砂糖菓子より甘い思い出
太陽が海の向こうへ眠りにつく頃、店頭に並ぶパンが残り僅かになったのを確認したロナルドは、店を妻に任せ厨房で息をついた。沁みついたパンの香りを胸いっぱいに吸いながら、淹れたてのコーヒーを流し込む。痛いほどの熱さが喉を刺激するのを堪能していると、視界の隅に真白な箱がちらついた。ロナルドの表情が歪む。
『お願いします。あなただけでも、食べてください』
昨日追い返したはずの少年は、めげずに今日の昼過ぎにロナルドの前へと現れ、頭を下げながら半ば押し付けるように彼の作品を置いていったのだ。コック帽子を取り、箱を引き寄せる。自分の娘と歳の変わらない少年が懇願する姿を見て、何も思わないほど非情な人間ではない。本当なら今日も追い返すべきだったのに、シエナ色のレンズの向こう側で煌めく星を見てしまったら、断ることが出来なかった。
少しだけ震える指先で箱を開けると、まるで宝石のように艶やかなベリーが飛び込んでくる。ふわり、春の甘さが鼻を掠めてロナルドの胸を躍らせる。今まで見たどの作品よりも輝いているベリーのタルトを前に、溜まった唾を呑み下す。口にしなくても想像に容易い。美味しいに決まっている。それもとびきりに。
ここで止めればいいとわかっているのに、磨き上げられた作品を見てしまえばフォークを握るしかなかった。
一口食べるだけだ。自分は春宴の主催者なのだから、審議する必要がある。何も間違ってはいない。ただ与えられた役割をこなしているだけだ。
脳内に並べた言い訳は、口の中でベリーが弾けた瞬間飛び散った。程よい酸味と絶妙な甘みを奏でる果実と、それを更に引き立てる滑らかなカスタードの共演を存分に楽しみ、嚥下する。後を引く美味しさに、手が止まらない。
箱の中にはタルト生地の欠片が転がるだけになり、ロナルドは茫然とフォークを下ろした。
彼の、アズの料理に、太陽に似た輝きを感じたのは、三年前初めて彼が春宴の作品を持ってきたときだった。人を笑顔にするどころか、生きる活力を分け与える力が、彼の料理には込められている。たった一口で人を魅了してしまう作品に恐れをなし、食べることをやめた。うっかり「これを宴に並べよう」と喜んで彼の手を握ってしまいそうだったからだ。そんなことをしてしまえば、ロナルドの生活は危うくなる。
「なんてことだ…」
冷たくあしらえば、料理を嫌いになってくれるだろうと思っていた。けれど彼の腕は年々洗練され、魅力を増していく。見た目も香りも、勿論味も、この島の誰よりも「美しい」。
この才能を摘み取ることが、本当に正しいのか。
ロナルドは両の手を握り締め、額を押し付けた。親愛なる神は、どうしてこうも厳しい試練をお与えになるのだ。
「…どうか彼に、豊かな未来が切り開かれますように」
****
摘み立てのミントの香りをもし色に出来たのなら、これとよく似た柔らかなグリーンがぴったりだ。
ふわり、揺れる萌黄色のスカートを目で追い、視線を上げていくと控えめなフリルがついた蜂蜜色のブラウスと紅色のリボンに辿り着く。随分とスタイルが良い女性で、リボンの下で豊満な胸がブラウスを圧迫している。清楚な服装に反して派手な身体つきは、それだけでかなりの注目を集める。アズもその一人にすぎない。普段ならどれほど綺麗な女性を見かけても、これほど視線を奪われることなんてないというのに、瞬きもせずに彼女を見つめてしまう。
熟れた果実よりも赤い唇から、一体どんな音が紡がれるのだろうか。雪のように白く、陶器よりもなめらかな肌の温度を確かめてみたい。ふつふつ、湧き上がる歓喜と興奮、そして底知れぬ欲望の名前を、アズは知らない。
美しいパーツを完璧な位置に並べた非の打ち所のない美貌に、指先が冷えていく。一度目にしたら目蓋の裏に焼きつく絶世の美女、だというのに、何故か既視感を覚える。
道行く人すべてが脚を止め、目を瞠り、口をだらしなく開けている。
街頭のそばに立っている美女は、この島の地図を見ているようだった。目当ての店を探せないのか、微動だにせず地図を凝視している。迷子、だろう。いつもであれば、気さくな住人が声をかける場面なのに、誰もそれをしようとしない。作り物の人形よりもいっそう磨き上げられた
その状況を打ち破ったのは、神様の最高傑作だ。
蝶の羽ばたきを響かせながら長い睫毛が持ち上がり、ようやく覗いた蠱惑的な飴色とアズの視線がかち合う。
「・・・うぇ、」
それだけで、全身に鳥肌が立った。
足音を一切立てずに彼女が歩くたびに、春の丘色のスカートが揺れて柔らかそうな太腿が見え隠れする。心臓を殴る脚の白さに眩暈を覚える。
「このあたりでお勧めのお店、ない?」
零れ落ちそうな飴色の目にジッと見つめられ、硬直してしまうアズ。ぎぎぎ、と油を差し忘れたブリキ玩具みたいな音を立てながら左右を確認するが、周りには誰もいない。
「ちょっと」
「ひゃいっっ」
駒鳥の囀りと遜色しない軽やかな声が耳を撫でる。こそばゆさに肩が跳ね、声が裏返ったが、女性はまるで気にしていないようだ。ゆっくり蝶を羽ばたかせ、アズが落ち着くのを待っている。
「え、っと、おれ、で?」
「そう。一緒に来る予定だった子がぐずって一人で降りたのはいいけど、土地勘がなくて」
右手を顎に添えて首を傾げる彼女は本当に困っているようだ。少し皺になった地図をアズへ半ば押し付ける形で渡す。これは答えるまで解放されないな、と察したものの、彼女の好みが分からないことには答えようがない。
