第14話
引き戸を引けば、昨日と同じ京都弁のマスターが「よう、おいでやす」と小さく頭を下げて迎えてくれた。昨晩と違ったのは、バーの中が随分と賑わっていたことだ。テーブル席は埋まっていて、何人かが楽しそうに騒いでいる。それが奇人や天狗のように、領分の違う者なのかもしれない、と明子は思考した。それでもいいや、と思えてしまうのは、今日一日の体験で不可思議に満腹になっているからだろう。
店内は、カウンターの端の二席が空いていた。それは奇人と並んで座ったのと同じ場所で、マスターに手招きをされて明子は着席をする。京町家の長い造りも、ほどよい間接照明も健在で、マスターは柔和な笑みを浮かべているのも昨晩と同じだ。天狗は慣れた足取りで明子の隣に座り、これまた慣れた口調で「赤玉ポートワインを寄越せ」と乱暴に言った。
明子が店内を黙って見渡していると、注文を取りに来るマスターよりも早く、隣に座っている黒髪の女性が声をかけてくる。
「あら、本当に来れたのねえ。タケキリの話は嘘じゃなかったのね」
黒髪の女性は明子を見つめたまま薄く笑い、今度はマスターへと視線を投げる。明子は何を言われているのかも分からないままに、小首を傾げた。バーで初対面の誰かと気軽に話すことがあっても、唐突に意味深な言葉を向けられるのは少ない。まるで、知り合いのような口調の黒髪の女性を、記憶を探るように見つめてみても記憶にはない。そもそもこの街に知り合いはいない。
「だから言うたやないですか。はよう、返してあげて下さい」
訛りの強い京都弁で、マスターが窘めるように言うと同時に明子は「あっ」と声を上げる。黒髪の女性の指に、灰色の猫に奪われたはずの奇人の鈴が引っ掛かっていたからだ。
「どうして、それを……?」
「あら、奪った相手の顔も忘れてしまったの?」
まるでからかうような口調で黒髪の女性は笑みを深くしてから、テーブルに置かれていたグラスを傾ける。明子はますます何を言われているのか理解出来ずに困惑する。すると、カウンターの向こうにいたマスターが助け舟を出してくれた。
「シズネはん。その姿やったら、お嬢さんは分からへんのちゃいます?」
「ああ、そうね。貴女は人間だものねえ。悪いことを言ったわ」
納得したように呟いた女性がみるみるうちに萎んでいくのを見て、明子は悲鳴にもならない短い息を吐き出した。伸びた手足が短くなり、胴体が細く押し潰されていく。骨や筋肉の構造が、徐々に変化していき、陶器のように白かった肌が、上質な灰色の体毛に覆われていく。あるはずのない尻尾が生えてきて、二つに分かれたかと思ったときには、明子を足蹴にした灰色の猫が、丸い瞳をくりくりとさせて、椅子の上から明子を見上げていた。
「ごめんなさいねえ。てっきり貴女がオサキの鈴を盗んだものだと思ったのよ」猫は殊勝な顔をしながら、「お詫びに奢るわ。好きなものを頼んで」と口元だけに笑みを含ませる。
猫が喋るという現象に、明子はなんとも言えない気持ちになる。今日一日で、随分と奇妙な出来事には慣れが生じていたけれど、出会う大抵の者は明子と同じ容姿をしていた。髪があり、体毛の少ないつるつるとした肌を晒し、顔があって、手足が分かれ、二本足で歩く。有り体にいって、それは人間らしい姿であって、不可思議な仮面をつけた奇人も、雨を降らす龍神も、空から舞い降りてきた天狗も、それは共通項だった。だからこそ明子は畏怖を抱きながらも、彼らの言葉に耳を傾けることが出来たし、親近感を覚えていた。
しかし、現在目の前で人の言葉を話すのは、灰色の丸い毛玉だ。
しなやかな胴体から二本に分かれた尻尾が伸びていて、可愛らしい足が四本あり、長い髭を揺らし、小さな鼻のついた顔の上に三角の耳を立てている。にんまりと笑った口元には、牙のような歯が見え隠れしていて、全身が柔らかそうな毛で覆われている。先端だけが、靴下のように白い前足をカウンターに乗せているのは、見たままに表現するのなら「猫」そのものだ。
親しげな口調で謝罪を受け、ゆらゆらと揺れる伸びた尻尾を見つめたまま、明子は今度こそ絶句する。奇怪な現象、奇妙な出来事、その中心にいる彼らは言った――領分が違う。
その言葉を体現したような存在が目の前に現れていることに、そろそろ明子のキャパシティは限界だった。目眩を起こしそうになっていると、背中に強い衝撃を感じて明子の脳が揺れる。
