3‐27.真夏の夜想曲(side 悠真)
相澤直輝と兵藤桃子、晴の後輩の拓が仕掛けた拉致事件から数日経ち、8月になった。
拓の証言により、クスリを使用したと疑われていた蒼汰の無実が証明された。兵藤桃子も殊勝な態度で罪を認めていると言う。
拓には黒龍の顧問弁護士の氷室龍牙が、桃子には兄の清孝が親身に世話をしているようだ。ただひとり、騒ぎに乗じて逃げ出した相澤直輝の行く末は今はここで語ることはしない。
事件は一段落、彼らには再び平和な夏休みが訪れた……ように見えて、残念ながら高園悠真の心境だけはまったく平和ではなかった。
8月2日、金曜日の午前9時。高園家のリビングの大型テレビが成田空港の映像を映している。悠真はテレビ画面をぼうっと眺めていた。
{バレーナ航空機墜落事故から今日で3年を迎えました。墜落現場の成田空港では墜落時刻の15時19分より追悼式が開かれます。追悼式には天皇皇后両陛下や……}
今年もあの8月2日がやって来た。
今から3年前、1999年8月2日。欧州の航空会社バレーナ社の旅客機が成田空港に墜落した。
事故原因は機械のコントロールトラブル。コントロールを失った機体は着陸寸前に滑走路に墜落。機体は炎上、乗員乗客のほとんどが死亡する大惨事となった。
たまたま芸能人のお忍び旅行のスクープ目的で空港に居合わせていたテレビ局のカメラマンが墜落映像を撮影していた。
燃え盛る機体、騒然とする空港内、泣き叫ぶ人々。それはまさに地獄絵図、何度観ても身震いする光景だった。
墜落した飛行機には悠真が慕うある女性が乗っていた。
彼女は絶対音感を持つバイオリニスト。世界的にもバイオリニスト葉山美琴の名は知られている。
海外公演を終えて日本に帰国するために美琴はバレーナ航空機に乗り、不慮の事故で命を奪われた。葉山美琴死去のニュースは日本だけでなく世界を悲しみに暮れさせた。
{本日午後6時より、日本の至宝と称賛されたバイオリニスト、葉山美琴さんを偲ぶ追悼コンサートが千代田区の東京国際ホールで行われます}
成田空港の映像から葉山美琴の過去の演奏映像に切り替わる。
悠真は8歳から11歳まで葉山美琴にバイオリンを師事していた。当時の葉山家の自宅の隣に美琴のバイオリン教室があり、悠真はそこでバイオリンの指導を受けていた。
弟の海斗はバイオリンには興味を示さなかったが、美琴によくなついていた。
{追悼コンサートでは葉山美琴さんの長女の葉山沙羅さんがピアノ演奏をされるそうです}
悠真が葉山沙羅の名前に反応した。一緒にリビングにいた海斗も同様にテレビに食い付いている。
美琴のバイオリン教室の合間、悠真と海斗は教室の庭先で遊んでいた沙羅に声をかけたのが高園兄弟と沙羅のはじまりだった。
悠真は当時小学四年、海斗は小学二年、沙羅は5歳になったばかりだった。
父親が所属するバンド、emperorには他にもメンバーの子供達がいたが、海外にいることが多かった葉山家の娘を高園兄弟はその時に初めて見た。emperorのメンバーの子供は揃って男だらけで、沙羅が唯一の女の子だった。
沙羅は小さくてふわふわとしていて笑った時のえくぼが可愛い女の子だ。悠真と海斗は一瞬で沙羅に心を奪われた。
それが彼ら兄弟の初恋だった。
高園兄弟と仲良くなった沙羅は悠真のバイオリンのレッスンを見学するようになった。
ゆうくんの音は優しい音だね
サラね、ゆうくんの音が大好き
知ってる? 音には色がついてるんだよ
ゆうくんの音は綺麗なみずいろ
あのお空みたいな色なんだよ
沙羅は悠真を「ゆうくん」、海斗を「カイくん」と呼んでいた。
沙羅と過ごした期間はわずか1年弱。沙羅が小学生になる前に葉山家はアメリカに拠点を移して向こうで生活していた。
3年前の葉山美琴の葬儀で悠真は久しぶりに沙羅と再会した。母親を亡くして泣きじゃくる10歳の沙羅にかける言葉も見つからない。
そして高園兄弟を最も困惑させた事実。沙羅は彼ら兄弟のことを覚えていなかった。
アメリカで美琴と暮らしていた記憶は残っているのに、日本にいた5歳から6歳までの記憶が美琴の死後に抜け落ちてしまったらしい。母親を亡くしたショックを和らげるための一時的な記憶障害と医者の診断が下った。
沙羅の欠けた記憶は悠真と海斗と過ごしたあの頃の記憶。もう沙羅の口から“ゆうくん”と呼ばれることは永遠にない。
美琴の葬儀が終わった後、沙羅は父親の行成とまたアメリカに戻った。今も沙羅はアメリカで暮らしている。
あれから3年。沙羅は13歳になった。
『コンサートどうする? せっかく父さんがチケットくれたし、行くか?』
悠真はアイスを食べている海斗に聞く。海斗は兄を一瞥してまたテレビに視線を移した。
『沙羅のピアノ聴きたいし……行く』
