村民が、玉依姫命を欽明天皇が祀り、江島神社と龍口明神社の発祥となります」

 空木が息を吐き、改めて言葉を継ぐ。

「これが伝書に記された全てです」

「話してくれてありがとうございます」

 頬を涙で濡らしたアマネが静かに言った。

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