「おい、しっかりしろ。毛玉の類は、大抵人間の驚く顔が好きな性悪なだけだ」
後ろから叱責するような声が飛んできた。店に入ってから、ずっと黙ったまま酒を舐めていた天狗の声で、どうやら割と強い力で背中を叩かれたらしい。乱暴な口調は、まどろむような衝撃に酔っていた明子の目を覚まさせる。今日一日の出来事を思い出しながら、明子は、これもまた奇妙なことに違いないのだから、慣れが肝心だ、と胸中で自身を奮い立たせる。天狗に小さく会釈をしてから、見た目は愛らしい猫を見つめ返した。
「では、ソルティードックを」
遠慮を忘れるために語気を強めて、明子は言った。
カウンターの向こうでマスターが、静かにグラスを手に取ったのを視界の端に留めながら、煙草を咥えて火をつける。ポケットにつっこんだままの煙草は少しだけ湿気ている。それでも歩き回っていたから、ずっと吸っていなかった煙が肺の中を満たしていき、ようやくほう、と一息を吐き出した。
「あらあら、気丈なことだわ。良いわねえ、嫌いじゃないわよ」
「……ありがとうございます」
「まずはこれをお返しするわ。本当に知らなかったのよ。タケキリ、美味しいのを作ってあげてね」
なにせ、今日は貴船に篭っていたものだから、と付け加えて、猫は器用に足を動かして、引っ掛けたままの鈴を明子に差し出した。猫が目配せしたのを見る限り、タケキリとはマスターの名前らしかった。
中空を飛び跳ねる小さな玉がシャン、と小さく音を鳴らし、明子の手のひらに鈴が落ちてくる。同時に注文したソルティードッグが、昨晩と同じ小さな着物の形をしたコースターに置かれた。汗をかいたグラスを眺めることは出来ずに、マスターに礼を言うのも忘れて、明子は猫を見つめたままだ。
「まずは一杯。もう脅かしたりしないわ。本当は礼儀は弁えた猫なの」
言いながら、コップに突っ込んだ鼻先から短い舌が伸びた。猫がお酒を舐めている。なんとなく腑に落ちないまま、明子も煙を吐き出してから、グラスを掴む。濁流のように押し流れてくる不可思議に、喉は乾ききっていた。グレーツフルーツの酸味を際立たせる塩の舌触りと、臓腑に染み渡るアルコールの心地良い刺激が、簡単に喉を通っていく。
「聞いていた通りの飲みっぷりねえ」
「それはどうも……」
「あらあら、すっかり警戒させてしまったわね」
にんまりと笑っているようにも見える表情とは裏腹に、猫はしょげてしまったかのような口調になる。尻尾がだらんと椅子から垂れ下がり、小さな頭が下がりきりだ。明子はそういうものに弱かった。怒っているだとか、驚いているだとか、そういうことよりも意思の通じそうな何かに対して、重い蓋を乗せてしまうことが出来ない。もし、ここでむくむくと風船のように膨れたままだったら、謝罪というコミュニケーションは要らなくなってしまうような気がするからだ。なんだか明子の方が、癇癪を起こしているような気分になって、慌てて小さく首を振る。
「すみません、警戒というか。まだ色々ありすぎてついていけなくて、その、喋る猫とお話しするのは始めてなものですから……」
「まあ、丁寧なお嬢さんなのね。驚かせてごめんなさい」
「いいえ。今日一日で、とてもつもない体験を沢山したので、もう猫が喋るぐらいのことで驚いていては、いけないと思っているんですけれど」
思いがけずに苦笑してしまう。
京都にやってきて、始めて飲んだのと同じソルティードックが、もうずっと前のように感じてしまうぐらいには、途方もない大冒険をしてしまったような気さえする。もしも明子が冒険譚の主人公であったのなら、旅の真っ最中なのだろう。店の奥の異質な騒がしい空気や、目の前に喋る猫がいる。きっと猫は明子の冒険の、次の行く先を示してくれる。大海原の先にある前人未踏の無人島の秘宝をヒントを教えてくれたりする。そうして、明子は旅支度を整えて、朝日と共に筏に帆を張るのだろう。
夢想する物語であったのなら、そんな逞しい冒険だったに違いない。お噺の中にいる明子は、きっと物事の奇妙さに困惑したりせず、したり顔で正誤の問題なんかそっちのけで走っていくのだろう。
だけど、現実はそうではなかった。
灰皿を火種が落ちないように軽く煙草を指で弾くと、小さな灰が落ちていく。立ち上る煙を見つめてから、もう一度唇を少し開いて深く呼吸する。二度目の深呼吸で入ってくる毒の混じる煙を肺に押し込めて、明子はゆっくりと落ち着いていく。その様子を眺めていた猫が、一度途切れそうになった会話を続けるために口火を切る。