『じゃあ4時半には出るからそれまでに支度しておけ』
『なぁ兄貴。沙羅の記憶ってもう戻らねぇのかな』
海斗は寂しそうな目をしていた。好きな女の子に自分のことを忘れられているのだから当然だ。
『行成さんは記憶が戻らないこともないと言っていたけど無理には思い出させない方がいい。美琴先生との思い出が多ければ多いほど、沙羅のショックは強い。俺達のことを忘れていても美琴先生のことを覚えてるだけまだいい。俺はそう思ってる』
『……そうだな』
食べ終えたアイスの棒を無表情に見つめる海斗が頷いた。海斗に言った言葉は悠真が自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。
どんな人間でも5歳頃までの記憶は曖昧になるものだ。忘れていてもいい。
(だけど俺はいつまでも沙羅を覚えてる。忘れられていても、ずっと)
午後5時半、葉山美琴の追悼コンサートが行われる東京国際ホールのロビーには人混みの中で異様に目立つ集団がいた。
悠真と海斗の両親、emperorベーシストのサトルとサトルの妻、emperorドラマーのツカサとツカサの妻。
伝説のロックバンド、emperorのボーカル、ベーシスト、ドラマーとその夫人が揃っている。この場にコンサートの主宰者であるemperorギタリストの葉山行成が加わればここが今にもライブハウスと化してしまいそうだ。
悠真達は両親から少し離れた場所でその目立つ集団を遠巻きに眺めていた。ロビーを行き交う人々も彼らに視線を送っている。
『親父達、相変わらずギラついて目立ってるなぁ。あんな如何にも俺達はロックミュージシャンだぜ! な格好しなくてもいいのにさ』
悠真の隣でサングラスをかけた長身の男が呟いた。黒いハットを被るこの男も悠真から言わせれば“如何にも俺は……”なオーラを醸し出している。
『
『そう? これでも変装してるんだけど』
サングラスを外してニヤリと口元を上げた男の名前は一ノ瀬蓮。emperorベーシストのサトル(一ノ瀬聡)の息子だ。
『バカ! サングラス外すなよ! お前がここにいるのがバレたら騒ぎになるだろっ』
『海斗、慌てすぎー。大丈夫だって。誰も見てねぇよ』
慌てる海斗を見て調子良く笑う蓮はまた色の濃いサングラスをかけた。蓮は芸歴十年になる売れっ子の俳優。
昔から彼を知る高園兄弟にとってはテレビで見掛ける格好つけた蓮を見ても同一人物だとは信じられない。普段の蓮はノリの軽い自由人だ。
悠真の7歳上の蓮はemperorバンドメンバーの子供達の中で最年長。昔は“れんにぃ”と呼んで蓮の後ろをついて回っていたらしいが、そんな過去は黒歴史にしたい悠真と海斗だった。
『蓮は沙羅とは会ってるのか?』
『半年前にアメリカで撮影あって、現場が行成さんの家の近くだったからその時に少しな。沙羅は俺のこともうろ覚えだったけど元気そうだった。顔つきがだんだん美琴さんに似てきて綺麗になってきて、あれはそのうち彼氏できちゃうかもな?』
蓮は高園兄弟が沙羅に恋をしていることを知っている。一番知られて厄介な人間に一番知られたくない弱味を握られている気分だ。
『蓮、しばらくその口、ガムテープで塞いでやろうか?』
海斗が口の端を上げた黒い微笑みを蓮に向ける。蓮はわざとらしくおどけた。
『きゃー! カイくんこわーい』
『うるせー!』
じゃれあう蓮と海斗を横目に見て悠真は苦笑い混じりに溜息をつく。口数が少なく人見知りな海斗も、小さな頃から面倒を見てきてくれた蓮の前ではよく喋る。
『でもな、悠真と海斗。沙羅は13歳だから手を出すのはまだ待ってろよ。あの子は早熟なタイプじゃなさそうだし。あー、でもこのまま沙羅がアメリカにいるならアメリカーンな男に早々に手を出されちまったり……』
『蓮。やっぱりそのうるさい口、ガムテープで塞ごうか?』
『まぁまぁ悠真、落ち着けよ。お前ら兄弟はいつもはクールぶってるくせに沙羅のことになると余裕ねぇなぁ』
蓮は仮にも日本アカデミー賞主演男優賞を取っている男だが、こんな調子のいい男が我が国の俳優を名乗っていていいのだろうか。
しかし一ノ瀬蓮以上に演技力のある若手俳優はいない。いつか、蓮が主演する作品の主題歌をメジャーデビューした自分達のバンドで手掛けることが悠真の密かな夢でもあった。
そんな夢があることは蓮には言わないが。
ロビーに開場のアナウンスが流れて人々がホールに吸い込まれる。
夏の夜。ノクターンの旋律が心に響く。優しくて穏やかなピアノの調べを奏でるのは初恋の女の子。
悠真と海斗、沙羅が紡ぎ出すメロディーがひとつの物語となるのはここから7年後の、また別の物語。
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