トネリコの木の枝のその先で 私は凡庸なワルツをおどる
名無しの群衆の一人
第1話 『旅』の定義
時の狭間。時の進んだ先。
時が歩みをとめた時。
時を進めることを拒み、あの日あの時あの場所の空気や、想い、苦味、寒さ、倦怠感、執念や諦め、ある種の諦観や漠然とした希望、それらをひっくるめた『思い出』をひとまとめにして、大きなリュックをかついだ旅の商人は道の軒先にそれら思い出を一列に並べていた。
往来を行き来する旅人たちは好奇の目でそれら思い出たちを見て、あるものは素通りしたり、またあるものはそれらを気にしつつも見ないふりをして素通り、あるものは本当に眼中にないようなふりをしたり、あるものは不愉快そうに、またあるものはにやにやと笑って思い出をふんふんとみて回り、そのまま行ってしまうもの。つまり、ほとんど誰もがこの思い出というものに肯定的な目を寄せないでいる中で、商人はそれら思い出という品々を叩き売りするべく売り啖呵を切り出した。
が。
売り物である思い出たちには、旅の商人が誰も目の前にいないのに一生懸命に、めいめい朗々と語りはじめる空威勢と景気の良い啖呵売りの言葉など微塵も心に響いてこなかった。
その商人は、見た目は派手で威勢の良い声を出しはするが、汗と埃と涙で茶色に汚れたハンチング帽の下には何もない。
日焼けした薄手のダウンジャケットに作業着を思わせるシンプルなズボン、懐を入れる両のポケットにはペンシルやら小銭やらがごちゃごちゃと入っておりまるくぶうと膨らんではいるが、その中身はない。
ござを敷き売り物たちを横並びにおいてその横に大きく膨らんだ背負式の布袋を置いているが、その中身も空。
売り物はこれで全部。
これがこの男のすべて。
服の中身も何もない。服の外側だけが人の形をして売りごとの真似をしているようなものだった。
リトルアリスとは何者だろうか。
リトルアリスは何者でもない、ただこの男がゴザの上に並べたてまつり大仰な売り文句と威勢のいい掛け声と啖呵売りをつけて、売ろう売ろう誰か買わねえかと無と闇に売り込もうとしている概念だ。
思い出とはそういうものだと、リトルアリスは道脇の旅商人を見て思った。
通りすがりに声をかけられたので旅のついでに小さいものをひとつだけ買ってみる。
それは一粒の、星の形をした砂つぶだった。
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