神格化されたリンカーン像を崩す

ジム・ツカゴシ

第1話 リンカーン夫人は悪妻だったか?

 最も偉大な大統領はだれか? ランク付けが大好きな米国民のことだ。この問いをしょっちゅう耳にする。


 年代順に記せば、建国の父である初代のジョージ・ワシントン、独立宣言の起草者であったトマス・ジェファーソン、南北戦争に勝ち南北に分裂していた国を再統一したアブラハム・リンカーン、そして大恐慌を収拾し、独伊日の枢軸陣を粉砕したフランクリン・ルーズベルトの四人がトップグループである。

 五位から下は諸説が入り混じるが、この四人が順序は別にして必ず挙げられる。現職のトランプ大統領がこれに加わることは先ずないであろうから、この四人はここしばらく健在であろう。

 その四人の中でもリンカーンを最も偉大で尊敬される大統領とするのが最近の米国内でのコンセンサスであろう。それだけにリンカーンの神格化が進み、本人とは別の大統領像が独り歩きしているのも事実である。日本の歴史教科書に現れるリンカーンも五十歩百歩で、史実から乖離して久しい。

 筆者は、そのリンカーンの生誕地から小一時間の地に住んで四半世紀になる。筆者にとっては最も身近な大統領でもある。数回に渡り、神格化されたリンカーン像を解体してみよう。

 

 その第一回目はリンカーン夫人についてである。


 リンカーンが大統領に就任したのが一八六一年の三月。翌月の四月には南部州のひとつであるサウスカロライナ州が連邦から離脱し、同州の港町チャールストン港沖合いに浮かぶ連邦政府の砦を砲撃して南北戦争が勃発した。

 リンカーンが暗殺されたのは、南軍総司令官のロバート・リー将軍が降伏した直後の一八六五年四月のことだった。リンカーン政権はスタートから最期まで戦時内閣だったことになる。

 戦費を賄うためにリンカーンは初のドル政府紙幣を発行している。安っぽい緑のインクだったことから「グリーン・バック」と揶揄された政府紙幣を増刷して戦費調達に苦心する大統領だった。バックは鹿のことで、その昔一頭の鹿が一ドルで売買されたことから、今でもドルはバックとも呼ばれる。戦費の財源確保のために所得税を導入したのもリンカーン時代が米国史上では初のことであった。


 ところがその大統領を横目に、戦争勃発の年だった一八六一年にメアリー夫人は食器や壁紙、カーペットなどを買うためにニューヨークに三度も出かけた。こうしてホワイトハウスの四年分の予算であった二万ドルを初年度で使い切ってしまい、閣内でも政治問題になっている。大統領の当時の年棒が二万五千ドルほどだったから、夫人は年棒に近い金を出費につぎ込んだことになる。


 ニューヨークの高級小売店が贔屓で、四年間に十一度も訪問し、大統領の死後に七万ドルの未払いがあることが露呈している。今日の価値に換算すれば優に百万ドルを超える額になる。

 フランス語に長けたメアリーはフランス流が好みで、当時のフランス妃のファッションを真似た新ドレスを一八六二年には十六着も新調するほどだった。連邦軍の負け戦が続いた当時のことだ。周囲の目にどのように映ったか容易に想像がつく。


 ファースト・レディのパーティ好きはメアリーだけでのことではないが、買い込んだ調度品を披露するためもあってか大規模な宴会を開いている。一八六二年二 月の宴はビュッフェスタイルで、七面鳥、鴨、ハム、雉などがテーブル上に盛大に盛られ、宴は翌朝の未明まで続いた。そのテーブルの中心にペリー提督が持ち帰った日本製のパンチ・ボールが置かれていたと記録されている。

 ペリーが二度目に日本を訪れ日米和親条約が結ばれたのは一八五四年のことで、徳川幕府からの献上品はペリーの航海記にも詳細に記録されている。パンチ・ボールに使用されたとあれば大きな陶器製の器と考えられるが、ペリーの品目リストには当該品が見当たらない。幕府からの漆器や和紙、盃、書箱など大量の献上品を木箱に梱包して積み込んだと記したペリーは、「これらの贈り物はほとんど価値がないものである」と付記し、日本の伝統的な工芸品には関心を抱かなかった。 

