本篇19、恵子さんの再婚

増田朋美

第一章

恵子さんの再婚

第一章

春が間近のその日、恵子さんは張り切って水穂の虫干しをした。つまり、敷き布団とかけ布団のカバーを全部洗って、枕のカバーも洗って、水穂の療養のための道具は、全部洗ったのだった。水穂本人は、縁側に座布団を強いて、その上で寝ていた。

すっかり干すものは干して、ああいい気分、と、お茶を飲みながらのんびりしていると、水穂がまた咳こみはじめた。恵子さんにしてみたらよい迷惑だ。もう、このタイミングでなぜ!と思いながら、背中を叩いたり、さすったりしても、治まらない。

「ほら、大丈夫?」

はじめはいつも通りに咳こんでいるのかなあ、と思うのだが、その日に限ってひどく咳き込む。せっかく布団を干したばかりなのに、何でまた!と、恵子さんはいやになってくる。

返答は返ってこない。ひどく咳き込んでいる音だけである。

「もういいかげんにして!」

さすがの恵子さんも怒ってしまった。

「これじゃあ、虫干しした意味がないじゃない。またぬか喜びさせるようなことするんだからあ。」

恵子さんがいうと同時に、口に当てたて指から、ぼたぼたと、赤色の液体が落っこちてきたものだからたまらない。あーあ、せっかく、いい気分だったのになあ、と恵子さんはため息をつく。

頼むから座布団まで汚さないでよと、思ったが、それは、どうも無理そうで、赤いものはぼたぼたと、座布団の上におちる。これでは、また、洗うものが増えそうで、恵子さんは、本当にがっかりしてしまった。

その考えているにも、水穂が咳き込む音は更に大きく強くなる。

「こんなときに困るでしょ!なんでまた、こんなときに、咳なんかするのよ!」

と、言っても、無駄なのはわかるのだが、言いたくなってしまうのだった。本人をせめてもしかたないことは、よくわかっているのだが、こうなると、文句を言いたくなってしまう。

ちょうどそのとき、玄関の戸ががらがらとあいた。青柳先生が、何かしゃべっている声がする。そう言えば、今日恵子さんの母親である前田春子と、父の前田勇が、来訪する日ではないか!前々から決まっていたが、すっかり忘れていた。

「水穂ちゃん、お客さんがきちゃったから、いい加減にやめてもらえないかしら。今日、うちの家族が様子を見にくるのよ。知ってるでしょ?」

ちょっと強気でそんな発言をすると、水穂は頷いてくれたようではあったが、そういっているそばから、激しく咳き込んだ。

ああどうしよう、放っておけないしなあ、と、恵子さんが困っていると、突然、鶯張りの廊下が鳴り出して一人の男性が現れた。決して今時の男性ではなく、すごく真面目そうだった。

「恵子さん、おかあさん待ってますから、ちょっと玄関へいってきてください。この人は僕がみます。」

と、いうその男性。恵子さんは、彼のいう通りにするしかないと思い、

「ありがとう!じゃあよろしくね!頼むわね!」

と、玄関へすっ飛んでいった。そのときは、彼の詳細はまだはっきりとは見られなかった。

恵子さんが玄関先に行くと、母の前田春子と、父の前田勇が、青柳先生と話していた。

「恵子が、しっかりとやっているかどうか、調べるためにこっちへ来させてもらったのさ。ほら、いちど、ノイローゼになって、福島に帰ってきたことがあったじゃないか。あのあと、定期的にこっちへ来ようと思ってな。」

