第六話
張り込みを始めて三日目の夜。
セントラルの夜は早い。
店は九時には閉まってしまう。
店が閉まった後は酒飲みと街娼の時間だ。パブに出入りする酔客を目当てに、通りの角々に街娼が現れる。
日が暮れて、通りが暗くなってくると街娼は
まるで猫の様に。あるいは灯りに集まる蛾の様に。
街娼は皆一様に下着姿だ。足首を見せるのははしたないとされているが、街娼はそんな事は言っていられない。今晩男を捕まえられなければ、明日の食事にありつけない。
だから街娼達は下着姿で
街娼は差別をしない。男なら誰でも分け隔てなく誘惑する。
街に散らばったグラムの部下達についてもそれは例外ではなく、騎士達は街娼の誘惑に苦慮していた。
無理に真面目な表情を作り、
ヒューも先ほどから角の街娼に目をつけられて困っていた。
三日目の夜、ヒューにとっては初めての張り込みだ。
街娼がヒューを見つめている。
「…………」
街娼はしかし、ヒューに声をかけようとはしない。ただ
それがもっとも効果的だと彼女は知っているのだった。
男を誘うのではない。男にわたしを誘わせるの。
その方が男は喜ぶし、払いもいい。運が良ければ明日の朝まで男の宿にいられる。
だが如何せんその街娼は若く、経験が足りなかった。
そしてヒューも少々生真面目すぎた。
時折視線が交錯する。妙な緊張感の中でヒューの脇の下から汗が流れる。
街娼が
遠くのパブから光が漏れている。パブの中はどうやらまだ宴たけなわの様だ。賑やかな話し声がかすかに聞こえてくる。
(なんで俺ばっかり)
ヒューは自分が割り当てられた通りを呪った。
街娼はまだ十五、六歳といったところか。あまりに若すぎる。
(俺は、年上が好きなんだ)
妙な事を心の中で力説する。
もし、もう少し街娼が年上だったらあるいは状況も違っただろう。
生真面目なヒューでもひょっとしたら暇潰しに少し街娼と立ち話をしたかも知れない。
だが、子供相手に話す話題をヒューは考えつかなかった。
(王室はもう少し
ヒューの苛立ちの矛先が変わった。
(こんな年端も行かない少女が街に立つ。王室はそれを異常だとは思わないのだろうか?)
とその時。
人気のない通りの向こうから、大きな人影が静かに近づいて来ることにヒューは気づいた。
大男だ。
身長はヒューよりも高いだろう。ヒューも平均的な男性よりは大きかったが、近づいてくる影の大きさは少々常軌を逸していた。
その人影はふと、
半袖の白いヘンリーネックシャツにサスペンダー。茶色い作業用のズボンを履いている。分厚い胸板にヘンリーネックのシャツのボタンが弾けそうだ。
「…………」
ヒューの見ている前で、その人影は後ろのポケットから何やら紙片の様な物を取り出した。
その紙片を腕に乗せ、ブツブツと呟き始める。
「────」
魔法呪文の起動式。しかし、騎士のヒューはそれが呪文であることを知らなかった。
(何を言ってるんだ? あいつ)
どこか、外国の言葉の様な節回し。不思議な発声、知らない単語。
暗く、禍々しい気配が漂ってくる。
最初、ヒューには何が起こっているのか判らなかった。
だがヒューの本能が告げている。これは、まずい。
「お嬢さん、ここは危ない。下がって」
大声で街娼に声をかける。
「え?」
街娼が驚いた様に目を丸くする。突然表情が幼くなる。
男は、今度は違う言葉を呟き始めた。
「────」
同じ発声、違う単語。
違う呪文だ。
男の右腕がぼんやりと輝いた。内側から輝く様な不思議な光。
と見る間にこちらに向かって男が走り始めた。
見た目とは異なる素早い身のこなし。
「クソッ」
ヒューの左手が鞘を握り、右手が剣を抜こうとする。
だが、男の方が速かった。
強烈なタックル。
「ゲハッ」
剣を抜く間もなく体当たりを食らい、くの字になったヒューの身体が宙を舞う。
ヒューの身体はゴロゴロと通りを転がった。
「グッ」
ヒューの息が一瞬詰まる。
「ヒッ」
突然始まった格闘に、街娼は細い身体を竦ませた。
「逃げ、ろ、お嬢、さん」
ヒューがよろよろと立ち上がり、剣を抜く。
男と街娼との間に割って入り、自分の身体を盾にする。
(なんだ、これは?)
これが人間のパワーなのか? まるで馬車に跳ねられた様だ。
余裕なのか、男はゆっくりと
刈り上げられた茶色い髪、濁った瞳。
首を回すたびにコキコキと音がする。
(こいつがウィラードなのか?)
殺しは、しない。
戦場に出たことがないヒューは人を殺したことがなかった。だからどうしても判断が甘くなる。
殺しはしない。
だが、動けない様にはなってもらう。
「ウォーッ」
ヒューは雄叫びを上げると剣を振り上げた。渾身の力を込め、両手で握った剣を頭上から振り下ろす。
(腕は、もらう)
ガインッ
まるで金属と金属がぶつかる様な嫌な音。
「!?」
剣が何か硬い物体にぶつかった衝撃に腕が痺れる。
想定に反してヒューの振り下ろした剣はガードしたウィラードの腕に止められていた。
「……なに!?」
驚愕にヒューの目が見開かれる。
すかさずカウンターアタックを食らった。
無造作な横殴り。生身の攻撃。
何か特別な武具を身につけている様には見えなかった。それなのに、その攻撃はまるで鉄の棒で殴られた様に強烈だ。
頬骨を砕かれ、ヒューの目の前に火花が散る。
「ガッ」
口から折れた歯が飛んでいく。
なんだ、これは?
これが生身の人間の仕業なのか?
ヒューの頭が混乱する。
脳震盪を起こしながらも、ヒューはもう一度斬りかかった。
しかし、再び弾かれる。
「キャーッ」
と、街娼が絹を裂くような悲鳴を上げた。そのまま、脇目も振らずに一目散にパブの方へと走っていく。
(そうだ……逃げろ、お嬢さん)
再びウィラードのパンチを食らった。
「グッ」
肋がミシミシと音を立てる。
(一体何を、どうしたら……)
俺だけでは、勝てない。
(仲間を呼ばなければ……)
制服の内ポケットに手を伸ばし、昼間打ち合わせた通りに信号弾を取り出す。
ヒューはよろよろと信号弾を頭上に構えた。
パスッ……。
導火線を光らせながら赤い信号弾が打ち上げられる。
信号弾は十分な高さまで打ち上げられると、静かに燃焼を始めた。
パラシュートに吊るされ、赤い信号弾が光りながらゆらゆらと落ちてくる。
(早く来てくれ)
ヒューは部隊の者が集まるまでの時間を稼ぐため、身体中の痛みを堪えながら剣を構え直した。
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