心なしか、丸い瞳がじんわりと細められていたような気がした。
「私は貴船の水神に連なる猫なのよ。オサキとは古い知人のようなものなの」
「オサキさんの」
「ええ、そうよ。ついでにそこの天狗も、ここのマスターも、大体の連中は知り合いなのだけれど」
なにせ狭い土地だもの、と猫は小さな口で上品に笑った。その間にも、カウンターの中を自由自在に行き来するマスターが、明子の前に焼きベーコンの乗った小皿を置いてくれた。頼んでいない、と視線を投げると、マスターは柔和な笑みのまま、顎だけで猫の反対側の隣にいる天狗を指した。どうやら、天狗からの差し入れらしかった。
この京都には知り合いがいたわけではない。だからこの街を旅先に選んだ。それでも、奇人と出会ってから、なんだか気遣いばかりを与えられているような気がして、明子はまた小さく会釈をしてから、頬が緩むのを感じた。アルコールを胃へ流し込んだ時と同じような、朗らかな温かさが染み入ってくる。爪楊枝の突き刺さる一口サイズのベーコンを口に放り込んでから、酒の進む絶妙な塩加減に舌を唸らせると、憤りや驚きが胃の下へと追いやられ、なんとも浮かれた気分になる。
「この鈴はオサキさんに頂いたものなんです」と、明子は揺らすと音を鳴らす鈴を見つめる。
「ええ、タケキリから聞いたわ。私ったら、勘違いをしてしまったのね」
「いいえ、おかげでこのバーに、また来ることが出来ました。今日の私は、きっとたどり着けなかったでしょうから」
「あら、知っていてココを探していたの?」
小首を傾げる愛らしい猫に、明子は小さく頷いた。
このバーには気の迷いがなければ人間はたどり着けないのだと、昼間の喫茶店で耳にしていた。事実として、何時間歩き回っても、昨晩と同じ道を辿っても、明子はバーの看板すら見つけられなかった。認めるしかないのだろう。世の中には、明子の知らなかった領分が存在していることも。昨晩、このバーに立ち寄ってしまった自身の気の迷いも。あの日の駅の怪物の存在も、奇人に暴かれてしまった羞恥心も、明子はアルコールと一緒に呑み込んでしまわなければならないのだろう。
駅のホームから踏み出しそうになった一歩の恐怖を、雨の中で訪れた間違いも、自身の選択の一つだったと、明子は思い知らなければならなかった。
ソルティードックの酸味と一緒に、明子は胃の中に、ある日の自身を上手に流し込む。そうして、上手に整頓してしまえば、引きずった間違いも瑣末な問題だと言いのけられるような気がした。置き場所にさえ困らなければ、考えもしなかった奇人の並べた選択肢を吟味することも出来るだろう。
「オサキさんのことが知りたくて。私、明日までに答えを出さなきゃいけない宿題があるんです」
「それはまた短慮だこと。オサキにしては珍しいことだわ」
くるり、と猫の尻尾が踊り、すると今度はカウンターにナッツが滑ってくる。鼻先を突き刺しながら、猫はにゃあと鳴いた。好き嫌いとか、食べちゃいけないものなんてないのだろうか。尾の分かれた猫を不思議に見ながら、明子は会話の返答を考える。
「そうなのですか?」
「オサキは生ある者に興味なんて示さないもの。それは過ぎいく者だと眺めることを良し、としているのよ。達観したじじいのフリをしているのね」
「猫さんは違うんですか?」
「似ているけれど、違うわよ。私は私が愛でるものを、きちんと選別しているもの。愛してしまったら、時々私達は相手を不幸にしてしまうから」
言葉に反して猫は楽しげに薄い笑みを浮かべている。全てを丸め込んで呑み込んでしまいそうな薄気味悪い笑みは、奇人の口元によく似ていた。まるでそれが当然だ、と言わんばかりの軽薄さなのに、じわじわとした支配力がある。不幸だという言葉の意味を捉え違えてしまいそうだった。
まるで見えない手が伸びてきているような錯覚に、明子の脳が揺れ動いていると、わざとらしい深い溜息が耳に入ってくる。視線を向けると、忌々しそうな顔つきをした天狗が、赤玉ポートワインをチロチロと舐めながら眉を寄せていた。
「だからお前らは自分勝手なんだ。欲しいものを貶める情なんてのは、愛であるわけがないだろうが」
「あらあら、愛など知らぬ鼻っ柱だけの天狗が何を言うのかしら。領分が違えば、手を差し伸べることすら躊躇する半端者のくせに」
「地べたを這いずるだけの化猫が、知った口を叩くじゃねえか」
