番外編 いつかの住処
初雪にはまだ出会っていないけれど、寒さは常に肌に突き刺さる。寒い、という言葉ですら足りないような気がするのは、大気に触れるだけで氷を握ったような痛みを感じるからかもしれない。冷たいのだ。何もかもが、数秒で指先が凍ってしまったような気さえする。ほう、と吐き出す息は白い。それでも、京都駅は相変わらず観光客で埋め尽くされていて、新年を迎えた熱気で溢れていた。
カミサマを名乗る恋人は、京都ではちょっとした有名な奇人である。
どれくらい有名かというと、ついに、変なお面をつけた神出鬼没の奇人として、タウン誌に取り上げられたらしい。最近買ったばかりの携帯機器でインタビューを受けたと連絡があった時には、会社で変な声を出してしまった。人間を驚かすことが大好きな恋人は、きっと意気揚々と質疑に答えたに違いない。幾ら写真を撮っても映らないせいで、見出しの横に掲載されるはずだった写真は、何処かのイラストレーターが描いた似顔絵になったらしい、というのも、恋人らしいエピソードだった。
オサキと呼ばれる恋人は、事実として人間ではない。例えば、彼は来ようと思えば京都から東京までの距離を一歩で飛び越えてしまうし、見ようと思えば過去も未来も、人間の秘匿した願いでさえ見渡せる千里眼も持っている。車に轢かれても、包丁で刺されても血が出ることがないのに、胸に耳を寄せると不思議と心臓の鼓動が聞こえてくる。化けることが得意なオサキさんは、お面をつけた成人男性から、艶めく黒髪の乙女や、大きくて真っ白な神々しい狐の姿まで、ありとあらゆるものになれる。彼が、見せないでおこうと思ってしまえば、大抵の人間は彼の姿を視認することが出来なくなってしまうだろう。領分を超えた先に立っている恋人は、自称ではなく人ではない何かだった。それをカミサマと呼ぶのか、それとも妖と呼ぶのか、怪物と呼ぶのか。それはきっと呼ぶ側が決めることであるから、オサキさんに救われて、現在は恋人となった私にとっては、言葉のラベルは曖昧でもかまわないだろう。
生きる者とは領分の異なる者――彼らは自身をそう呼称し、事実として体現している。実際に彼らの側に立ってみると、見える景色が一変してしまうのだから、これも間違った説明ではないだろう。何かもが異なっていて、それが不可思議で面白い。そうして、奇妙な縁で出会った恋人は、私を酷く甘やかに掬い上げてくれるカミサマだった。
京都駅からJRと京阪本線を乗り継いで、京都の街を南下する。バスやタクシーでも難なく動けてしまえるのが、京都の良いところだけれど、今回電車を選んだのは、オサキさんが駅で待っているからだ。キャリーを引いて通い慣れた駅構内を歩いていく。観光客の波に呑まれながらでも、足取りは軽い。改札の向こうにお面をつけた一人の男が見えると、私の心は躍るからだ。
見間違うはずのない顔半分を隠す狐面の奇人に、軽く挨拶の代わりに手を振ると、口許に薄い笑み浮かべた彼も小さく手を振り返してくれた。つい早足になって、キャリーの転がる音が大きくなる。
しかし、改札を向けた途端に世界はぐるり、と一変する。まるで迷子になってしまったかのように人の気配が消えた。観光名所を求めて多くの人間が行き来するはずの構内から、見えていた全ての生き物が姿を隠してしまった。常駐しているはずの駅員も、購買で働いているはずの店員の影すらも失われ、しかし無機物に文字を映す電光掲示板や、切符売り場のボタンや、電気の通った改札だけが残されていた。停車と発車を繰り返す電車の音や、構内アナウンスも聞こえない。まるで様々なものが死んでしまって、私だけが取り残されたような世界は、オサキさんの領分だ。生きる者の景色を写し取っただけの裏道の世界だ。
孤独の恐怖を植え付けるような、音もなく、誰もいない世界も、最初は恐ろしかった。しかし、今はオサキさんがいる。元の場所に帰る方法を知っている。慣れた足は視界が変化しただけでは止まらずに、私はこの街で、私を待ってくれていた恋人の胸へと飛び込んだ。