父前田勇は、でかい声でいった。そのでかい声は、まさしく田舎者そのものだった。

「こっちは、福島に比べると暖かくていいわねえ。雪も降ってないし。食べ物もおいしいし。どう、恵子。ちゃんとやってる?」

丸顔の母春子は、まだ自分を子供扱いしている。おかあさん、あたしはね、もう、50もとうに越しているというのに。

「やってるにきまってるでしょ。あたし、こうみえても、みんなから食堂のおばちゃんと言われているんだから。」

「はい、料理の腕はたしかだと思いますよ。そこははっきりしています。」

恵子さんの発言に青柳先生が、助け船を出してくれた。

「で、恵子。利用者さんに振り回されて、あんたまで落ち込んだりしていないでしょうね?」

母春子は、嫌な質問を始めた。

「おかあさん、ちゃんと、やってるわ。ふりまわされるというか、すぐに助けなきゃならないひとがいるから、ちょっと戻っていいかしら。でないと、かわいそうだから。」

「恵子さん、遠方からみえたんですから、もう少しゆっくりしたらどうですか?」

青柳先生まで、のんびりという。

「先生、水穂ちゃんが、今さっきまで大変だったんですから、もう、戻らなきゃいけませんわ。」

と、恵子さんがいうと、

「ああそれなら心配ない。あの小濱くんが、しっかりやってくれているとおもうよ。」

と、父勇がいった。

「小濱くん?」

恵子さんは思わずすっとんきょうにいう。小濱くんが、あの男性のことであるとわかるまでには、数分かかった。

「誰よ、小濱くんって。」

と、変な顔をして首をかしげる恵子さん。

「あの片腕の男性のことだ。片腕以上によく働くから、助かるよ。」

平気な顔をして父は答える。

「小濱くんって、片腕?」

「そうなんですよ。片腕なんですがなんでもよく働いてくれます。うちのりんご畑で、先月から働いている男性なんです。うちが直接求人を出したわけではないのですがね、地元の農業組合が、農業にまつわるイベントをしたんですよ。その時に、たまたま彼が来ていましてね。わしが、一寸指導をしたらとても感動してくれて、農業をしてみたいというものですから、うちで雇いました。まだ見習いですが、一生懸命やってくれてます。」

「ほんと、片腕なのになんでもしてくれて、あたしたちは助かっているんですよ。後継者がなくて困っていましたら、やっとよいひとが現れてくれたみたい。」

父と母はとても嬉しそうにいうのだった。

「まあ、五体満足ではありませんので、心配なこともありますけどね。障害者故の心配はありますよ。やっぱりしっかり働けないで申し訳ないとか、思うんですよね。」

「そんなことは、とっくにわかってますよ、青柳先生。完璧にできないからこそ、してくれることだって、たくさんあるじゃないですか。わしらは、 そういうことはよくしってますから。」

父がにこやかにそういうが、恵子さんは心配になって、四畳半に戻ってしまった。

四畳半にいくと、まだすこしばかり咳き込んでいる音は聞こえてきた。

「すみません。もうちょっとまってください。僕は、片腕なので、一度にたくさんの物が持てないんですよ。」

水穂は咳き込みながら頷いた。男性は、物干し竿に干してあった布団をよいしょと持ち上げて、ピアノの前にしいてやり、枕をのせた。

「じゃあ、横になってくれますか。」

と、水穂を抱え起こそうとするが、そのときに、恵子さんははじめてみた。男性の左袖には先がなく、ただぶらぶらと意思に合わずに動いている。彼は、片腕とは本当で、まさしく左腕がないのだった。勿論片腕だから、抱え起こすには全く意味がない。

「恵子さん、すみません。僕はできないので、ちょっと手伝ってください。」

「わかったわ。」

そういわれて、恵子さんはいそいで水穂を起こし、体を支えて立たせ、よいしょ、と布団まで歩かせた。その間に、彼は他の布団を物干し竿から下ろして、布団に寝た水穂にかけてやった。

