きみの眠り
頭の中で、鐘が鳴り響いた。なにかを祝福する清廉な音ではなく、重く煩いそれは
「雪愛様、お目覚めください」
「っは、…‥はっ、あ、」
朝露によく似た声が、雪愛の意識を引っ張り上げた。
ここは、闇よりも暗い森の中ではない。荒い呼吸の合間に耳を撫でるのは、自分の鼓動よりも落ち着く波の音。船特有の揺れ方にも、随分と慣れた。
歪む視界には、見慣れた顔が情けなく眉を下げて、雪愛を覗き込んでいる。名前を呼ぼうとして、声が出辛いほど喉が涸れていることに気付いた。視線の動きで全て把握した従者は、何も言わずに水差しを傾ける。
「随分と魘されておりましたが…‥」
起こした身体が少し痛む。無理な態勢でもしていたのかもしれない。内容など忘れてしまったが、眠りを害する夢など覚えていないほうがいい。
水を一口飲むと、ようやく肩から力が抜けて、背中をさする手に甘えた。
「…‥ありがとう、
幼いころから共に在る従者は、雪愛のたった一言で顔を綻ばせる。花韮のような笑顔に、雪愛も釣られて頬を緩ませた。
「もう少し、眠られたほうがよろしいかと」
朝の水仕事を終えた後なのだろう、ひんやりした指先が雪愛の目元を撫でた。玖乃の手付きと憂患を滲ませた目を見れば、鏡がなくても隈が出来ていることぐらいよくわかる。
「そうはいかない。もう皆起きるでしょ」
浮足立った気配をいくつか感じていた雪愛は、従者の手に擦り寄り、重い睫毛の間から見上げる。
思わず舌をのばしたくなるほど甘美な飴色の瞳に、惑わされるような短い付き合いではない。が、わかりやすく甘え強請る姿には、弱い。もうひと眠りさせようと思っていたが、大人しく手を引いた。
「今日は…‥薄色がいいな」
「仰せの通りに」
恭しく下がる頭を横目に、単衣に手をかける。露わになった雪を欺く肩、寝苦しかったせいかじっとり汗ばんだ額に張り付く伽羅色の髪、熱のこもった吐息。見るものすべてを魅了する絶世の美貌を持つ雪愛は、付き合いの長い玖乃の前だと、だらしない。
身に纏っていたものは床に放り、与えられた着物に袖を通す。帯を締めるのも、髪を整えるのも玖乃だ。雪愛の望み通り用意した、鈴蘭が咲く薄色の羽織を肩に掛ければ、ようやく主人の背筋がしゃんと伸びる。
自国では『都の宝石』と称えられた彼を飾り付ける役割は、未だに緊張してしまうが、薔薇より鮮やか、百合よりたおやかな姿を、誰より早く見られることは何よりの
「ありがとう」
「勿体ないお言葉です」
着替えを終えた雪愛の顔色は、寝起きよりも随分と好い。とはいえ寝不足の事実は消えない。今日一日は目を離さないでおこう、と耳元のピアスに手を触れた。銀のフーププレートの中心で揺れる青真珠、清廉な印象の玖乃が身につけるには少し大振りな耳飾りで、自分からは選ばない意匠だが、雪愛からの贈り物となれば話は別だ。椿も恥じらう笑みを浮かべ彼が手渡したものならば、海を漂う藻でさえも宝石以上に輝くだろう。そう思っているのは、玖乃だけではないはずだ。
圧倒的な美の前では、常識など霧散する。その瞬間を、一体何度見せられただろうか。
「雪愛、入るよ」
「はい」
ノックもせず掛けられた声に眉を寄せたのは玖乃だけ。雪愛は一瞬で意識を扉の向こう、声の主へ飛ばし、頬に桜を散らす。
「
「おはよう
返事を待ってから姿を見せたのは、ここの長を務める桜海。一つに結い上げた黒髪を揺らし雪愛に近づくと、鼻と鼻が触れそうな位置までかがみ、彼の目元を撫でる仕草をした。実際には触れていないが、涼しげな深海色の目をきゅっと細めながら覗き込まれると、朝から心臓が駆け出してしまう。
「…‥山笑う頃だから、遅咲きなのかと思えば、夜の目も寝ずになにかしていたのかい」
穏やかな声に、雪愛は口の中を少しだけ噛む。寝不足なのがばれている。
「別に、そういうわけじゃ、」