 大型の器をどこで手に入れたのか。交渉は幕府が臨時に設けた横浜村の会見所で持たれた。当時は侘しい漁村に過ぎなかった横浜のことで、条約も神奈川条約と呼ばれている。ペリーはこの器を江戸湾への来訪に先立って立ち寄った沖縄か琉球で入手したのかもしれない。


 メアリーの浪費癖と相手を見下す日頃の対人関係から閣僚やその夫人連には大統領夫人は鼻つまみの存在だったようだ。米国史上最悪のファースト・レディだったとする歴史書が少なくない。リンカーンはこのような風評に対して手を打つことなく、また子供たちも悪餓鬼で躾けには無頓着な甘い父親だったようだ。

 リンカーンが観劇中に狙撃されたフォード劇場の喜劇観劇には大統領は閣僚たちにも招待状を送っている。ところが、夫人と同席を嫌う閣僚やその夫人たちがなにかと口実を設けて全員が辞退している。


 これは時代が下がり一八七九年のことだが、南北戦争の英雄として大統領を二期務めたグラントが夫妻で世界周遊に出かけている。日本にも立ち寄り、渋沢栄一が歓迎委員で盛大な歓迎式典を挙行した。芝増上寺の大門をくぐった直ぐ傍に今も残る大きな歓迎石碑を建てているくらいだ。

 その夫妻がスペイン国境に近いフランスの保養地を訪問した。人口三万人ほどの著名な保養地で、グラント夫妻を歓待するために大規模な祝宴が開かれている。

 その地にはリューマチ治療のためにメアリーが四年間も長逗留をしていた。異国の狭い地でお互いにその存在を知りながら、グラント夫妻はメアリーと顔を合わせることもしていない。余程嫌われていたからだろう。


 リンカーン夫妻には四人の息子がいたが、ふたりが病死し、末息子は言語障害でまともに教育を受けていない。長男はハーバードに進学し、鉄道用車両大手のプルマン社社長や一八八〇年代には国防長官を務めた。

 この長男のロバートとメアリーが異常ともいえる折り合いの悪さで、大統領の死後にロバートがメアリーを精神病院に送り込む訴訟を起こし、メアリーは短期間ながら精神病院に隔離されている。ふたりの息子の死でメアリーが新興宗教にのめり込んだことから、ロバートが実母のメアリーには遺産の管理能力が無いとした訴訟だった。

 女流作家のジーン・ベイカーの手になる「メアリー・トッド・リンカーン」(一九八七年刊)なる伝記がある。女性だけにメアリーの性生活にも触れて他の書には見られない大統領夫人の細部が描かれている。同情感が滲み出ているこの書にも、メアリーの強烈な個性と常軌を逸した人間関係にいささか戸惑う著者の想いが漂っている。


 メアリーは日常の生活を黒人奴隷に依存するレキシントンの上流社会に生まれた。そのお嬢さん育ちのメアリーは、田舎の弁護士と州議会議員を兼務する薄給のリンカーン相手の新婚時代には下宿生活を強いられている。

 同居人に混じって水汲みから掃除、洗濯など日常のすべてを取り仕切っているが、庶民にとっては当然のことだった家事も、奴隷制に支えられた南部のエリート社会出のメアリーにとってはすべてが生まれて初めての体験だった。スプリングフィールドを訪れた実父のロバート・トッドが見るに見かねて生活費の一部をメアリーに手渡すほどだった。


 一方、リンカーンは家事に関心が薄く、高度成長時代の日本男児も顔負けの家庭軽視の日常生活を送っている。訴訟案件の獲得を狙って地方都市を巡回する裁判での訴訟をも手がけるリンカーンは留守が多く、連邦下院議員選に出馬した一八四六年には地方遊説が加わり留守がさらに重なった。その間、乳飲み子を抱えて家事を切り回したメアリーの苦労の連続が、ホワイトハウス入りしてからの反動を生んだことも無視できず、同情の余地はある。