「あ、えっと、その、」
手が届く距離には誰もいないが、物陰からひっそりこちらを伺っている島人がいるのは流石のアズでもわかる。居心地の悪いそれに身を捩るアズとは打って変わって、彼女は何も言わずにアズを見つめている。不躾な視線にも慣れているのだろう。
「好きな食べ物って…」
「おれ?美味しいものが好き」
答えになっていない答えに頭を抱える。一人称に違和感を覚えたが、些細なことだ。音をつけるなら、きょとん、が一番ふさわしいだろう幼げな表情で見つめられれば、どんな願いでも叶えたくなってしまう。
これほどの美女に声を掛けられるなんて、一体どれほどの強運なのか。ここ数日あまりにもついている。
少し荷は重いが、これでも料理人志望の身。美味しいものを求めている人の声に応えられないなんて情けない真似はできない。
「どんなものが食べたい気分ですか?」
「軽めに食べられて、さっぱりしたもの、甘いものも少し欲しい」
前トニーに紹介した店を紹介しようかと思っていたが、彼女の気分には当てはまらないようだ。あと近場にあるのは、サンドウィッチにも力を入れているパン屋とワインの取扱がメインのダイニングバー。
「野菜食べたい、出来れば肉も、今日はパンじゃない、あと、量はあまり食べられない」
淡々と増やされる注文に、数々のメニューが候補から消えていく。
「あ、デザートはベリーが使われているのがいいな」
ふたつの店のメニューが×印だらけになった脳内で、それらを強引にテーブルから奪い取り、一冊のノートが置かれる。ぱらぱら捲っていくと、どのページにもダークブルーのインクで文字やイラストが殴り書きされている。見慣れたそれは、アズの頭の中のレシピノート。
最新のページに行き着き、アズは唾を呑み込んだ。
「あ、の、」
からからに渇いた喉に張り付く言葉を、無理矢理引き剥がす。
「もし、よかったら、」
口は上手く動かないくせに、頭の中では家にある材料の確認と、それらを活用でき彼女のリクエストを全て網羅する料理を構築していく。
「おれの家、来てもらえませんか!」
一世一代の告白かのように気合の入った声に、彼女はイベリスを彷彿とさせる甘い笑顔で頷いた。
食べやすい大きさにちぎったサニーレタスの上に、黒胡椒の効いたポテトサラダを半球状に盛り付ける。プチトマトと軽く茹でた絹さやを添えれば彩りも見た目も、少しだけ可愛くなる。「いただきます」両手を合わせる美女の名前は、美咲。ここ数日東の国に縁があるらしい。小さな口でゆっくり咀嚼する姿に見惚れそうになるが、堪えて次に取り掛かる。
沸騰したお湯に塩とパスタ麺を入れ、その間に鶏もも肉を一口大に切り、玉ねぎと一緒にオリーブオイルで炒める。茹で上がったパスタと絡め、おろした梅を二粒分合わせて味を調えていく。深めの皿に盛り付けて、細切りにした海苔としそを飾れば完成だ。量が食べられないと言っていたから、デザートのことを考えるとこれぐらいが丁度いいだろう。少し多くてもさっぱりした梅のおかげで、食が進むはずだ。
「…美味しい」
「本当?よかった」
「願い通りのものを作れるなんて、うちに欲しいぐらい」
思わず魅入ってしまうほど所作まで美しい美咲は、もしかしたらどこかの国の令嬢なのかもしれない。ふっくらした唇が満足そうに弧を描く。
「アズ、って言ったっけ?」
「うん」
重い睫毛を難なく持ち上げ、飴色がアズを見上げる。砂糖よりも甘そうな瞳は、思わず口付けたくなるほど蠱惑的だ。無意識のうちに唾を呑み下す。
「もしかして一昨日、チャラいのと不愛嬌なのが来なかった?」
「一昨日…って」
その日ここへやってきたのはアンソニーと峯だ。何故それを美咲が知っているのだろうか、と首を傾げたアズはひとつの可能性に気付き声をあげた。
「美咲さんもしかして!
「…なにそれ」
鼻息荒く詰め寄ったアズから逃げるように腰を引く。柳眉を顰め左手で器を引き寄せながら、小さく息をついた。
「そんなんじゃないけど」
「そうなの?ならどうして知って…あ、」
例えば彼女が
だとすれば一昨日、もしくは昨日彼らに出会った人と考えるのが妥当だ。世間を騒がす美形の一人であるアンソニーと、同性であるアズでさえも一目で虜になってしまった峯。そして目の前にいる傾国の美女。若いアズの脳内で、ベッドで絡まる三人の姿が浮かび、耳まで見事に赤く染まった。
「ちょっと。それも違うから」
アズの様子に全てを察した美咲は、棘のある声で青い思考を切り裂いて、熱い頬へ冷えたグラスを押し付けた。
「すみません。…え、じゃあ?」
何事もなかったかのようにパスタを頬張った美咲は、何か考えるように視線を逸らした後、ゆっくり喉を上下させる。二度、蝶を羽ばたかせ、小さな唇を赤い舌で舐める。
「星が流れたら、教えてあげる」
「…星?」
「ね、デザート食べたいな」
意味の分からない言葉を追求する前に、まるで内緒話をするかのように耳元で頼まれれば、自分のちっぽけな疑問などどこかへ飛んで行ってしまう。慌てて立ち上がったアズは、いそいそとベリーのタルトを取りに行った。
その小さな背中を楽し気に見つめていた美咲は、着信を告げる
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