「魘されておいででしたから、寝たくても寝られなかったのでしょう」
口籠る雪愛に助け船を出したのは、放られたままだった単衣を腕に抱えた玖乃。洗いに出すだろうそれを、わざわざ畳むのは彼の几帳面さ故。
「魘されて…‥悪い夢か」
「夢は記憶の整理、とも言われております。魘されるほどのものをご覧になった、ということは、夜の帳が下りるまでに、原因と成りうることがあったのでしょう。そう思われませんか、桜海様」
薄ら笑いを張り付けた玖乃は、雪愛の肩を抱き寄せ、桜海から距離をとる。三度瞬きを繰り返した桜海だったが、心当たりがあるのか、額を掻きながら小さく唸った。
「あー…‥無きにしも非ず。ボクのせいだ、悪かった、雪愛」
「よして。お互い様、でしょう」
桜海の横をすり抜け部屋から出る雪愛の背を、二人が追いかける。昨晩桜海と雪愛は小さな口喧嘩をした。それをきっかけに悪夢を見てしまうなんて情けない、と雪愛は誰にも気づかれないよう息をついた。
朝食の準備に向かう玖乃と別れ、桜海と雪愛は朝の日課、甲板へと向かう。
褐色の木材で作られたこの船に、名前はない。界隈では、海の女神や女性の名を冠する船が多いが、船員たちが名前を呼び崇めるのは、船長である桜海だけで充分。
雪愛は、いつの間にか自分の前を歩いている桜海の背中を見つめた。女性にしては体格が好く、身のこなしに隙がない。揺れる長い黒髪の艶やかさに、口元が緩んでしまうのはいつものことだ。
「今日は終始穏やからしいよ。順調にいけばね」
「それは何より」
甲板へと続く扉を、桜海が大きく開け放つ。
鼻先を撫でるのは、故郷よりも硬く甘い風。胸へ入り込むのは、指先まで痺れさせる刺激的な潮の香り。
扉を抑えたままの桜海に促され、雪愛が先に甲板へと踏み出した。
清々しい空の中、穏やかに踊るのは、海よりも青い旗。髑髏が描かれたそれは、海賊旗だ。黒でなく色の旗を掲げる海賊【
「確かに…‥風が落ち着いている、けど」
風をより感じられるように手を挙げた雪愛は、指先の感覚に眉を顰める。なにかが、おかしい。
「どうかしたかい」
「いや…‥なんか、気持ちが悪くて」
言いようのない不快感の原因を探ろうと、挙げていた手で帯に差した鉄扇を引き抜き、意識を集中させる。雪愛は風属性の魔術を扱うことに長けている。鉄扇を中心に表れた魔法陣が淡い緑に光りだす。天候まで読み解くことは出来ないが、風の流れと対話することは容易い。
「…‥流れが、ふたつ?ひとつには、魔力が込められているみたい」
納得のいかない表情のまま鉄扇を差し直し、空を仰ぐ。船に異変が起きたのは、同時だった。
「あれ…‥帆が」
雪愛の指摘に釣られて顔を上げると、風と睦まじく船を運んでいた帆が畳まれていく。風は強いわけでも、ましてや止んだわけでもない。その証拠に、強さを誇る青い旗は気持ちよさそうに踊っている。
この船は人力では帆を張らない。舵輪に魔力を流し、エルツ『ヒンメル』を通して船全体に指示を送るだけでいい。最悪一人でも容易に動かせてしまえるため、巷では船の盗難が多いが、その対策として紺碧では船を操縦できる者を制限している。船長の桜海、副船長の雪愛、そして航海士のリノ。
「ごめんなさーい。ちょっとロウラが変なの!」
船を止めたのが自分たちではないことが明白だったふたりは、予想していた声に振り返り、予期しない内容に首を傾げる。船尾にある展望デッキ【星の窓】から身を乗り出したリノに手招きされ、軽く助走をつけて柵を越えると、「中から来てよ」眉を顰められた。「呼んだのはそっちだろ。なぁ」肩を竦め雪愛に同意を求めるが、彼は来ていない。
「ほら、雪愛くんは横着しないよ」
「ちぇ」
鼻先を滑らかな人差し指がつつく。見目に気を遣うリノの爪は、甘いアプリコットオレンジで彩られている。いつ見ても色が欠けることがなく、こまめに塗りなおされる花弁には、最早尊敬してしまう。