「その地べたに足の付け方も忘れているのは、どこの誰かしらねえ? 飛び疲れて落ちればいいのに」
明子を挟んだままに、言い知れぬ緊張感がどことなく漂っている。ギリギリと歯噛みする音が、両隣から聞こえてきそうだ。それはテレビで見たことのあるような、猛獣の睨み合いにも似ている気配だった。どうにも口の挟みづらい空気が突き刺さり、明子は視線も動かせないままに、とりあえずアルコールを摂取することに専念する。乾いた唇が炭酸の泡に触れると、ピリピリと痛んだ気がした。
明子がグラスを置いた瞬間だった。店の入口は閉まったままなのに、明子の髪を風が勢いよく通り抜けていく。見れば、天狗と猫の座っていた椅子が倒れていて、いつの間にか二人共立ち上がっている。猫の体がむくむくと膨らんで虎のような大きさになり、天狗の背には真っ黒で大きな羽が生えていた。異径の存在を知らしめるような形姿が明子の後ろでじりじりと睨み合っている。試合のゴングは、狸の置いた皿の音だったように思う。人間とは到底思えない形相で、天狗と猫が猛烈な掴み合いを始めた。聞こえてくる床や壁に打ち付けられるような音が後ろから聞こえ、明子は恐ろしくて、二度は振り返ることも来ない。打つ。噛かむ。髪をむしる。想像出来る暴力に身震いをする。
L字のカウンターの向こう側で、何人かがそそくさと奥に移動したのが見えた。
その間にも、羽ばたきやニャアニャアとした獣の声が店内に響き、時々柔らかい毛の塊や、真っ黒で硬い羽が、揺れる大気の中を舞って落ちてくる。どうにも身動きをするタイミングが掴めずに、明子が困惑のままにカウンターの中のマスターを見上げると、笑みを浮かべていたばかりのマスターがギロリ、と後ろで大騒ぎをしている二人を睨んだ。
「お二人共、ええかげんにせんと追い出しますよ。ここは私の店ですからねえ」
抑揚の変わらない声でマスターが言った。すると、不思議なことに後ろの騒ぎがぴたり、止まった。なんだかきまりの悪い雰囲気のまま、二人が席へと戻ってくる。椅子を立て、なんでもなかったかのような顔をして腰を下ろす。天狗の伸びていた羽は消えていて、虎のように膨れ上がっていた猫も、明子の膝に乗れそうな大きさに戻っている。拗ねたように黙って酒を舐め始めた天狗と猫に、明子は目を丸くした。
「いやあ、すんまへんなあ。折角来てもろたのに、こないなありさまで」
「い、いいえ……」
「この二人は、いつもあないな感じで。あ、お嬢はん。おかわりどないします?」
「えっと、じゃあシェリートニックを」
マスターのあまりにも平然とした態度に、明子は思わず注文を口にする。
「まあ、もうお気づきかと思いますけど、私らは人間とは色々と違うもんで。こないな喧嘩もしょっちゅうですし、愛情の示し方も人間とはやっぱりちゃうもんです」
どうやらマスターさえも、何事もなかったように話題を戻そうとしているらしい。明子は、驚きや、恐ろしさで脈打つ心臓を落ち着かせるために、新しい煙草を咥える。早々にやってくるグラスを受け取りながら、深く言及するタイミングを逃してしまっていた。仕方なく、明子はマスターの口車に乗ることにする。
「愛情ですか?」
「人間は寄り添うのが基本かもしれまへんけど、こっちのもんは色々なんです。気に入った相手を喰いたいと思ってみたり、領分が違うことに腹を立てて呪ってみたり、執着して囲ってみたり……まあ、愛だの恋だの、というべきかは分かりまへんけど」
「さらり、と恐ろしいことを聞いたような気がします」
「相手と一緒になる方法が難しいんです。やけど、そういうもんでも情はあるんですよ」
マスターは涼しげな顔のままだ。時々、注文が入って短く返答をしながら、器用に新しいグラスにアルコールを注いでいる。忙しそうであるのに、明子の話し相手はやめる気はないようだった。
「情がなくては、昨晩のお嬢はんに声をかけたりはせんと思いますよ。私は、あのまま地下に案内するつもりやったので」
「地下?」
明子が顔を上げて、煙を吐き出すと、マスターは店の奥へと視線を向ける。そこには下へ向かう階段があるようで、薄暗い店内にポッカリ、と空いた穴があるように、ぼう、と灯りが漏れている。
「この店は、そういう店やと、もう知ってるはるでしょう? 地下には隧道があるんです。死人の通る道で、死にいくもんが歩いていく道です。私はきちんと歩いていけるように、入口まで案内するんも仕事なんですよ」
