黄泉の国

 黄泉の国は魔の巣窟だった。

 門を抜けた先は、小高い丘。辺りは濃紫の霧で覆われ、視界がおぼつかない。二人はそこで一旦立ち止まり、黄泉の国を見下ろした。

 眼下では禍々しい奇形の怪物達が瘴気の霧の中で、その姿を見え隠れさせていた。その見た目も様々で、顔の右半分だけ組織が溶けて、骨が露わになっている男。下半身だけ蛇のような姿で、地をのたまう裸の女性。のそのそと動くヘドロのような物体から、プラズマのようにバチバチと音を立てている細長いナニカなど。元から人ではないような生物も蔓延っていることが伺えた。

「テラ公の言う通りだな。まさに魑魅魍魎」

「ふん。妖霊界も異形の者達が闊歩するという点では同じだったが、ここは漂う気が退廃的すぎる。吐きそうだぜ」

 言葉のあやではなく本当に吐きそうなのか、彼女は口元に片手を当てて気分悪そうにしていた。

 ここに在る何もかもがあべこべで、その何もかもが薄気味悪かった。

「しかし死者の世界といえど、ここは国だぜ? 監獄でも地獄でもない。ある程度の秩序はありそうなもんだが」

 そう言ってから、彼女は頭をぽりぽりと掻いた。

 辺りに漂う空気感。友人町地下で味わった瘴気という名の邪悪なものに包み込まれる感覚。やはりその濃度がとてつもなく濃い。

 いくら耐性があろうとも、この濃さには危ういものを感じた。心が冷たい液体に満たされていくような感覚。身体が、魂が――少しずつ冷えていく。

 唐突に、重苦しい叫び声が響き渡った。空間が震え、肌にバチバチと悪しき気がぶつかってくる。

「第三波ってところか。とっとと進むぞ!」

「そうだな!」

 二人は全力で丘を駆け下りた。瘴気の海の中を風の如く疾走する。アマネの言う通り、前方から死者の大群と天狗達がすぐに押し寄せてきた。

「私達の姿を捉えた者だけ相手しろ! 他の者を呼び寄せる前に、喉笛をかっきれ!」

 野沢が必死の形相でアマネの横に並び、短く叫ぶ。

「命を奪うのか!?」

「奪うもなにも、ハナから命持ってないだろうが! このアンポンタン!」

「そうだった! あと俺、喉笛を掻っ切る刃物とか持ってねえんだが。いつものギターだけで――」

 アマネは一瞬ムッとしたが、すぐさまクスっと笑って言った。

「ほんとにアッキーは、おバカだなあ! もういいから、私の後ろで黙ってなさい!」

「わかった!」

 いつもとは逆の光景である。

 ……が、野沢もバカではない。わざとである。

 アマネの父親代わりだった祖父が殺され、大天狗と出会い、国の抱える悪の組織を追い詰め、異世界に足を踏み入れたという事実。

 事態は時を追うごとに、残酷で壮絶になってきた。今の野沢が持ちうる経験と実力では太刀打ち出来ないほどに。戦闘面において、役立てる場面はほんの一握りしかないだろう。

 ――ヘタに動けば足を引っ張ることになる。アマネに迷惑をかけるわけにはいかない。

 それが野沢の至った考えだった。

 俺だからこそ出来ること……それはアマネを傍で支えること。一つのことを見据えるあまり、彼女の心が固まらないように。怒りの感情に囚われるあまり、彼女が誤った判断をしないように。俺は俺のままで在り続けよう。彼女が戻るべき日常の化身として努めよう。

 それが野沢の決意だった。

 本来であれば野沢もアマネと同様に腸が煮えくり返り、怒り狂っていた。当たり前だ。大切な相棒が――大切な女性が傷付き、悲しみに打ち震え、泣いているのだ。それを見てなお、修羅にならない男がいるだろうか。