「カバーもなにもないですけどすみません。まだ、乾いていなかったのです。」

といい、今度はすぐにモップを見つけ出して、吐瀉物の始末をする男性。確かにくるくるとよく働く男だ。ある意味、健常者よりもすごい、、、。

「ご迷惑かけてすみません。」

やっと、咳の数が減少してきた水穂は、二人にたいしてそう謝罪したが、

「いえ、大丈夫です。僕は、金を払うこともできませんので、体でいくらでも払いますから。」

と、にこやかに笑って、男性はそう返すのだった。

「あなた、いったい、なんなのよ。」

恵子さんは、また、疑わしくそうきくと、

「あ、すみません。名前をまだ名乗っていませんでしたね。小濱秀明と申します。」

と、しっかり答える男性。

「出身は?」

「北海道の留萌です。」

それは随分、北国から来たものだ。道理できびきび動けるわけだ。

「変な名前のところから来たものね。どうして左腕がないの?」

「はい。子供の頃、学校でいじめられて、大ケガをしたんです。肩から左腕をすべて切断しました。」

なんて、さらりと返す秀明は、明らかに普通にいきている人間とはちがう、明るさを持っていた。

「お父さん、もうホテルにチェックインする時間だわ。」

母の、前田春子が腕時計を見ていった。

「そうだなあ。先生、とりあえずわしらはこれでホテルに戻りますが。」

父の、前田勇がそういうと、

「ホテルはどちらか予約していらっしゃるんですか?」

と、青柳先生が聞いた。

「いや、していません。少なくとも、福島や北海道に比べたら、あるのではないかと思って、調べてもいませんでしたね。」

父親がそう答えると、

「そうですか。富士市内は、比較的ホテルがすくないので、ちょっと聞いてみます。」

と、青柳先生は、持っていたタブレットで、ホテルの予約サイトを開いた。

「ダメですね。三人部屋はもう一杯なようですよ。」

事実、そうなのである。ホテルは富士には数少なく、すぐ一杯になってしまうのだった。

「先生、それならこちらの部屋を貸してもらうわけにはいきませんか?」

不意に秀明が最もらしくいった。

「ああ、わかりました、幸い、空き部屋がありますから、そちらへどうぞ。お父様がたは、ホテルに泊まってください。」

快く、懍も承諾する 。父親が四畳半にやってきて、俺たちはホテルに泊まるが、小濱くんはどうする?ときくと、しばらく製鉄所にいたいといった。

「ありがとうございます。しばらく先生の下で働いてみたいと思っていたのです。」

嬉しそうにいう小濱秀明は、恵子さんにたいしてよろしくお願いいたします。と、座礼するのだった。水穂も、違う意味で、礼をしようとしたが、それは咳に邪魔されてできなかった。

と、いうわけで恵子さんの父母はそのままホテルに帰ったが、小濱くんという男性は製鉄所に泊めてもらうことになった。

その小濱秀明という男性は、非常によく働いてくれる人物だった。

片腕でありながら、利用者たちの食事をくばってくれて、洗濯物も畳んで、水穂の布団カバーもつけてくれた。利用者たちも、この男性を大いに気に入って、よく声をかけた。中にはアメリカの大統領に名前がにているとかいってからかう利用者もいたが、そんなことは、平気なようだ。繊細で壊れそうな美しさのある水穂とはまた違ったよい顔でもあって、どこかの俳優さんにちょっとにているよ、なんていう利用者も少なくなかった。

ただ、片腕であるため、仕事をするペースは非常に遅かった。それは、しかたないのだが、ある意味苛立ちも感じさせた。

「水穂ちゃんに、ご飯食べさせてやってちょうだい。なるべくなら、完食させるようにしてね。」

恵子さんが、そうお願いすると、秀明は、わかりましたといって、右手のみでおかゆの乗ったお盆を持っていった。

「水穂さん、ご飯ですよ。」

と、秀明は、水穂にゆっくりといい、枕元にお盆を置いた。水穂もそれに気がついてよいしょと、布団の上に座った。

「はいどうぞ。たくさん、たべてください。」

水穂は、差し出されたお匙を受け取り、おかゆを口にした。

「じゃあ、もう一度、どうぞ。」

またお匙が差し出されると、しっかり口にしてくれた。

しかし、三度目には首を横に振る。

「水穂さん嫌ですか?」

「ええ、もう食べる気がしないんです。」

ここで、恵子さんであれば、でかい声で怒るのが常だが、秀明は、感情的になって怒ることはしなかった。

「そうですか。でも、栄養をとらなくちゃ。」

もう一回、お匙が差し出された。

「で、でももう食べる気が。」

水穂がそういうと、

「僕も、片腕なので、食べるときにはちょっと辛いものがあるんですよ。」

と、秀明は語りはじめた。

「確かに嫌ですよね。他人の手を借りながら食べると、食べる気は確かにしなくなりますよね。まあでも、それはしょうがないというか、食べないと栄養はとれませんから。」

確かにそれは最もなことだ。大の大人が誰かの手を借りて食べるなんて、相当恥ずかしい気がする。

「僕もね、よくステーキ屋さんなんかいきますとね、自分の手でステーキをカットすることができないので、まあ回りのひとが変なやつ、という感じで見るんですよね。だけど、店員さんたちも嫌な顔せずやってくれる人もいれば、そうじゃなくて嫌そうな顔をしてやる人もいますので、店の格という物を知ることができて、小濱くんといくと、助かるよ、なんて言われたことがありました。なので、そういうことができるじゃないか、と思い直して、手伝ってもらうようにしています。」

明るくにこやかな顔で、そんなことを語る秀明は、どこか、緊張を和らげるような雰囲気があった。

「だから、手伝ってもらいながら食べるのも悪いことじゃないです。発送を切り替えれば、なんでもいい方へ動いてくれますよ。僕は辛いことがあれば、いつもそれを言い聞かせて頑張ろうと思ってますよ。まあ、そうならないこともありますが、大概はそうなるんじゃないかなあ?」