「ふふん。いいでしょ、新色なの」
「似合っているよ」
「ありがとう」
桜海に流行り廃りはわからないが、本人が満足していて、且つ魅力的になっているなら充分だろう、と少女のように喜ぶリノに微笑んだ。ほら見てごらん、と踵を返すリノのスカートがふんわり揺れるのを、つい目で追ってしまった。
「こんなに点滅してるの、初めてで…」
「本当だ」
星の窓の中央に鎮座する金色の魔道具【ロウラ】は、海の観測エルツ『ヴィアベル』と、大地の観測エルツ『プレリエ』をより効率よく扱うことができる優れものだ。エルツ『ヴィアベル』は海底に沈む海のエルツ『メア』の波動を読み取り、記憶した『メア』と『メア』を繋ぎ、船をその地点へと送る力を持つ。エルツ『プレリエ』も同様の能力を持つが、大地のエルツだった『オアーゼ』は、その強い力に目を付けた人間に取りつくされてしまい、エルツ『プレリエ』が波動を観測し、空間を飛ぶことは出来ない。それでも船に『プレリエ』を搭載するのには理由がある。
「地図にない島」
「…‥そんなの、しるし崩れかと思ってた」
「雪愛の言う通りだろう。そのために『プレリエ』があるんだから」
部屋に入ってきた雪愛は、バルコニー近くに立つ桜海を眩しそうに見つめたあと、緑色に点滅するロウラを物珍し気につついた。
エルツ『オアーゼ』は取りつくされたものの、根付いていた場所に僅かな痕跡を残した。正確な地点まではわからないが、エルツ『プレリエ』はそれに反応する。しかし島が近づくたびに光られては航海の妨げになるだろうと、地図にはない大地を観測したときだけ光るようにロウラによって制御されている。
「それは世界地図が生まれる、少し前の知恵だよ。冒険家クル・ア・イズが完成させた地図のおかげで、『プレリエ』は本来不要になるはずだったの」
「でも、あるね」
このロウラは入手した当時の最新機種だったが、エルツ『プレリエ』が必須だったはずだ、と雪愛は首を傾げる。リノは肩を竦め、ロウラをひと撫で。
「初期の開発者、魔導士ザン様が、エルツ『ヴィアベル』『プレリエ』の両方が嵌められないと動かないよう構築しちゃって…‥それを書き換えられる魔導士が、未だにいなくてね」
「君でもか」
「僕なんて、とてもとても」
謙遜するリノに、桜海と雪愛は顔を見合わせ、小さく笑った。この航海士がどれだけ優秀な魔導士かを知っているのは、自分たちだけで充分だ。
「…‥と、まぁ、世間一般論を述べたところで、こうして点滅したからには、一度辺りを調べるのが安全かと思ってね。船長の許可なく船を停止させたこと、許して欲しいな」
「勿論」
そういうことなら、と桜海はバルコニーへ踏み出し、甲板を見下ろす。船の異変に気付いた船員たちの視線が一気に集まると、その中の赤に向かって薄く笑いながら、柵に体重を掛ける。
「サトリ!今すぐこの近郊に使者を放ってくれないかい。どうやら地図にない島があるみたいなんだ」
「…‥どれくらい?」
呼ばれた少年は、懐から少し大振りな銀の鍵を取り出し、軽く振った。
桜海が振り返ると、地図を見ていたリノが日の光を浴びる。
「エルツ『プレリエ』は十海里までしか反応しない筈。地図にあるのは西に十五海里先の島だけだから、万が一にもそれに反応している可能性はないね」
「四方十海里だ」
「わかった」
すぐさま構えたサトリの手元が輝き出し、何もない空間から現れた大きな鳥が、彼の指示に従って飛び立っていく。紺碧最年少サトリは、
「悪いね、不寝番明けなのに」
「別に…‥」
しばらくその場で待つつもりなのだろう。いそいそと甲板の隅にある樽の上で丸まる様は、まるで猫のようだ。
「さーて、これぞ航海の醍醐味だね」
雲一つない空に、桜海は皮肉気に笑った。
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