 彼は今も、心の奥底で燃え盛る怒りの業火に、理性という名の蓋をかぶせて抑え込んでいる。全てはアマネのために。世界で一番大切な女性のために。

「流天(りゅうてん)爪(そう)!」

「なんだねその妙ちくりんな掛け声は」

 アマネが出くわした怪物の喉を掻っ切る瞬間に、野沢が叫んだ。掻っ切った本人がじとりとした目を彼に向ける。

「必殺技の名前だろ? バトル漫画とかでよくあるやつ」

「激しい動きの中で、そんな長台詞を発せるわけないだろう。んなもん漫画だけのフィクションだぜ」

 敵の目をかいくぐり、濃い霧の中を爆走しながらの会話である。

「大丈夫だ。お前が敵を倒す度、代わりに俺が叫んでやるから」

「面白そうだけど、敵に自分達の位置がバレるので、却下デスネ」

 これまたくすっと笑うアマネ。

 ――と、眼前に二人の人影が現れた。これまでの珍妙怪奇な姿ではない。片方は背中から翼を生やし、もう片方はおびたたしく伸びた髪を四方八方に散らかして宙に浮いていた。

「生まれて間もない小娘が、斯様なところに何の用だ」

 気配を察したのか、翼を生やした人影がこちらを振り返って言った。その声は紛れもなく、ボイスレコーダーで耳にした相模坊の声だった。

「彼奴らガお前ノ敵か?」

 宙に浮いていた人影が片手を持ち上げると――凍えるような冷気が辺りに漂い、周囲の霧がすぅっと晴れていった。

 相まみえるは今回の首謀者にして元凶の白峰相模坊と、おどろおどろしい様相の男。高貴な和服は赤黒い何かで染まり、伸び散らかした髪の至るところで蛆虫が蠢いていた。しかし青紫色の顔には傷が一つもなく、怪しい魅力を感じさせるほどの整った容姿で、そのちぐはぐさが逆に気味の悪さを際立たせていた。

「崇徳と聞いてまさかとは思ったが、黄泉の国にいるとはな」

 “崇徳上皇”。平将門と菅原道真に並び、『日本三大怨霊』として……あるいは酒呑童子、九尾の狐の玉藻前と並び、『日本三大悪妖怪』として恐れられている存在。あの野沢でさえもその名を知っているほどの有名な人物である。

 野沢は、隣に立つアマネの顔を見た。

 彼女はまるで獲物を前にした獣のような形相を浮かべていた。毛を逆立たせ、瞳孔をかっひらき、今にも取って喰わんばかりの殺気を放っている。怒りなどという感情はとうに通り越し、そこにあるのは憎しみと狂気だけだということが一目で分かった。

「お前、太郎坊の娘だろう。ああも愚鈍な父を持つと苦労するなあ? 拠点への強襲を許し、妻の一家をたやすく惨殺されてしまうなど、総大将の風上にも置けぬよなあ?」

「待てアマネ」

 今にも飛びかからんとするアマネを野沢が引き止める。

「相模坊! きさまぁああ!」

 堪えてきたものを吐き出すように、アマネは絶叫した。義父や使用人達との日々が脳裏に蘇り、感情を吐き出しているはずなのに、胸が苦しくなっていく。

「うわああああ! 離せ、明人! 殺すぞ! あいつは、あいつだけは!」

「アマネ!」

 双肩に両手を回し、渾身の力を込めてアマネをこちら側に向けさせる。向かい合う形となり、アマネが彼を見上げる。その顔は真っ赤で、両目には涙を浮かべていた。彼女は唇を強く噛みしめ、キッと野沢を睨んでいる。

「落ち着け」

 そっと彼女の両目から涙を拭う。肩越しから見える相模坊をちらと見ると、いやらしい笑みを浮かべていた。

「相模坊の野郎、やけに落ち着いてやがる。その挙げ句、お前を煽ってきやがった。既に手遅れなのか、それとも何か狙いがあるのか……。どちらにせよ冷静になれ、アマネ。ここで死んだら、それこそ殺された家族に顔向け出来ねえだろう。生きて帰るんだよ」