年末休みの長期休暇を迎えるにあたり、まず驚いたのが恋人が家を買っていたことだった。
伏見稲荷へと続く参道の手前にある奈良本線の近くに、その一軒家は存在した。下町のような町並みに似つかわしくない豪奢な邸宅は、現代の紙幣価値を知る私の度肝を抜くには十分だった。ここが裏道でなかったら、一体どうなっていたのだろう。考えるだけでも頭痛がしそうになったけれど、ここは奇人の住処の一部であって、実際には何の影響もないのだろう。表道では変わらずに、観光客が闊歩して、お土産屋がのったりと佇んでいるに違いない。
ほう、と深呼吸をする。慣れてきたとはいえ、やっぱりオサキさんのすることには驚いてしまう。彼自身は私が驚いた方が愉快のようで、薄く微笑んでいた唇で、悪戯っ子のように弧を描いていた。
恋人は家を必要としない。参拝客を見守るために早朝と夕方に伏見山から人間を見下ろす彼の本来は獣であり、土地そのものであり、社会形成に組み込まれてはいないせいか住居というものを必要としない。裏道がある限り、世界の全ては彼のものであるも同然であり、生活という概念がそもそも存在しないからだ。
豪奢な邸宅に上がり込み、揃えられた家具や寝具を一通り見渡して、ご丁寧にテレビの前に設置されたこたつに腰を下ろしてから、私は「何故」という疑問を投げかけずにはいられなかった。
「明子は、これからも私に会いに来るだろう? その都度、場所を用意していたのでは、どうにも落ち着かない。俺が不必要でも、明子が必要ならば、必要な側に寄せれば良い。君が俺に領分を寄せてくれたのと、同じことだよ」
利便性の問題だ、とオサキさんは軽快に言ってのけた。
「そんな簡単に……」
「どうせ後八十年もすれば嫁に来るのだし、住居はあった方が良いだろう。龍神もそうしているし、人の営みの方が明子も馴染みやすいと思ってね」
「唐突に甘やかされた気がします」
「甘やかすとも。俺の大事な愛し子だからなあ」
自然と頬が緩むのは、きっと仕方のないことだろう。年末休暇に入るまで、ひたすらに仕事が忙しかったからなのかもしれない。全工程が何日もかけてストップするというのは、それまで一ヶ月単位でこなしていたスケジュールが、どっと押し寄せて前倒しになるということだ。師走は走らなければならない。全力疾走が一ヶ月続いたからか、恋人の言葉はいちいち私を喜ばせてしまうらしかった。
そうはいっても、浮かれてばかりもいられない。私は口座の貯金残高を思い出しながら、遠慮がちに口を開いた。
「オサキさん」
「うん?」
「人間がこういった家を買うのは、とても大変なことなんです。主に金銭的に。こっちだとそのへんは……」
「ああ。そこは気にするところではない。取引めいたことがなかったわけではないが、恩を売った獣がいてね。それも人の真似事が好きなものだから、人間の家が欲しいと言ったら喜んで用意してくれたわけだ」
「不動産業を営む方がいらっしゃるんですか?」
「いるさ。なにせ、狸がバーを経営する時代だ」
二条にあるバーを思い出しているのだろうオサキさんは、くつくつと肩を揺らす。どうやら根本的に人間の社会とは通貨概念というものも異なるらしかった。この街で出会った彼のようは者達とは、今まで金銭でのやりとりをしていたけれど、それも一部ということなのだろう。まだまだ私は慣れ親しむまでに時間がかかるのかもしれない。
それにしても、本当に広い邸宅でありながら、内装も見事なものだと感心してしまう。京都らしい木造りに見える一軒家なのに、決して古びた印象は与えられない。二人で入るには大きなこたつも木目がしっかりとした天板が乗っているし、後ろに見えるダイニングの向こうには、カウンターキッチンが設置されている。用意されたかのようなダイニングテーブルは白くて清潔感があって、寒々とした窓の向こうには小さな庭までついている。和を基調としながら、落ち着いた色合いの家具が並んでいるのを見ていると、まるで誰かが住んでいたような生活感があるのに、全てが新品のままで整然と並んでいる。裏道であるのに、テレビはきちんと映るらしい。一体どういう仕組みなのか、私には到底理解は及ばない。
