これは、希望についての話

 約3ヶ月のリハビリ入院を終え、2018年6月末に息子は退院しました。やり残した事は多く、また、年齢に伴う肉体の成長と共に、出来るようになる事も多くある、との事で、今後、毎年の入院を推奨されました。学校の夏休み等長期休暇中に入院し、集中的にリハビリテーションを行う事で、何でも出来る技術と肉体を手に入れる。これは息子の可能性を広げる為には必須であり、まだまだこれから身体の成長を迎える年齢である息子にとっては、いま、必要な事でした。わたしと妻は主治医に同意し、退院手続きを行いました。


 この入院で、具体的に出来るようになった事は、車椅子の安定した走行、軽度の段差乗り越え。そして、最も重要視されていた間欠導尿を車椅子上で、自己で行う事でした。入院当初は、本当にそんな事が出来るようになるのか、と案じていた間欠導尿でしたが、車椅子上での姿勢が安定した事で、間欠導尿に必要な道具さえ用意して貰えれば、自分で行うことが出来るようになっていました。たった3ヶ月、全身に及んでいた痙性を、ボトックス注射で抑えてから、漸く本格的なリハビリを行う事が出来た、と考えるならば、たった2ヶ月あまりでそれを可能にしたリハビリ内容と、先生方の指導の的確さに驚き、感謝し、そしてやはり、息子の努力の成果に驚きました。


 何故、間欠導尿を自身で行う事が出来るようになる事が、この初回の入院で重視されたか、と言えば、間欠導尿が医療行為であるから、との事でした。医療行為と言う事はつまり、医師、看護師、また、その指導を直接受けた者でなければ、行為そのものを行う事は出来ない、と言う事です。必要な道具の用意や、後片付けは誰でも手伝う事が出来ますが、実際に導尿用カテーテルを陰茎に射し込む行為は、特定の人間にしか出来ないのです。それを自身で出来るようにならなければ、一生、どこへ行くにも、我々親がついて歩かなければならなくなります。更に直近で言えば、一般学級の学校に通う事も難しくなってしまうのです。支援学級には、当然ながらそうした知識を持った方もいらっしゃる、と言う事でしたが、一般学級では保険医の方でさえ、そうした知識を持っている事はかなり珍しいのが現状で、一般学級への復学を目指す上では、ひとつの前提条件となりうる物でした。その為、習得が急がれましたが、息子は無事習得を終えてくれました。またひとつ、自分で自分の運命を切り開いて見せてくれた息子には、これから更に、どんな困難を、まるでなかったもののように乗り越えて行くのだろう、と期待してしまう親バカなわたしがいます。


 こうして、約半年におよぶ治療入院、その後のリハビリ入院、その全てを、息子は乗り越えて帰って来たのでした。失ったものは確かにあり、手に入れられる筈だったものも、多分、その手にする事は出来なくなってしまっただろうとは思います。しかし、退院して自宅へ帰る車を運転しながら思った事は、この半年あまりで得た様々な経験と、様々な出会いについてでした。喪失感が全くない、と言えば嘘になります。それは息子も同じでしょう。しかし、不思議と、希望は、そこに変わらずあり続けるのです。悪性リンパ腫は5年の経過観察、下肢麻痺は毎年の入院リハビリ。また同じ事が起こるかもしれないという不安も、恐怖も、何一つ終わってはいませんでした。それでも、希望は、そこに変わらずあり続けるのです。息子が生まれた日と同じに。息子が始めて立って歩いた、息子が言葉を話した、その日と同じに。


 何も変わってないな、と思えたのです。これは強がりではなく、子どもを育てる、我が子の成長を楽しみにする、息子が何者になるのかを期待する、そうした、親としての気持ちには、何一つ変わりはなかったのです。だからでしょうか。すぐに控えた復学へ向けて、我々親子の心は弾んでいました。困難を数えれば切りがありません。それは、世の中は、何事もなく歩く事の出来る人達の世界だからです。特に考えなくてもトイレに行けて、毎月決まって沢山の診療科に通院する必要のない人達の世界だからです。だからと言って、希望が全くない世界ではないのです。困難があれば、乗り越えて行けばいい。誰かに頼っても恥ずかしい事ではない。寧ろ、格好等気にすることなく、明け透けに自分の全てを晒す事で、理解を得られたり、誤解なく分かり合う事が出来たり、結果として仲間が集まったりもする。息子が体験し、我々親が見た半年間は、もしかしたら、本当は善意で出来ている世界の、人の、縮図のようなものだったのかも知れません。だからこれは、この息子の闘病記録は、希望についての話なのだと思います。息子の、我々親の、そして、全ての人にとっての。

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