ドMの真名
ターバンは周章狼狽の境地にいた。これまで自分が積み上げてきたものが全て崩れ去る危機に瀕するのは初めてだった。天下の鳴神財閥の令嬢に国家公認の科学者が告発すれば、さすがの彼の強固な後ろ盾も万力に固定された割り箸、台風に対峙したティッシュペーパー、大津波が迫りくる砂のお城に等しい。
「こんなところで終わってたまるか……!」
「ターバン! お前の悪行もここまでだぜぇ!」
と、猛烈な暴風に耐えながら、満身創痍で這いずるターバンにセクシーな色声を投げつけた者が一人。
「秋義その声きもい!」
「ありがとうございます!」
その者の名は東島秋義。超が付くほどの被虐願望をさらけ出して日々を過ごしている彼は、追い詰められるほどに強くなる。『ピンチはご褒美』という最強の信念を持っていて、絶望的な状況を一変させることが出来るチャンスメーカーであり、トリックスターである。
彼はデストロイヤーにまたがり、凄まじい勢いで鉄格子とターバンの元へ邁進していた。温泉の湯が一人と一匹の周囲をバシャバシャとはじけ飛んでいく。
「き、気でも狂ったか! チタン合金の格子にピアノ線だぞ! 身体がひしゃげるか、細切れになるのがオチだ!」
「なあ! ドMをカッコよくしたら、なんて言うか知ってるか?」
憶する事なく激走してくる一人と一匹。彼らの勇姿に気圧されていくターバン。
「なにをバカなことを……」
ここでアズサも動く。
「ターゲット、指定地点到達確認。ファイヤー」
弓を射るような短く鋭い音が一発。
「ワン、トゥー。ファイヤー」
さらに一発。
刹那。巨大な猫の速度が音速を超えた。瞬く間に鉄格子前まで移動した。――かと思いきや、急停止する。猫の背中から秋義が銃弾の如く飛び出し、真っ直ぐに伸ばした片足が鉄格子を貫いた。
「ごぁっ!」
もちろん勢いはとどまることなく、ターバンの顎にも飛び蹴りが命中する。ターバンの意識が即刻消し飛び、喉から漏れる情けない音とともに地面へと突っ伏した。
ここで三発目の弾丸が秋義に命中する。薬の効果で生まれる強靭な筋力。彼は石畳に足を付けて踏ん張り、慣性の力を消し去ってしまった。沸き起こる暴風で、石の表面についた水分が吹き飛ぶことも要は想定していた。
「ドMをカッコよくしたらなんと言うか。分からないなら教えてやろう」
秋義は濡れた髪をかき上げ、奴を見下ろして言う。
「命知らずだよ」
「で、なんで戻ってきたんだよ」
小突くように、野沢の身体へ肩からぶつかっていくアマネ。
「そのまま過去に戻ってバンド人生を謳歌することも出来たろうに」
「あーうるせえうるせえ」
野沢は頭を掻いた。
月明り照らす温泉の水面には、立ち並ぶ二人の姿が映りこんでいる。妖怪コンビの後方では、鳴神財閥の令嬢が工事用ヘルメットを被り、お抱えのスタッフ達に指揮を執っていた。幾数ものヘリコプターがけたたましい音でプロペラを回し、急きょ招集させた鳴神財閥のスタッフ達が続々と集結していた。ターバンが所有していたこの温泉は、今後は鳴神財閥が管理・運営していくとのこと。
指揮を執っている雪恵の傍らでは、その他の一行が各々談笑していた。仲睦まじく穏やかなムードで会話している秋義とアズサ、デストロイヤーを肩に載せているミカンを肩に載せている小室の三人組。
「瑠璃の珠でも拾ったわけでもあるまいに。どうして急に心変わりをしたのかね」
アマネはぶつけた肩を動かそうとしない。そのまま野沢にひたと寄り添う。
「どうもこうもねえさ」
「はは。それじゃ答えに――」
ふわっと宙を舞う感覚。気付けば、彼女は彼の胸の中にいた。
「夢よりもお前が大事だ」
まるで心臓に直接ボディブローを打ち込まれたかのような衝撃だった。
「な!? な、ななななにをいいいいっているんだ! 予想外だ!?」
急速に顔が熱を持ち、赤くなっていくの感じ、「しゅ、瞬間湯沸かし器は大変だな!」とわけのわからない事を大声で叫ぶアマネ。
両肩を抱かれ、そのまま引き離される。向き合う形となり不器用な笑みを浮かべる野沢が目の前に現れた。
「悪かった」
言いながら、ぽんぽんと彼女の頭に手が置かれる。アマネは安堵にも似た小さなため息をつき、視線を斜め下に向ける。それから彼の胸に頭を押し付けた。
「このバカちんが……夢も私も大切にしろ」
遠方でラブコメを垣間見ていた秋義がやんややんやと叫び散らしたことをきっかけに、天狗とミュージシャンは周囲にやっと目を向けた。秋義一行も、鳴神財閥スタッフも、実は二人の会話を盗み聞いていた秋夜の山頂。その場にいる全ての者を、まぶしい月光が照らしていた。
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