「死者……そこに私を?」
気の迷いがあったから、この店にたどり着いた明子にとって、それは駅のホームと同じものであるのだろう。噛み締めてから、明子はほう、と煙を吐き出した。
「昨晩のお嬢はんは、そういうお人でしたよ。人間は気詰まりを起こすと、ここに来はる人がおるんです。死んでからでも、生きたままでも」
「私、そんなに気詰まりしてるように見えました?」
「少なくとも、入ってきはった時は、そういうお顔でした」
マスターの声は静かなままで、それが余計に明子の耳によく通ってしまう。グラスを傾けて、シェリートニックを胃に染みこませながら、明子は思い出してみる。雨ばかりに降られた旅行の一日目は、確かに気落ちしていた。予定していたスケジュールが潰れてしまい、傘のせいでろくな写真も撮れず、ずぶ濡れになった。それでも、と意気揚々と歩いている気になっていたけれど、リフレッシュを潰されたような感覚は確かにあった。不幸だなあ、と自身の不運を呪っていたのかもしれない。
「お客はん達は、そういう人に声をかけたりしまへん。私はこの店の主人なんで、お声がけをするんが仕事ですけど、この店の大抵のお客はんは、そういうのに関わったりはせんのです」
「どうして、ですか?」
「無意味やからです。仲良うなっても、どうせすぐにおらんようになる」
マスターは柔らかく細めた目尻を、少しだけ下げた。居なくなる、という言葉の意味が、死ぬということだと、明子は瞬時に理解する。
言葉を交わした誰かが、次の日にはいなくなっている。明子はゾッとした。例えば、それが家族や友人であったなら、その直前に顔を合わせていたのが自身であったなら、明子はその後の生涯の全てで、自身を恨むのかもしれない。行きずりのバーで、少し言葉を交わしただけの誰かだったとしても、きっと夢見は最悪だろう。
だから、あの日、明子は恐怖に震え上がった。
駅のホームから一歩を踏み出していたら、明子はきっと誰かにそんな思いをさせていた。両親は、きっと泣いて明子の名前を呼ぶに違いなかったし、東京にいる友人もどうして、と口の動かない明子に向かって言うのだろう。死、というものの先にある様々な事が、こんなにも容易く想像出来るのに、あの日の明子は自然と足を踏み出そうとした。昨晩も、気づかないうちに、このバーに迷い込んでいた。
不思議と人間は手軽に死を手繰り寄せることが出来るのかもしれなかった。気の迷いが生じただけで、六割の世知辛さを目の当たりにしただけで、普段は深く考えることもしないのに、すぐ傍にある怪物に無意識に気づいてしまう。それなのに、立ち止まれない。自身では、もうブレーキがかけられず、怪物が善良なものに見えている。
顔を青くしたままの明子にマスターは、やっぱり柔和な笑みを向けてくれた。
「まあ、ご自身のことは持ち直したんやから、そう気にせんでええと思いますよ」
まるで奇人のようなに何もかもを見てきたような口ぶりだ。
「……ありがとうございます」
「それよりもオサキはんのことでしょう?」
「ああ、そうでした」
にこにことしたマスターに前のめりになって、明子は言った。
マスターの言うとおり、今の明子は怪物に恐怖している。気づかせてくれたのは、この街で出会った不可思議な奇人だ。生きる術を思い出させてくれたはずの奇人に、立ち位置の修正を望まれている。それは明子の死を望むと同等のことだ。本来なら、拒絶をすべきだと分かっている。
本当は、お酒を飲みながらじっくりと、これからの正誤の問題を吟味するつもりだった。何が正しいのか。どうすれば後悔も反省もなく、歩いていけるのか。それでも、この京都を闊歩する異形の言葉に耳を傾けているうちに、明子の胸中には別のことが思い浮かんでいる。気の迷いがあったとしても、それが死へと繋がっていても、奇人への返答が明子の何かを奪うのだとしても、明子はもう忘れることが出来なくなっている。何度も蘇る奇人の言葉や仕草が、この旅に染み付いている。
「あの、オサキさんが伏見のどこにいるのか、ご存知ですか?」
それが奇人に飲み込まれてしまうのだとしても、きっと明子は言葉にせずにはいられない。
カウンターに身を乗り出しそうな勢いに、マスターが目を瞬かせていた。
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