それでも東京にある自宅よりも快適に過ごせそうな空間は、私の興味を唆るには十分だった。
「気に入らないかい?」と、思いもしなかった質問が耳を横切っていく。見れば、少々不安そうなオサキさんが、家中を見渡す私を凝視していた。
「まさか! 素敵だな、と思って、見ていたんです」
「なら良かった。こういうものは二人で決めるものだと聞いていたものだから。勝手をしてしまった」
ほう、と息を吐き出して、オサキさんは煙草に火をつける。
こういう時、私はなんだかたまらなくなってしまう。目の前の奇人は、決して人間と同じ感覚で物事を見ているわけではないはずなのに、一つ一つを吟味して、私に歩み寄ろうとしてくれている。必要もなく、馴染みのない住居を吟味して、使ったことのないだろう家財を揃えるのは、きっと大変だったに違いない。もしかしたら、オサキさんの触ったことのないものがあったかもしれない。無遠慮な振る舞いを見せながら、一度は自身ですら捨て去ろうとした私の日常を守ろうとしてくれている。彼に死を預けてから、もう人ではなくなって、徐々に人間離れしていくだろう私を、まだ人間でいさせてくれるのは、きっとオサキさんなのだ。
オサキさんの好意が嬉しくて、与えられる行動が、いつも私を浮き足立たせる。かつて正誤の問題ばかりに気を取られていた私は、その喜びを素直に言葉にする術をオサキさんから学んだのかもしれない。
「オサキさん」名前を呼ぶことすら、頬を緩ませてしまうなんてことも、目の前の奇人に出会うまで知らなかった。
「うん」
「素敵な家で、私はとても嬉しいです。京都でこうして腰を落ち着けられるのも、本当に嬉しいです」
「そうか」
「はい。実は家具も私好みですし、もし気に入らないとしても、今度は二人で揃えていけば良いと思うんです。とても長い時間を、これからは一緒に過ごしていくんですから」
死というものがなくなって、私にはオサキさんと同じ膨大な時間が残った。今はまだ出来ないけれど、この街に本当の意味で腰を落ち着かせる日が来るだろう。彼と一緒に二人で並んで、人間を眺めて過ごす日々もやってくるだろう。
仮面の向こうにあるだろう夜闇のような黒い瞳を見つめて言えば、オサキさんの頬が少しだけ熟れていく。薄い笑みに柔らかさが増す瞬間が、私は好きだ。
「今日は飲みに行こうか」
「タケキリさんのところですか?」
「うん。明子が来ていると知れば、アレもきっと喜ぶだろうから」
こたつの中で、私たちは笑い合う。
紫煙を吐き出すオサキさんが、灰皿に煙草を置いて、顔半分を隠していたお面を取ってくれる。美しい夜闇の双眼が細められ、柔らかな視線でずっと私を見てくれている。
いつかこの場所が、この家が、本当の意味で私の住処になるのだろう。全てを捨て去ることの出来ない日常を辿りながら、いつか必ずやってくる全てを失う日を想う。その時も、きっと私の隣には、こうして不可思議な恋人がいるのだろう。
もう時間の概念が薄くなってきた私のカウントダウンが、また一つ前へと進む。
恐れはある。覚悟もある。それでも晴れ晴れしい心持ちで臓腑の中が満たされるのは、それが私たちの異なる部分をすり合わせていく時間でもあるからだ。
視線を交えたままに、ほう、と小さく同時に息を吐き出した。
「おかえり、明子」
「ただいま、オサキさん。今年もよろしくお願いします」
夜闇に吸い込まれそうになりながら、新しい一年を期待して、私は小さく笑みを浮かべた。
狐憑きの天気雨 陽本明也 @832box
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