 天狗の娘は、ふいと目を逸らして口を尖らせた。

「冷静になったところで、戦う以外の選択肢なんてないだろう」

「様子を見る。お前は後ろに下がって聞いてろ。俺が行く」

「あ、おい」

 野沢はアマネの静止を耳にも留めず、妖怪と怪物の前に立ちはだかった。

「おい! 相模坊!」

「なんだい。“腰巾着”さん」

「なんだとこの野郎!?」

 ダメだった。

「ぶん殴る!」

 野沢は我慢の限界を超えた。抑え込んできた憎しみと怒りが大爆発を起こし、暴走する。溢れんばかりの激情に身体を突き動かされ、相模坊に突進する。しかし腐っても大天狗の位に組みする相模坊には、彼の全力は赤子がはいはいしてくるようなものだった。

「おらあ!」

 ガツン。野沢の拳はたやすく相模坊の頬を捉えた。しかし吹き飛ぶことはなく、殴られた方向に身を捻るだけ。それでもまさか命中するとは思っていなかった野沢は、呆気に取られて硬直する。

 奴は口元からたらりと赤いものを垂らし、ニィっと不気味な笑みを浮かべた。隣に立つ崇徳の眉間が、一瞬だけピクリと動いたことに野沢は気づかなかった。

「ククク……ひゃははははは!」

 狂ったように笑い出す相模坊。状況がつかめず、呆然とする野沢の後方からアマネがすっ飛んでくる。

「死ね!」

 純粋な殺意をむき出しにして、アマネが相模坊の胸元めがけて妖気の爪を突き立てる。渾身の一撃が命中し、相模坊は流星の如く吹き飛んだ。後方の岩に衝突し、身を埋める。爪は突き刺さることはなかった。咄嗟に胸元へと障壁を張ったようだ。

「くくく……ひひひひ」

 ずるりと岩から滑り落ち、そのまま身をもたれながらも笑みを絶やさない。気味が悪かった。

 が、その答えはすぐにやってきた。

 崇徳がおぞましい叫び声を上げたのだ。大地と大気が振動し、凍てつくような咆哮が野沢とアマネの二人を襲う。

「人を憎ンデハイケナイ」

 ぬらつくような崇徳の眼光が赤く揺らめいたかと思いきや、蛆の湧く腕を振り回して妖怪コンビの喉元をふん掴んだ。左手でアマネの首を。右手で野沢の首を。足が宙に浮くも、足をばたつかせる気力が湧かないほどの圧倒的な邪気。二人はだらりと足をぶら下げて、静かな赤をたたえる崇徳を睨みつける。

「ぐ……うぅ」

 二人は弱々しいうめき声を上げた。首がひしゃげんばかりの力で締め付けられる。脳に血が集まり、水風船のように破裂してしまうかのような錯覚に陥る。

「人を恨ンデハイケナイ。人ハ手ヲ取リ合イ、互イヲ認メ合ワナケレバイケナイ」

「アマ……ネ」

 ――手を。

 野沢のアイコンタクトを察したアマネが、野沢の手を取った。

「……?」

 二人の手が固く繋がれた瞬間。瑠璃色の光が二人を包んだ。崇徳は訝しげに目を眇め、何を思ったか二人を解放した。驚くような素振りはない。事の成り行きを見定めるかのように、瞳を赤くぬらつかせて宙に漂っている。対して、妖怪コンビは崇徳の秘めた心情などつゆ知らず、仇敵として崇徳を討つ気でいた。

