カミサマの嫉妬
家の向かいにある寺の鐘を、更に厚く荘厳にしたような音が、耳どころか脳や胸に強く響いた。気をつけなければ意識を持っていかれる。それほど重厚な音。
ボクはその音に彼を連れ去られないよう、もう二度とこの腕から離さないように、抱きしめた腕の力を増した。彼もそれに応えるかのように、ボクの腰に腕を回した。伽羅色の柔らかな髪が、揺れる。
月明かりも届かない森の中で立っているのは、ボクたち二人だけ。音による圧が、ボクたちの膝を折ろうと益々轟音が酷くなる。お互いの体重を預け合いながら必死に立ち続け、木よりも高い位置に浮かぶ、闇より黒い影を睨み上げる。
「―――」
胸元に彼の吐息を感じた。釣られて視線を下げれば、きっと何か伝えようとしたのだろう、春に散る花弁と同じ色の唇が薄く開いている。しかしこの轟音の中では、彼の声がボクの耳を撫でることはできなかった。ボクも彼の名を呼んでみたが、自分でさえも言葉を発したのか分からなかった。
見上げてくる甘い飴色の瞳が、あまりにも不安げに滲む。どうにか安心させたいが、ボクにはその術が思いつかなくて、左手で伽羅色をひと撫でした。この両手が守れるものは、とても少ない。何度もそう実感させられる。
一を捨てて一を守る。それぐらいなら誰だって出来る。それなら十も百も守って、結果一捨てることになったとしたら、どう思う。
恰好良いと思うか。
馬鹿言うな。これほど独りよがりで間抜けなことがあるかよ。
守りたいものを守り抜いたその後に、お前がそいつの肩を抱く。それ以上に恰好良いことなんてねぇだろ。
いつだったか、しわしわの顔にこれでもかと皺を寄せまくった爺に言われたことを思い出した。…いや、違う。あの言葉を、一度だって忘れたことはない。
一も十も百も千も、守り抜く。何も捨てずに、この手で必ず。そう、心に誓ったというのに。いくら強く思おうとも、成し遂げられないことは尽きない。
無力なこの手は、彼を包むことしかできない。
『愚か者たちよ』
轟轟と鳴り響き続ける重低音の中、直接脳みそに叩き込まれる言葉は、疳積を起こした女性の高すぎる声。目の前がちかちか光るほどの高さに、彼の肩が小さく震えた。
『我の意に背くなど、覚悟はできておろうな』
黒が蠢く。にゅっと伸びた影は女の腕ほどの細さで、真っ直ぐこちらに向かっている。手を、伸ばしているのだ。彼に。
理解した途端、頭の隅で火花が弾けた。
「っ、手前ぇ!
背負った大太刀を引き抜き、勢いをそのままに影を斬る。手応えは軽い。しかし、斬った黒い腕は確かに地面に落ち、同時に女の悲鳴が脳を突く。
『おのれ、おのれおのれおのれえええええ』
落ちた影から更に細い影が生まれ、鉄砲玉の勢いで飛んでくる。彼を抱えて一歩後ろに跳ぶが、あまり意味はなく、刀を振るうのを躊躇している間に触手のような細い影たちが雪愛もろとも絡めとる。
「っく、」
ぞわぞわと、まるで小さな虫が大量に身体に纏わりつき動き回る、そんな気持ちの悪い感覚に鳥肌が立つ。払い除けようと身を捩っても無意味で、かさかさ、さわさわ、耳の奥まで犯される。視界までも徐々に黒点に奪われていく。抱いていた伽羅色の頭も見えなくなり、もう自分の意思で目を開けているのか、それとも閉じてしまったのかさえわからない。それでも、この腕だけは緩めるわけにはいかない。腰に回っている彼の腕も、少しだけ力が増した気がした。
『呪ってやる、呪ってやる、呪ってやる、呪ってやる』
女の声が何重にも聞こえてくる。高いだけだったのに、まるで子供のようなあどけなさを含んだり、成長途中の少年特有の乾きを含んだり、ひとりの声ではない。頭を割る勢いの呪詛から逃げたくなるが、耳を塞ごうにも手はあいていない。ボクにできるのは歯を食いしばり、彼を強く抱いて存在を確かめること。
『呪ってやる。おまえたちは、もう、だれにも、愛を伝えられない』
ずくんっ、強く胸を打ったような鈍い痛みと共に心臓が大きく跳ねた。逃れられない呪詛に身体中を縛り付けられる。息が、苦しい。
腕と身体の間にも、ぞわぞわ、触手の影が入り込む。視界を奪われたせいで、本当に小さな油虫に犯されているようだ。ボクが虫嫌いの女性であったなら、今頃発狂しているだろう。気のせいかもしれないが、ぶんぶん、羽をはためかせる音まで聞こえだす。
彼は、虫は平気だっただろうか。儚げな見た目の割に肝が座った立派な男だから、叫ぶほど嫌いではないはずだ。
それにしても…上手く、息が吸えない。
彼も同じ状況なのか、腕の力が少し弱まり小さく震えている。頭に酸素が回らなくなり、意識が徐々に薄れていく。それでも呪いの声だけは脳みそを揺らし、気を飛ばすことを許してはくれない。
『呪ってやる。おまえたちを、だれからも、愛されないように』
胸の苦しさが増し、萎みきった肺に空気を送ろうと、口を開く。途端、待っていたとばかりに触手が口内にまで侵入する。耳奥では呪詛と羽音が響き頭を揺らし、口の中で更に奥へ奥へと蠢きまわる感覚が広がり、身体中を纏わりつき這い回る影。
いくら嘔吐いても、影は身体の中へ入り込み、呼吸も苦しいまま。それどころか高熱を出したときのように全身が内側から火照り、立っていられないほど力が抜けていく。
もう彼を抱きしめているのかさえ、わからなくなる。
『許さない』
体内に侵入してくる影の量が一気に増える。火照り、なんて優しいものではない。沸騰した湯のほうがよっぽどぬるいと感じるほどの熱が、身体を溶かそうとしてくる。このまま皮膚も骨もどろどろになり、この身は形がなくなるのかもしれない。
『我の怒り、その身体にしかと刻んでやろう』
左胸に刺すような痛みが走った。しかし、この溶けるような熱さと息も出来ない苦しさのせいで、痛みはすぐに薄れる。
『おまえたちを殺すのは、愛だけだ』
息も出来ないほどの愛情が、大きすぎる愛を伝えられない苦しみが、おまえたちを蝕み、その身を滅ぼすだろう。
まるで、御伽噺の幕開けみたいだ。
高笑いが徐々に小さく遠くなり、影が去っていく。同時に熱も収まるが、息苦しさだけは変わらない。影から解放された身体はもうボクの言うことなんて聞いてくれなくて、遂に膝を地面に付けてしまった。強く抱きしめたままだった雪愛の身体は、心なしかいつもより小さいし柔らかい気がした。気を失っている彼から腕を離し、そっと地面に横たえると、今までの苦しさが嘘のように胸が楽になる。
その意味を、ボクは深く考えないまま、彼の隣で意識を手放した。
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