 ケンタッキー州内でも最上流の一家に生まれたメアリー。一方は丸太小屋で育った田舎者。流行のファッションを好むメアリーに対して、ブルーとピンクの衣装も区別できないほど服装に無頓着だった大統領。


 このように相反する出自と性格のふたりが何故夫婦になったのか。どうもお互いの打算が働いたからではないかと考えられる。

 寺子屋方式の教室に通ったのが実質的には半年程度といわれるようにリンカーンは正規の教育を受けていない。本人の向学心と向上心がそのような逆境にもかかわらず弁護士資格を得る偉業を成し遂げた。しかし、当時でも大学を経て弁護士になるのが通常で、高等教育を経た同僚が大半を占める法曹界では、弁護士資格を取得しただけでは世間から格別の扱いを期待することは不可能だった。

 中央政界への進出を夢見る若きリンカーンには強力な後ろ盾も存在せず、知名度を得るためにはもっぱら駄洒落をネタに足で稼ぐ有権者対策を強いられている。そのようなリンカーンにとって、スプリングフィールドに住むメアリーの親戚や、その時代に頻繁に見られたケンタッキーからイリノイに移住したエリートたちは別世界の人間だった。そこに降って沸いたのが婚期を逸したメアリーの出現だった。


 当時の米政界の主流は19世紀前半に米国を席巻した、南部が基盤の個人主義と小さな政府を標榜するジャクソニアン・デモクラシーだった。しかし、リンカーンの政治志向は当初から連邦政府の強力な指導力を投入した富国政策で、この政策を唱えていたのがケンタッキー州選出の連邦下院議長でその後国務長官を歴任したヘンリー・クレイだった。

 クレイの政策はアメリカン・システムと呼ばれ、河川改修による運輸手段の向上や、すでに各地で展開されていた鉄道敷設の拡充による産業振興と富の蓄積を理想としていた。池田隼人の所得倍増論に田中角栄の列島改造論を重ね合せたような政策で、これを実現するためにはそれまでの主流だった州権主義ではなく、強大な連邦政府が指導力を発揮すべきとクレイは訴えた。このクレイの後援者のひとりがメアリーの父親のロバート・トッドだった。

 ジャクソニアン・デモクラシーを掲げる南部を基盤にする民主党に対して、この改造論者たちはウィッグ党と呼ばれ、リンカーンはウィッグ党のイリノイ州支部に加わっていた。メアリーとの婚姻はこのような政界で指導層と接するパスを手にすることになる。


 一方、父親には可愛がられたものの継母との折合いが悪く、十歳を越えた時期から寄宿舎のある女子校に通って家出同然の青春期を過ごしたメアリーは、親族に多いエリートたちを見返す機会を待ち望んでいた気配がある。その虚栄心を満たす可能性をリンカーンに期待したのではないか。

 父親と政治家との交流を幼少時から目にしていたメアリーは政治に関心を持つまれな女性だった。結婚後も政治への関心は薄れず、一八五五年頃からは積極的にリンカーンへも意見具申をしている。一八五〇年代後半に周囲が州議会議員選挙への出馬に積極的だったにもかかわらず、州法が州議員の連邦政治家への選挙出馬を禁じていることからリンカーンが踏み切らなかったのも、このメアリーの入れ知恵があったからとされる。


 リンカーンは大統領よりも連邦上院議員が夢だった節がある。大統領に選出されることが冷たい姻戚へのリベンジとするメアリーが背中を押さねば、リンカーン大統領は誕生しなかった可能性がある。

 世間には悪妻に映ったメアリーもリンカーンにとっては良妻だったのだ。家庭はリンカーンが頭が上がらぬカカア天下だったともいえない奇妙な夫妻関係で、これもリンカーンの家事を省みない性格から出たと考えられる。

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