 崇徳から数歩距離を置き、体制を整える。

「アマネ! 何だか分からんが、やるなら今しかねえ!」

「愚問!」

 野沢は背負っていたギターケースを床に置き、中身を取り出した。慣れた手付きでギターストラップを首に掛け、祖父の形見を身体の前に構えた。

「行くぞ!」

 野沢を纏う雰囲気がガラリと変わる。それはまるで研ぎ澄まされた真剣。それはまるで底知れない力を宿した魔物。彼は左手を天高く突き出し、一気に振り下ろした。

 一筋の猛々しい音色が黄泉の国に響き渡る。

 ……一拍おいて。凄烈な風が崇徳に襲いかかった。身体に纏わりついていた蛆が全て吹き飛んでいく。

 それを皮切りに、野沢が一心不乱にギターを掻き鳴らす。それは激しく――ただひたすらに激しく。情熱に満ち溢れたハードロック。怒涛の勢いで風が吹き荒れ、黄泉の国を覆っていた瘴気を霧散させた。わずかに群生していた植物や、緑や紫といった奇抜な色をした液体なども風に巻き込んで吹き飛ばしていく。

 野沢はおもむろにカポタストを操作した。すると音楽のキーが一つ高くなり、風が鋭くなる。

 風の凶刃が崇徳の頬を掠め、開いた傷口から紫色の血がぷくりと盛り上がった。次第に傷口から血液が溢れ出し、顎下へと零れていく。

 ――その矢先。

「……」

 沈黙を貫き、彼らの動向を静観する崇徳の隣に、相模坊が並び立った。

「くくく……いかがですか崇徳様。私の申し上げた通りでしょう。浅ましく、下劣で、意地汚い! まこと愚かの極みだ!」

 粘っこい視線を崇徳に向けて、さらに言葉を続ける。

「さあ……崇徳様。これで分かったでしょう。憎しみに染まった彼らの姿は悪鬼そのもの。人は己の欲に打ち勝つことなど出来ません。それは何十年、何百年……幾年経とうとも変わりませんでした。奴らは紛うことなき畜生。――是に由りて、人の世に天誅を下す時なのです」

 崇徳は眉間をピクリと一度だけ動かした。それから一息の間を置き、二度目のおぞましい叫声を天に放った。崇徳は口から赤黒い血を吹き出し、自身の刀に纏わせると、その刃を思い切り真横に振った。飛び散った鮮血が瞬く間に赤光する刃と化した。それは暴れまわる旋風を切り裂き、驚異的なスピードで野沢の喉元まで肉薄する。

「おらあ!」

 聴覚の全てを支配するほどの轟音。そんな歌い狂う風の空間に、甲高い金属音が鳴り響いた。

 喉元まで到達していたはずの血塗られた刃は、標的を切断することなく、彼の斜め後ろの山を真っ二つに切り裂く。

 野沢を庇うように、崇徳に立ちはだかるアマネ。彼女は羽団扇の先を崇徳へと真っ直ぐに向けた。

「来いよ。誰であろうと、明人の敵は私の敵だ」

 野沢のギターは妖力の増幅器でもある。アマネと野沢の妖力が飛躍的に高まり、身体能力も桁外れなものとなる。体内を巡る妖気がほとばしり、全身から淡い紫色のオーラがにじみ出ていた。

「オモシロイ」

 崇徳が三度目の叫声を上げた。野沢の紡ぎ出す刃を物ともせず、爆発的な神速でアマネへと詰め寄り、その手に握っていた柄を翻す。それはアマネの命を奪わんとする一閃の煌き。右下から左上へと白刃が駆けた。

「お前……何を考えている」

 逆袈裟斬りを羽団扇で受け止め、アマネは訝しげに眉をひそめた。

「悟れ。然して打ち勝つがよい」

 崇徳は全力ではなかった。本気でいるフリをしている。アマネが受け止めた崇徳の一太刀には、恨み辛みの類が込められていなかった。そこにあったのは――あろうことか仁愛という名の良心だった。

 ――と。崇徳が柄の持ち手を入れ替え、刃を回した。流れるような所作で、そのまま真横に振り抜く。その一刀は妖気で作った鎧をやすやすと切り裂き――。

「ぐぁ……」

 アマネの脇腹から大量の血が吹き出す。

「アマネ! ……こんの野郎!」

 

 

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