「すごい人ですね。悪いけど、僕はそういう発想ができる身分ではありませんよ。」

水穂はそういったが、秀明はとりあえずそこは無視して、

「そうなのかも知れませんが、今ここに、批判するような人はおりません。ですから、何も気にしないで、ご飯を食べちゃってください。」

というのである。

これには、水穂も負かされてしまったなと思い、食べる気がしないおかゆを何とかして飲み込んだ。匙を返すとすぐに次の匙が差し出される。こうなったら、食べるしかない。これを何回も繰り返して、お皿の中身はすっかり空っぽになった。

「食べられたじゃないですか。これはよかった。世の中には、手伝ったんだから礼くらいしろ、見たいな人もいますけど、僕はそんなことは、しませんよ。食べるのは当然のことですから、それができるといいますのは、本当に幸せなことですからね。それに礼をしろなんて、幸せに水を指すようなことは、 やっぱりしたくないですしね。楽しくなくなっちゃいますからね。」

「いえ、ありがとうございます。面白いことを話してくれたりして、ほんとに助かりました。」

水穂は、そういった秀明の話を打ちきり、にこやかに礼をいったのだが、

「だから、礼なんていりませんよ。さっきも言いましたけど、食べるのは当たり前なんですから、それに変な気を使うのはやめにしましょうよ。」

というのだった。

「水穂さん、体が弱って動作に不自由するからといって、なんでそんなに周りにきをつかうんですか?」

そういわれても歴史的な事情なんて、わかってもらえるだろうか?水穂は答えるのに困ってしまった。

「たぶんきっと、僕より悪い人間はいませんよ。少なくとも水穂さんは僕みたいにいつも相手に頭を下げないと生きていかれないという事情があるわけではないでしょう?」

と、いうことは、彼も同じ身分なのだろうか。しかし、北海道に同和地区はあったのだろうか?それともアイヌとか蝦夷のような異民族の出身者かと考えたが、そのような特徴は全くないので、大和民族であることは、疑い無かった。同じ理由で、ユダヤ人のような差別的に扱われた人の血を引いているわけでもなさそうである。

「だったら気にしなくていいんです。僕のことは、性能が悪い働き蜂くらいに考えてください。」

再度、秀明はそういうが水穂はさらに疑いを持ってしまうのだった。

「もしかしたら知っているんですか?僕のこと。」

「いいえ、知りませんよ。水穂さん。まだ、初対面です。それに、水穂さんのほうが、僕より地位的にははるかに上じゃないですか。優秀な大学だって出られたんでしょう?恵子さんのお父様がそう話していました。ものすごい難しい音楽学校を出て、すごい天才なんだって。」

「僕は、天才でもなんでもありません。ただの、スラムからきた道化師みたいなものです。」

秀明は、そういったが水穂はすぐに打ち消した。

「皆さんそういいますけど、そうしなければ生活費を作れなかっただけのことですよ。天才なんて、そんな称号をもらえる身分ではないんですよ。」

そこをいい終わると、気持ちが高ぶったのだろうか、水穂はまた激しく咳き込んでしまうのだった。

「ああ、わかりました。もうそれ以上追求はしませんよ。確かに、貧しかった過去を隠したくても、病気のせいで隠せないのはおつらいですよね。でも、僕みたいな身分の人もいるってことを知ってください。僕は、わがままをいって、ひとがやってはいけないことを平気でしてしまったんです。水穂さんは、貧しかったかもしれませんが、少なくともそんなことはしてないんですから、堂々としていていいんじゃありませんか?そこだけは、はっきりしています。だから、手伝ってもらってくれていいんです。僕とはそこがちがうんですから!」

秀明は、水穂の背中をさすりながら一生懸命励ました。

水穂も、日本人でありながら、自分よりへりくだるなんて、一体どういうことなのか、聞いてみたかったが、それより咳に邪魔されて、どうしても質問できない。

「あ、ほらほら。もう気持ちが高ぶると、また出てしまいますから、落ち着いてください。大丈夫ですから。しっかりして。」

秀明は、一生懸命背中をさすって、水穂をなだめたが、とうとう指の間から、またぼたぼた落ちてくるのだった。文句ひとつ言わないで秀明は畳を拭いてくれたが、どうしてもこの人に礼をする気にはなれない水穂だった。

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